お盆が過ぎて心なしかセミの声が小さくなったような…
まだまだ厳しい暑さが続いているけど
木陰で風が吹くと思わず立ち止まってしまう。
「東海や近畿で危険な暑さ予想 すでに猛烈な暑さに 熱中症対策を」(NHK) 朝ドラ「虎に翼」第21週「貞女(ていじょ)は二夫(じふ)に見(まみ)えず?」
の予告編を見ていると
梅子さんが驚いているのは、女子部(+轟)のメンバーが次々と訪れた時の喜びかな?
最後の乾杯の様子をみると梅子さんが竹もとを引き継いだと想像しています。
甘味処なのにビール?で乾杯しているのは、お店の定休日か貸し切りで同窓会を開催したのかな?
私の予想は当てになりませんので、明日からの楽しみに(^^ゞ
「原爆裁判」の判決までに長い年月がかかります(8年)。
〝「虎に翼」の“はて?”を解決!「“原爆裁判”――トラコが担当する歴史的裁判を解説!」①〟(ステラnet) 「神田・連雀(れんじゃく)町」つづき
ま、それほどに、数えきれぬほど足を運んだ連雀町なのだが、同じ町内にある、これも古い店の〔松栄亭(しょうえいてい)〕という洋食屋を、私が知ったのは、つい五、六年前のことだった。
つい先ごろ……というのは、去年〔昭和五十年〕も押しつまってから、久しぶりに、三人連れで松栄亭へ行き、食事をした。
三人それぞれに好きなものをとり、それを三等分して食べた。
先ず、野菜サラダを二皿。
ポーク・ソテーが一、串(くし)カツレツが一、この店の名物・洋風かき揚げが一、カレーライスが一、ドライカレーが一、オムライスが一。
それに酒を四本のんで、三人とも腹いっぱいになり、勘定がいくらだとおもうだろうか……。
(『散歩のとき何か食べたくなって』池波正太郎 新潮文庫 1981年) 金三千六百四十円である。
「はあ。お客さまがね、おい、おやじ、こんな値段で大丈夫か、なんて心配して下さるんですが、これでも私どもは、幾分かは儲(もう)けさせていただいておりまして、ま、一家が何とか食べて暮していけますし、時には、店の改造もできます。そのかわり、材料は、できるだけむだをはぶき、経費を少なくして、お客さまへ還元するというのが、私の、これは性分なんです。うまくて、しかも安い。そういっていただくのが、実によろこばしいですね。ええ、本望です」
と、堀口信夫は、いっている。
私が生まれ育った浅草の町々にも、松栄亭のような洋食屋が、かならず在って、そうした店の主人には、おもいもかけぬ過去がひそんでいたものである。 私が〔その男〕という小説で書いた杉虎之助(とらのすけ)なども、その一人であって、幕末の旗本の子息に生まれ、一流の剣客だった彼が、明治から大正へ烈(はげ)しく転変する時代の中で、小さな洋食屋のあるじとして生涯を終えたわけだが……この松栄亭の初代店主・堀口岩吉には、明治中期に東京帝国大学が哲学教授としてドイツから招聘(しょうへい)したフォン・ケーベル博士との深いむすびつきがある。
〔ケーベル博士随筆集〕一巻は、私も戦前の岩波文庫で愛読したものだった。 初代は、麹町(こうじまち)の有名な西洋料理店〔宝亭〕で仕あげた料理人(クツク)だが、ケーベルの専属となってからの或(あ)る日。
夏目漱石(そうせき)と幸田延子(露伴の実妹で女流ピアニスト)が予告なしにケーベル邸を来訪したことがある。
「何か、めずらしいものを、すぐにこしらえて出して下さい」
と、ケーベルにいいつけられた初代は、突然のことで何の用意もなく、仕方もなしに冷蔵庫の中の肉と鶏卵を出して、小麦粉をつなぎにして塩味をつけ、フライにして出したところ、これが大好評だった。 のちに初代が現在の地で開業したとき、これを〔洋風かき揚げ〕としてメニューの中へ加えたについては、そうした由来がある。
