2024年8月16日金曜日

降りそうだな…

青空が見えていたけど次第に黒い雲が空を覆いだした。
母と一緒に歩いていた頃、急に土砂降りになったことがあったので
用心していつもより早目に帰りました。
台風の影響かな?

【台風7号 最新情報】夜遅くにかけ関東に最接近 千葉 暴風域に」(NHK)
 朝ドラ「虎に翼」第20週「稼ぎ男に繰り女?」 では、
「竹もと」で、梅子が作った餡の出来栄えの審査を桂場が行っていますね(^。^)
桂場の厳しい審査は、店主&女将が引退するのを引き留めるためもあるのかな?
「竹もと」のモデルになっている「竹むら」を愛していた作家がいました。
 神田・連雀(れんじゃく)

 私が六つか七つのころ、母が、こんな流行歌を唄(うた)っていたものだ。
「肩で風切る学生さんに
 ジャズが音頭(おんど)とる
 カンダ カンダ カンダ……」
 そしていまも、私にとって、神田は学生の町、古本屋の町である。
 さらに、幼少のころからなじんだ食べものが存在する町でもある。
(『散歩のとき何か食べたくなって』池波正太郎 新潮文庫 1981年)
 小学生のころ、十二月になると、私は母から早目のお年玉をもらい、これを持って神田の古本屋へ、正月の学校休みに炬燵(こたつ)の中で読む小説を買いに出かけたものだ。
 小学校の五、六年生ともなると、大人が読む小説を見たくてたまらなくなる。
少年雑誌に書いている作家が、大人のために書いている小説は、私たちにとって、
「驚異そのもの……」
 だった。
 そうした私たちを見て、私たちを担任しておられた若いT先生が、
「よし。それなら、オレがいっしょに行って、値切ってやろう」
 そういって、わざわざ神田までついて来て、私たちがえらんだ小説本を、いちいち値切ってくれたりしたものだ。
 こういう先生が、子供のころの私たちを教育してくれたことは、四十年後の、いまの私たちへ大きな影響を、それぞれにもたらしている。
T先生は、生徒の一人一人の個性を、強いて矯(た)めるようなことをしなかった。
 さて、こうして……。
 私たちの、ささやかな古本漁(あさ)りが終ると、先生は連雀町の汁粉屋〔竹むら〕へ連れて行き、汁粉を食べさせてくれたものだ。
 ところで、東京の汁粉屋というものについてだが、私の小説の中で、盗賊改方の若い同心が、足袋屋のむすめを浅草の新堀端(しんぼりばた)にある竜宝寺門前の汁粉屋・松月庵(しょうげつあん)へよび出し、逢引(あいびき)をするシーンがある。
ちょっと、引用させてもらおうか。

(…省略…『鬼平犯科帳 2』「お雪の乳房」を参照してください)

 などと、書いている。
 汁粉屋というものは、このように、男女の逢引にふさわしい風雅な、しゃれた造りでなくてはならぬ。
その風(ふう)が、戦前の東京の汁粉屋には、かなり面影をとどめていたのだ。
 浅草の奥山にあった〔松邑(まつむら)〕などは、その代表的なものだったが、昭和の時代となっては、二人きりになれる小座敷もなく、むろん、酒も出さぬ。
しかし、若い女の好む甘味につき合う男たちの出入りは絶えなかった。
 神田連雀町の〔竹むら〕へ行くと、戦前の東京の、そうした汁粉屋のおもかげが、まだいくらか、名残りをとどめていて、私には、それがうれしく、なつかしい。
 椅子(いす)席の他に、入れ込みの座敷があり、ここへ坐(すわ)って、酒後に粟(あわ)ぜんざいを口にするのは、なかなかよい。
酒後の甘味は躰(からだ)に毒だというが、酒のみには、この甘味がたまらないのだ。
 〔竹むら〕が旧態をとどめているのは、神田連雀町一帯が戦災をまぬがれたからであって、あんこう鍋(なべ)の〔いせ源(げん)〕も、鳥屋の〔ぼたん〕も、蕎麦(そば)の〔藪(やぶ)〕も、むかしのままの店構えだ。
 戦前の私は、仲よしの友だちと、これらの店で、よく酒をのみ、それから目と鼻の先の〔竹むら〕へ入って粟ぜんざいを食べた。
 先(ま)ず〔藪〕で、みんなと待ち合わせる。
酒を一、二本というところか。
顔がそろうと〔ぼたん〕である。
〔寿司長(すしちょう)〕である。
それから〔竹むら〕というふうに、まるで軒から軒へ食べ歩いた。
 しかるのち、竹むらの名代〔揚(あげ)まんじゅう〕をおみやげに包んで包んでもらう。
このおみやげを殊勝に家族のものへ持って帰るのかというと、そうではないのだ。
 これからあとに、われらの真(しん)の目的があるわけで、揚まんじゅうは白粉(おしろい)の匂(にお)いのする生きものの口へ入ってしまうのである。
 いまも〔竹むら〕の粟ぜんざいの、香ばしく蒸しあげた粟となめらかに練りあげた餡(あん)のコンビネーションは依然、私の舌をたのしませてくれる。
 それに、この店の女店員のもてなしぶりのよさはどうだ。
いかにも、むかしの東京の店へ来たおもいが、行くたびにするのである。
    *

 神田の連雀町という町名は、昭和のはじめに消えてしまい、現代(いま)の千代田区・神田須田(すだ)町一丁目と淡路町二丁目の間が、むかしの連雀町ということになる。
 およそ四百年もむかしに、徳川家康が豊臣秀吉によって関東へ封ぜられ、草深い海辺の村にすぎなかった江戸の地へ本城をさだめて以来、江戸は急速に発展し、ついには徳川幕府の〔本拠〕となるに至った。
 秀吉が歿(ぼっ)し、家康の実力が、ようやく〔天下人(てんかびと)〕としての威風をそなえるようになった慶長年間に、商人たちの品物を背負うための用具である連尺造(れんじゃくつく)りの職人たちが、この土地へあつまっていたところから〔連雀町〕の町名が生まれたのだそうな。
 私どもの年配から上の人びとが、旧町名をもって、いまも、この町すじをよんでいるのは、ひとえに、町すじがむかしの東京の匂いをただよわせているからなのだろう。

 …つづく…

(『散歩のとき何か食べたくなって』池波正太郎 新潮文庫 1981年)
今朝の父の一枚です(^^)/
田んぼを通りかかるとスタッフの方がいたのでお聞きすると
試しに、今年初めて植えたのですが、こんなに大きくなったのでビックリしたそうです。

 マコモ 真菰・蔣
 イネ科マコモ属
分類 多年草
学名 Zizania latifoia
古名 花勝見(はなかつみ)
別名・異称 真菰筍(まこもだけ)
『本草和名』 菰根古毛乃禰(こものね)
『和名類聚抄』 古毛(こも)菰首古毛布豆呂(こもふつろ)古毛豆乃(こもつの)

 『隋書東夷伝』に「倭人は草を編(あ)んで薦(こも)となす」と書かれているように、日本では古代から地面に敷く敷物あるいは荷物を包むシートとして、マコモの「薦」はイネの「蓆(むしろ)」と並びポピュラーで便利に使われました。
(『有職植物図鑑』八條忠基 平凡社 2022年)