低気圧が近づいているせいかなと思いながら横になっているといつの間にか眠っていました。
住んでいる地域では停電はなかったのですが
夜中に落雷とかなかったので何が原因かなと思ったけど
「大阪市と守口市で一時停電 地中の電線の不具合が原因か」(関西NHK)「終戦から79年 武道館で全国戦没者追悼式」(NHK)
今日は平和を祈念する日。
「終戦」という言葉は、庶民が戦争がやっと終わったという喜びを表わす言葉だと思います。
それを戦争を推し進めた権力者が使うと戦争責任を曖昧にするために使う言葉になる。
「敗戦」と肝に銘じるべきです。
朝ドラ「虎に翼」第17週「女の情に蛇が住む?」 で長岡空襲が取り上げられました。
弁護士・杉田太郎を演じた高橋克実さんの父親も
「当時、親父は長岡にある軍需工場で働いていたのですが、その日はたまたま休みで三条の実家に戻っていて、偶然ですが助かりました。
親父はあまり戦争の話はしませんでしたが、あの夜、三条から長岡のほうを見ると、まるで夕焼けのように空が明るかった、それくらい猛烈な火災だったと、何かの拍子にそんな話をしてくれたのを思い出しました。
長岡の花火大会(長岡まつり大花火大会)って有名ですよね? あれは長岡空襲の犠牲者の鎮魂のための行事です。毎年、空襲のあった8月1日に『平和祭』を行って、そのあと2日と3日に花火大会を開くことになっているんです。」(ステラnet 7月26日)
半藤一利さんも長岡空襲を目撃されています。
歴史の中の長岡空襲と新潟
無条件降伏決める
昭和20(1945)年8月1日のその夜、わたくしは、長岡(ながおか)市の西南12キロほど離れた古志(こし)郡石津(いしづ)村(現長岡市)岩野(いわの)にいた。
そんな離れたところからも、円形の炎と煙が数千メートルの上空に達し、その円塔を西から東へ、北から南へ突きぬけながら、B29が数百トンの焼夷弾(しょういだん)を投ずる様を、望見することができた。
村長である伯父(おじ)の家の納屋の屋根に、わたくしは腰かけていた。
(『昭和と日本人 失敗の本質』半藤一利 角川新書 2022年)
はるかな対岸の火に動転し、右往左往している村の老若男女の姿が、むしろ笑止ですらあった。夜中に落雷とかなかったので何が原因かなと思ったけど
「大阪市と守口市で一時停電 地中の電線の不具合が原因か」(関西NHK)「終戦から79年 武道館で全国戦没者追悼式」(NHK)
今日は平和を祈念する日。
「終戦」という言葉は、庶民が戦争がやっと終わったという喜びを表わす言葉だと思います。
それを戦争を推し進めた権力者が使うと戦争責任を曖昧にするために使う言葉になる。
「敗戦」と肝に銘じるべきです。
朝ドラ「虎に翼」第17週「女の情に蛇が住む?」 で長岡空襲が取り上げられました。
弁護士・杉田太郎を演じた高橋克実さんの父親も
「当時、親父は長岡にある軍需工場で働いていたのですが、その日はたまたま休みで三条の実家に戻っていて、偶然ですが助かりました。
親父はあまり戦争の話はしませんでしたが、あの夜、三条から長岡のほうを見ると、まるで夕焼けのように空が明るかった、それくらい猛烈な火災だったと、何かの拍子にそんな話をしてくれたのを思い出しました。
長岡の花火大会(長岡まつり大花火大会)って有名ですよね? あれは長岡空襲の犠牲者の鎮魂のための行事です。毎年、空襲のあった8月1日に『平和祭』を行って、そのあと2日と3日に花火大会を開くことになっているんです。」(ステラnet 7月26日)
半藤一利さんも長岡空襲を目撃されています。
歴史の中の長岡空襲と新潟
無条件降伏決める
昭和20(1945)年8月1日のその夜、わたくしは、長岡(ながおか)市の西南12キロほど離れた古志(こし)郡石津(いしづ)村(現長岡市)岩野(いわの)にいた。