二代目の現当主・堀口信夫と、いずれは三代目になる三男の博も〔洋風かき揚げ〕のなつかしい旧東京の味をまもりぬいて行くことだろう。
まったく、この一品の味わいは、私のような東京の下町で育った者にとっては、なつかしいの一語につきる。
それでいて、いまの若者たちも〔かき揚げ〕もたっぷりとウスターソースをかけて御飯を食べているのだ。 野菜サラダといえば、ポテト・サラダである。これもうれしい。
ロール・キャベツへかけまわしてある熱いソースにも、あじるの入念な仕事が、たちどころに看(み)てとれる。
あるじは、
「近所に、おいしい店もあることですし……」
といって、コーヒーを出さない。
この一語には、あるじの料理と客へ対する考え方が実によくあらわれている深い意味がひそんでいるようにおもわれる。 単に、出された料理を食べるというだけではない。
この店の風格を愛して四十年も食べつづけている客がいるそうな。
そうした客たちは、料理のみならず、この店の、
「雰囲気をこわすまい」
として、懸命なのである。
松栄亭の、うれしい店構えを、あるじも自分勝手に、
「変えることができないんです」
という。 あるじは、築地(つきじ)工手学校を出て、どこかの会社の技師だったものが、会社が倒産して折に、父の業をつぐ決心をしたということだ。
今度、久しぶりに出かけてみると、奥の調理場の一部がカウンターに改造され、三人分の席が設けられていて、店内も小ぎれいになった。
近くの〔藪蕎麦〕で出す酒と同じ桜正宗(まさむね)で食べるにふさわしい洋食なのである。 外へ出ると、師走(しわす)の夜風が、さすがに冷めたかった。
二人の友人たちは、
「何から何まで……」
「完全に、満足しました」
と、いった。
今度、松栄亭へ来たとき、私は、ポテト・サラダをみやげに買って帰ろうとおもっている。
そして、夜ふけの腹ごしらえをするとき、やや厚めに切った食パンの中へ、これをたっぷりとはさみこんで食べながら、ビールの小びんを一本のむつもりだ。
…後略…
(『散歩のとき何か食べたくなって』池波正太郎 新潮文庫 1981年)今朝の父の一枚です(^^)/
第4章 都市の河川や池の水鳥
カワウ 巨大都市に群れる奇跡の水鳥
✤ 見事な編隊飛行
東京の大手町や銀座の上空を、黒っぽい大きな水鳥が飛んでいくのをよく見かける。
時には、十数羽から数十羽もの大群が、つぎつぎとカギ(V字形)になり、サオになっての見事な編隊を組んで飛行するので、しばしば雁の群れとまちがえられることもある。
実は、東京ではすっかりおなじみのカワウの群飛である。
こんな光景が、ビルの林立する首都の中心街で見られるというのも、東京の魅力の一つであろう。
首都の上空を飛び交うカワウの本拠地は、上野の不忍池にある。
池の中にある小島で繁殖し、ここから東京湾や多摩川、あるいは江戸川などに出かけてエサをあさり、夕方になると再び上野に戻ってくるのだ。
東京湾では、アナゴやハゼをエサとして捕えるが、これらの魚が沖合に移動する冬季には、河川や池などにでかけてコイやフナなどをあさるようになる。
カワウは、魚とりの名人である。
皇居のお濠や、江戸川や多摩川では、水にもぐるカワウをよく見かける。
水中に飛び込んだかと思うと、だいぶたってから、思いもよらないところからひょいと水面にあらわれる。
大きな魚をくわえて水中から出てくると、頭のほうから一気に飲み込むのが見られる。
水中ではとった魚を飲み込めず、いったん水面から出てから飲み込むという習性があるのだ。
(『都市鳥ウオッチング 平凡な鳥たちの平凡な生活』著:唐沢孝一、絵:薮内正幸 ブルーバックス 1992年)