2024年8月24日土曜日

汗がポタポタ

今年は会えないかなと諦めかけていたら咲いていました。
ヒオウギは、例年なら祇園祭りの頃に咲いてくれます。
それにしても暑いですね…
屈んで撮影しようとしたら汗がポタポタ落ちてカメラを濡らすのであせりました。

【台風10号】 27日以降 西~東日本に接近か 大荒れのおそれ」(NHK)
朝ドラ「虎に翼」第21週「貞女は二夫に見えず?」 (105) 

主文
私たちは、申立人の夫婦それぞれの姓での婚姻関係を認める。

理由
民法において夫婦は、どちらかの氏を名乗ると決められてはいるが…。
姓を変えることは夫婦どちらかの社会生活に不利益や不都合をもたらすおそれがある。
名前を変えることで自分が失われると感じる人もいる。
夫婦のどちらかが、それを負うのは平等とは言えないのではないか。
同じ姓を名乗ることが夫婦や家族であることの証しにはならないと考える人もいる。
同じ姓を名乗るかそれぞれの姓を名乗るかは申立人の夫婦間で自由に決定するべきである。
それは憲法により保障された権利のはずである。
よって星航一と佐田寅子のそれぞれの姓での婚姻関係を認め主文のとおり決定する。
我々の主張には法的効力はないがこれを二人への結婚の祝いの言葉とする。
日本評論社法律編集部の投稿(8月22日)

今週の #虎に翼 小ネタ🐯
寅子のモデル・三淵嘉子が、航一のモデル・乾太郎と再婚したのは1956(昭和31)年のことでした。
当時、夫婦同氏はどう捉えられていたのでしょうか。
戦後民法改正で臨時法制調査会委員も務めた
民法学者・中川善之助の著書『法学』に、婚姻に伴う改姓に関する記述がありました。
著書は、品切れになっているようです。
画像↓から最後の部分を転記しますφ(.. )

中川善之助著 『法学』1966(昭和41)年 初版

 …前略…

 私は、夫婦だからといって、氏を一つにしなければならぬ必要は少しもなく、夫は夫の氏を、妻は妻の氏を称すること、アジア古来の慣行通りであっていいと思う。
むしろそれこそ個人の尊厳の上にたつ婚姻共同生活の呼称上の在り方だとも思う。
しかし今日はまだ、日本の男も女も、一方には西洋人が古くからのキリスト教的伝統に従って夫婦同氏の原則を守っていることに安心し、他方では、自分たちの胸底に残る家父長制意識に支えられ、夫婦別氏ということを考えないようである。
人々に法的確信が湧いて来ない間は、法規範も生まれて来ないし、生まれても育たないのだから、その意味で、新法の規定を非難する積りは、私にないが、近い将来に問題となるべきことだと思う。
寅子が「佐田」姓を名乗っているのは史実ではないとの投稿を見ました。
このドラマは、様々な史実を織り込みアレンジしています。
嘉子さんは、結婚して三淵嘉子となりましたが、
子どもは男の子で「和田」の姓を受け継いでいます。
ドラマでは、息子でなく娘になっているので、娘が結婚したら佐田の姓を受け継がない可能性がありますね。
昨日の高校野球の決勝戦、緊迫の一戦でしたね。
見ていると心臓に悪いのでチラッチラッと見ていました(^^ゞ
京都国際学院が優勝し、校歌が流れるなか関東第一の応援団から手拍子が贈られました。
SNSでは、心ない投稿があるようで「東海」の歌詞を批判するような書き込みがあるとか…

