2024年8月13日火曜日

少しだけ涼しい風

今朝は、吹く風が少しだけ涼しく感じました。
でも日向の暑いこと…(;´Д`)
こちらは雨が降らないのに台風の通り道ができているようです。

台風7号が発生 15日以降 東日本に接近のおそれ」(NHK)
北口榛花さんの投稿(8月13日)
あなた達と競うこの瞬間、繋がる瞬間が私は大好きです🫶
歓喜の声を上げてスタッド・ド・フランスの鐘を鳴らす姿に
こちらまで幸せをわけてもらいました。
その喜びが日の丸をハートマークに変身させたのかな?
すごいなと思うのは、20歳の時に単身チェコに渡って指導を受けたこと。

「うれしいけど うれしいだけじゃ足りない」北口榛花【全文】〟(NHK 8月11日)

私の時代は「根性論」が支配していて北口さんのように
グラウンドでうつぶせに寝そべってカステラを食べていたら怒鳴られただろう。
その姿勢は猫背にならないように背中などをストレッチさせるためだそうです。
つい昔は、クラブ活動の最中に水を飲むことさえできなかった。
北口さんの経歴をみると高校でやり投げをするまでは、競泳とバドミントンでも好成績を残している。
日本の子どもたちは野球なら野球、サッカーならサッカーばかりをする傾向にあるけど
様々なスポーツを経験して体作りをするほうがいいと思うのだけど…
臨時情報受け避難所開設の手順を再確認 和歌山 海南市」(和歌山NHK)
南海トラフ巨大地震については、これまでに何度か紹介していますが