そんな離れたところからも、円形の炎と煙が数千メートルの上空に達し、その円塔を西から東へ、北から南へ突きぬけながら、B29が数百トンの焼夷弾(しょういだん)を投ずる様を、望見することができた。
村長である伯父(おじ)の家の納屋の屋根に、わたくしは腰かけていた。
(『昭和と日本人 失敗の本質』半藤一利 角川新書 2022年)
同年3月10日の東京大空襲で家が灰じんに帰するまで、数かぎりない爆撃を東京で体験した〝疎開もの〟のわたくしには、落下する爆弾と自分との距離についてきわめて冷徹な判断を下すことができていたのである。 だからこそ一層、火流と化した道路、火焔(かえん)が家々をかけぬけ、火だるまの家財が飛び、そして人間が乾燥しきって、カンナくずに、火がつくように燃える〝地獄〟を、わたくしはまざまざと思い描くことができた。
となりに腰かけていた父が、吐き出すように、
「バカバカしい。早く降伏すべきなんだ。そうすればこんなことにならないんだ」
と、不穏なことを大声でいったのを、わたくしはいまもまざまざと記憶している。
…後略…
(『昭和と日本人 失敗の本質』半藤一利 角川新書 2022年)
母も艦砲射撃の弾が飛んでくる音でどこに着弾するか分かるほどになったと話していました。第8話 鬼畜米英と神がかり―昭和19~20年
●日本降伏の日
ソ連を仲介とする和平工作はその後も遅々として進まない。
ソ連政府が曖昧な態度をとり、返事をえんえんと引きのばすだけであったからである。
それには、ベルリン西郊のポツダムで、米英ソ三国首脳会議がひらかれるゆえいま忙しい、という理由もつけられていた。
(『B面昭和史 1926-1945』半藤一利 平凡社ライブラリー 2019年) 7月17日、そのポツダム会議が開催される。
その前日の朝に、米ニュー・メキシコ州アラモゴードで、人類初の原子爆弾の爆発実験が行われ、それが成功した。
結果として、国際情勢は激変する。
日本の降伏を促すためには、ソ連の対日参戦が必要と考えていたアメリカの政策は、「戦争は原子爆弾を投下すれば終る」と一転した。
いっぽうソ連政府はスパイによってアメリカの原爆実験の成功を知るや、戦後の分け前とともに、アジアにおける発言権の確保のためにも、一日も早く対日参戦しなければならないと、ソ満国境線での戦闘準備を急ぎだした。
そうした裏側の動きのいっさいに無知である日本政府は、ただ一途にモスクワだけをあてにして、和平仲介乗りだしの返事を鶴のように首を長くして待ちのぞんでいたのである。 25日、トルーマン米大統領の承認を得た原爆投下命令が、ポツダムよりワシントンに送られる。
これがただちに軍に伝えられる。
二日後の27日は東京の中枢部が震撼した日である。
降伏を勧告するポツダム宣言が送られてきたのである。
宣言には、即座に降伏する以外の「日本国の選択は、迅速かつ完全なる壊滅あるのみとす」と明確に謳いあげていた。
「完全なる壊滅」とは原子爆弾攻撃を意味していたという。
にもかかわらず、原爆実験の成功をまったく知らない日本はなお強気であった。
翌日の新聞は「笑止! 自惚(うぬぼ)れを撃砕せん」と壮語し、煽られて政府も、せっかくソ連に和平の仲介を頼んでいるのであるからという理由もあって、こう声明する。
「このポツダム宣言は重大な価値があるとは考えない。ただ黙殺するのみである」 この黙殺(ノー・コメント)が連合国には何としたことか、「日本はポツダム宣言を ignore (無視)」、さらに「 reject (拒絶)した」と報ぜられてしまうのである。
そしてこれがのちの原爆投下やソ連参戦を正当化するための口実に使われてしまったことはよく知られている。
これからあと、8月6日の広島への原爆投下、9日未明のソ連の満洲侵攻、そして長崎への原爆投下。