日本でも「東海」が歌詞に含まれた歌があります……
第5話 軍歌と万歳の旗の波―昭和12~13年
 ●「愛国行進曲」と「海行かば」


 …前略…

 さらに、それに蔽いかぶさるように、内閣情報部が公募して選定した国民歌謡「愛国行進曲」がレコード会社に押しつけられてくる。
馬場鍈一内務大臣があらかじめ各レコード会社幹部を呼びつけ、「愛国的見地から」レコードをつくるように強く要請してあった。
歌詞公募の締切りは十月末であると説明する。
(『B面昭和史 1926-1945』半藤一利 平凡社ライブラリー 2019年)
 こうして大々的に募集が行われ、じつに5万7千5百78通のおびただしい応募があって、当選発表は11月3日、鳥取県の森川幸雄という23歳の青年詩人の作。
これに選者でもあった北原白秋と佐佐木信綱が手を入れた。
さらに作曲が公募されて11月末に締切りで9千5百55曲が応募。
当選したのは退役海軍軍楽長瀬戸口藤吉。
例の「守るも攻めるもくろがねの」のマーチの作曲者である。
と万事がお上のほうでお膳立てができていては、レコード会社が否や応のという余裕などなかった。
お墨付で6社から強制的に同時発売という華々しい演出も効果をあげた。
こうして国家公認の愛国歌がラジオとレコードでいっせいに日本中の町々に流れでた。
売れることじつに百万枚という。
 これはさすがにわたくしもとぼけるわけにもいかず、いまでも歌えます、と申しあげるほかない。

  見よ東海の空明けて 旭日高く輝けば
  (…中略…)

 わざと振りガナをつけないでかくが、すらすら読める、また歌える方は、恐らく七十歳以上に限られるであろう。
同時に、その方々は対米英戦争がはじまってからのちに、つぎのような替え歌をおっかない軍国大人たちに聞かれないところでひそかに、そして大いに歌ったのではあるまいか。
 「みよ 東条のはげ頭 旭日高く輝けば
  天地にぴかりと反射する 蠅がとまればつるとすべる
  おお清潔にあきらかに そびえる禿の光こそ……」

 …後略…

(『B面昭和史 1926-1945』半藤一利 平凡社ライブラリー 2019年)

金鵄上がって十五銭 ~昭和18年~」(NHKアーカイブス 1981年)
他の替え歌も紹介しています(^_-)
替え歌から銃後の庶民の本音が見えてきます
私たちが気づかないところで、在日コリアンがスポーツ界で活躍されています。

 第2章 プロ野球と在日コリアン
  阪神タイガースの躍進を支えた三人の在日コリアン


 例えば、阪神タイガースには、金本、新井、桧山という三人の朝鮮半島にルーツを持っている在日コリアンの選手がいる。
しかし、この三人の在日コリアンとしての生き方はそれぞれ違っている。
(『僕たちのヒーローはみんな在日だった』朴 一 講談社 2011年)
 三人の中で在日コリアンとして民族志向が最も強いのは桧山進次郎選手である。
彼は、在日コリアンのプロ野球選手としてはめずらしく、自分が在日コリアンであることを隠さずにマスコミで語っている。
1969年、京都に生まれた在日コリアン三世の桧山選手の本名は黄進煥(ファンジンファン)。
2003年に阪神タイガースが星野仙一監督のもとで18年ぶりの優勝を果たしたとき、桧山選手は選手会長としてチームを常勝軍団にまとめあげた。
当時、ある新聞のインタビューで、プロ野球界における在日コリアンの存在について聞かれた彼は次のように語っている。