海の巨大地震
 南海地震と東海地震


 四国の沖合から、東海沖をへて駿河湾へとつづく海底の細長い凹地(南海トラフ)では、フィリピン海プレートがもぐり込みつづけながら、超大型の地震を発生させている。
その東にある伊豆半島は、海のプレートに属する大きな火山性の高まりだが、陸のプレートの下にもぐり込むことができずに、関東南西部の陸地を北へ向かってグイグイと押しつけている。
さらに東にいくと、相模湾から南東へのびる凹地(相模トラフ)で、海のプレートがもぐり込みを再開する。
(『地震 なまずの活動史』寒川旭 大巧社 2001年)
 海のプレートの進む速さは、最大で年間10センチである。
先日、手の親指の爪がのびる速さを調べたら十日間で1ミリだったから、年間約4センチということになる。
海のプレートは、爪がのびるより、少し速く動いているようである。
そして、陸のプレートは、この動きに引きずられて歪(ひず)みながら、しばらくはじっと耐えている。
そして、ある限界に達すると、プレート境界の岩盤を破壊しながら、一気に跳ね上がって何メートルもずれ動き、このすさまじい震動が、M8クラスの巨大地震となる。
 64ページの図(「南海地震・東海地震・関東地震の発生時期」省略)では、南海トラフを西からA~Eに5区分しており、A・Bで発生するのが「南海地震」、C~Eで発生するのが「東海地震」である。
 太平洋戦争が終わり、「日本国憲法」が公布された直後の1946年(昭和21)12月21日午前4時19分。
A・Bから昭和南海地震(M8.0)が発生した。
 近畿南部や四国は激しく揺れ、太平洋沿岸地域は大きな津波に襲われた。
徳島県海部(かいふ)郡海南(かいなん)町の浅川(あさかわ)港では、地震の20分後から、3回にわたる大津波(最大波高4.5メートル)が押し寄せ、夜明け前の暗闇(くらやみ)のなかで85名の命が奪われた。
 さらに、高知県安芸(あき)郡東洋町甲浦(かんのうら)から、高知市~須崎(すさき)市~中村市を結ぶ地域が沈降し、逆に、室戸岬(むろとみさき)や足摺(あしずり)岬が、南ほど高くなるように傾きながら、最大1.3メートルも隆起した。
また、愛媛県の道後(どうご)温泉では、しばらくのあいだ、湯が出なくなった。
 この地震の2年前になる1944年(昭和19)12月7日の午後1時35分に、C・DでM7.9の地震が発生して東南海(とうなんかい)地震と呼ばれた。
日本の敗戦が決定的となり、東京が空襲を受けてから13日後の大惨禍。
厳しい報道規制の下で救援物資も届かぬまま、1300名近い命がこの世から消えた。
そして、6日後の13日から、愛知県下が激しい爆撃を受けることになった。
 戦争の終結をはさんで南海トラフから発生した二つの地震は、ともに規模が小さくて、駿河湾内のE地域には破壊がおよばなかった。
 時代を百年近く巻きもどした幕末期。
黒船の突然の来航によって、太平の眠りから引き戻された日本列島に超大型地震が追い討ちをかけた。
1854年(嘉永7・安政元)12月23日の午前9時頃にC・D・Eから生じた安政東海地震。
息つく間もなく、翌24日の午後4時頃、今度はA・Bから安政南海地震である。
 東海地震の直後、伊豆半島から熊野灘にいたる地域を最大波高が10メートル近い大津波が襲った。
そして、東海地震と南海地震の発生に31~32時間の「間」が生じたことが、太平洋沿岸に住む人たちの運命に微妙な「差」を生んだ。
 紀伊半島の南端にある古座(こざ)の人びとは、東海地震の津波に驚いて、着のみ着のままで山へ逃れ、飯を炊き夜を明かした。
翌日、恐る恐る家財を取りに戻ったところで南海地震に襲われたが、すぐに山へかけ登った。
このため、前日を上回る大津波ですべての家が流されたものの、人名が損(そこな)われることはなかった。
 一方、四国の南西部では、東海地震の津波は、わずかに「鈴波(すずなみ)」と古文書に記録されている。
紀伊半島や四国東部のように、前ぶれとして認知できるほどの「津波」はなく、出会い頭(がしら)に南海地震に襲われたのである。
「伊田(いだ)の浜は一面荒磯の如くなり、小舟数隻六反の畑というへ(ママ)打ち上げられ、八十石積の市艇が二艘まではまへ碇を引きながら打ち上げられ、人家は過半海上へ引き出されたり」(『小野桃斎の記録』)という惨状のなか、各地で多くの人が波にのまれた。
 大坂にも波高2メートル近い津波が打ち寄せ、安治(あじ)川の水が逆流した。
前日に続く激しい揺れにおびえた人たちが船に避難していたが、大小の船が折り重なりながら上流へ流され、多くの人が命を失った(『都市大災害』河田恵昭著 近未来社など)。
 「生類憐(しょうるいあわれ)みの令」で知られる五代将軍徳川綱吉。
もう一つの顔は、三つの巨大地震に遭遇(そうぐう)した「なまずを呼ぶ男」である。
 1703年(元禄16)12月31日、相模トラフ(64ページの図F)でM8.2の元禄関東地震が発生した。
4年後の1707年(宝永4)10月28日の午後2時頃、今度はA~Eにかけて東海地震と南海地震が同時に発生した。
ついで、その年の12月13日、富士山の須走口(すばしりぐち)から噴煙が立ち昇った。
なんと、綱吉の将軍在任中(1680~1709)に、フィリピン海プレートの運動にかかわる四大地殻変動が総出演したのである。
 …中略…

 このように、江戸時代から現代にいたる計4回の南海・東海地震を見渡すと、
①ほぼ同時(少なくとも2年以内)に発生、
②両者の規模が同じ程度、
③発生間隔が90~150年、
という三つの特徴が浮かび上がる。
(『地震 なまずの活動史』寒川旭 大巧社 2001年)
この本は、品切れではありませんが、大巧社のサイトを見つけられませんでした。

日本に地震が多いわけ」(小学6年)

南海トラフ地震とは」(気象庁)

1854年 安政東海地震 (安政元年)12月23日」(NHKアーカイブス)

(父は、毎年、お盆が終わるまで家にいます)