これらをうけての10日と14日の二度の御前会議による〝聖断〟と、15日正午の天皇放送による日本降伏までの波瀾万丈については、もうくどくどとかくことはやめる。
すでに周知の事実であろうし、わたくしは何冊もの本をかいている。 一つ、B面的な話としては、広島への原爆投下を報じた新聞記事のことを付記しておきたい。
よく知られているように、「原子爆弾」ではなく、「新型爆弾」とされていた上に、それまで空襲の被害はきまって、「軽微」としてきたものを、このときは「相当の被害」と大本営は発表した。
そしてそのあとである。
各新聞は長々とした説明を記している。
「戦争遂行中において新型兵器が出現すると、その威力が過大に評価されるのを例とする。例えばドイツのV1号出現の際のごとき、英国は相当の被害をみせたが、その対策完成とともに冷静に帰したるごときその例である。わが方は敵の非人道に断固報復を講ずるであろう」
聞くところによれば、これが太平洋戦争において軍がだした最後の「指導記事」であったという。
いまになると、ただア然とするばかりの指導ということになる。 そして8月15日、当時この世に生きていた民草の一人ひとりが、朝から雲一つない晴天と、沁(し)みいるような蟬の声を覚えている。
気温はどこも三十度を超えていた。
名古屋三十六度五分、京都は三十六度三分、そして東京は三十二度三分を示している。
その日、晴天の霹靂(へきれき)ともいうべき天皇放送をどこで、どんな想いで聞いたか。
すでに故人である何人かの人を代表に。
(小林桂樹<俳優>、林家三平<落語家>、峠三吉<詩人>、加藤芳郎<漫画家>、淡谷のり子<歌手>、植草甚一<エッセイスト>、丹波哲郎<俳優>奥野信太郎<中国文学者>。その中から)
淡谷のり子(歌手) 公演旅行で山形県にいて、演奏中止となってホッとして、宿でぼんやりしていた。 そして、85歳で健在のわたくし自身である。
勤労動員先の軍需工場で放送を聞いた。
祖国敗戦、奴隷にされるのなら人生の楽しみを早く知っておこうというので、使わなくなった防空壕で悪友たちと生まれて初めてタバコをくゆらした。
味はまったく覚えていない。
その夜、帰宅したわたくしは、さっぱりした顔になっているおやじに、男は全員が南の島で一生奴隷に、女はみなアメ公の妾になるのだという話の真偽をたしかめた。
聞き終わるなりおやじはとてつもない大声をだして一喝した。 「バカもん、なにをアホなことを考えているのだ。日本の男を全員南の島に運んでいくのに、いったいどれだけの船がいると思っているのかッ」
「日本中の女性を全員アメリカ人の妾にしたら、アメリカの女たちはどうするんだ、黙っていると思うか。馬鹿野郎」
この一喝に、わたくしはパッと目が覚めた。 のちに知ったのであるが、久保田万太郎の8月15日を詠んだ句に、じつにいい句がある。
何もかもあっけらかんと西日中
この夜のわたくしの目覚めた気持ちが見事にいい表わされている。
当時の民草すべての人が同じような思いを味わっていたのではないか。
じつにあっけらかんとなった気分で、廊下でぼんやりしていたわたくしの眼の前には、たしかに、国破れても美し越後の山河がいっぱいにひろがっていたのである。
(『B面昭和史 1926-1945』半藤一利 平凡社ライブラリー 2019年)関東大震災での朝鮮人虐殺を引き起こしたデマはどこから流れたのか
朝鮮人虐殺を認めない都知事が今回の選挙で多くの票を得ている。
戦時中、女性は辱められるなどと洗脳されて
沖縄やサイパン島、テニアン島などで多くの日本人が投身自殺や集団自決をしています。
ETV特集「“玉砕”の島を生きて~テニアン島 日本人移民の記録~」
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