「日本のプロ野球には帰化している選手も含め韓国人は多い。一線で活躍している人のほとんどが韓国人って話もある。食生活の違いもあって、体がもともと強いって事情もあるんですかね。そのうえ負けん気も強い」(『統一日報』2004年1月1日付)
 FAで阪神タイガースに移籍した新井貴浩選手も、高校生のときに韓国の全国高校野球大会に民族名の朴貴浩で出場し、在日チームの中心打者として活躍したことがある。
広島東洋カープ入団後は猛練習を重ね、チームの四番打者を任されるホームランバッターに成長し、2005年にはシーズン43本塁打を打ち、セ・リーグのホームラン王に輝いた。
新井選手が愛する広島東洋カープを去り阪神タイガースに移籍した背景として、同じ在日コリアンで彼が兄と慕う金本知憲選手の存在が大きい。
 広島出身の在日コリアン三世である金本選手は、地元の名門・広陵高校を経て東北福祉大学に進学。
大学時代に全日本大学選手権で優勝した経験を持っている。
幼いころから熱狂的な広島東洋カープのファンであった彼は、大学卒業に念願だった広島に入団。
入団後はその負けん気の強さを発揮し、猛練習で強靱(きょうじん)な身体を作り上げ、赤ヘル軍団の不動の四番打者に成長した。
その後、広島での活躍を認められ、2002年オフに阪神に移籍。
同じ在日コリアンの桧山選手とともに、星野監督率いる阪神タイガースを優勝に導いた中心選手の一人である。
金本選手のご両親は現在も韓国籍であるが、金本本人は2001年の結婚を機に日本国籍を取得している。
 このように金本選手・新井選手・桧山選手は、名前だけでは在日コリアンだとわからない。
そんなインビジブルな(見えない)在日の選手がプロ野球に大勢いたことを、どれだけ日本人ファンは知っているのだろうか。
記憶に残る外国人のプロ野球選手を日本人に挙げてもらうと、王貞治や郭源治などの台湾選手を除くと、ランディ・バースやラミレスなどのアメリカや中米出身の選手が多い。
しかし、日本のプロ野球に在籍した外国人の中で最も人数が多いのは韓国・朝鮮籍を持つ在日コリアンの選手である。
 彼らの中には、すばらしい記録を残している選手が少なくない。
ところが、彼らの大部分が日本名でプレーしているため、外国人選手として記憶されることはない。
また日本国籍を取得し、朝鮮半島出身者という出自を隠してプレーしている者も多い。
そのため、大リーグの朴賛浩(パクチャンホ)(2011年から日本のオリックスに移籍)のように韓国系のプレイヤーとして認識されることはめったにない。
 日本のプロ野球の発展に大きな足跡を残した在日の選手たち

 日本のプロ野球の歴史上の人物の中で在日コリアンとして忘れられないプレイヤーは、戦中から戦後にかけて巨人で活躍した中上英雄(結婚前は藤本英雄、本名・李八龍<イパルリョン>)である。
中上は下関商業高校から明治大学に入学し、東京六大学の黄金時代を築き、卒業後は巨人に入団。
1955年に引退するまで、200勝87敗、シーズン最高通算防御率0・73などという投手として輝かしい成績を残し、1976年に野球殿堂入りを果たしている。
中上と同時代に巨人と死闘を演じた阪神タイガースには金田正泰(本名・金正泰<キムジョンテ>)がいた。
金田正泰は、阪神で藤村富美男とクリーアップを組み、1946年には戦後初の首位打者のタイトルを獲得している。
金田は引退後の1960年には阪神の監督にも就任した。
…後略…
(『僕たちのヒーローはみんな在日だった』朴 一 講談社 2011年)

八連勝の藤本投手 -日本野球-<スポーツ>」(NHKアーカイブス 1949年)
今朝の父の一枚です(^^)/

ナツズイセン ヒガンバナ科
 私の通っていた大学の構内にはナツズイセンの大きな1株がありました。
春にスイセンに似た、粉を吹いたように白みをおびた緑色の葉をいっぱい出すのですが、梅雨の頃、いつの間にか葉が枯れてしまい、地上から姿を消してしまいます。
その様子はまるで、4月には授業に出るけれど日がたつにつれて大学に姿を出さなくなる私のようなずぼらな学生の生活にそっくりで、何とも親しみを感じていました。
夏休みに、たまたま立ち寄ったその場所で一斉に花を咲かせている姿を見て、負けた、となぜか思ったものでした。
●分布:帰化植物(中国原産)
●花期:8月~9月
(『花のおもしろフィールド図鑑(夏)』 ピッキオ編著 実業之日本社 2001年)