2022年11月8日火曜日

おだやかな朝

今朝は、陽ざしが気持ちよく、風も吹いていませんでした。
今夜は、見ることができそうだなぁ…

皆既月食×天王星食 時間は?方角は?今夜442年ぶりの天体ショー」(NHK)
関経連会長 万博会場建設費の上振れ避けられない認識示す」(関西NHK 11月7日)
円安になる前から懸念されていましたよね。
知事も市長も都合のいい数字を並べるのが上手ですから…

ロシア軍 予備役500人以上が攻撃受け死亡 一個大隊ほぼ全滅か」(NHK)
ロシア国防省は、国営のタス通信に対して、この部隊の人的損失は1%以下だとして否定しています。

日本帝国陸海軍の大本営発表と似ています。
ロシア国民は、国防省の発表を信じているのでしょうかね…

大本営発表を信じていた母は、飛んできたのが日本軍だと思い手を振ると米軍の艦載機。
機銃掃射の中を逃げ惑った。
昨日、亥の子餅を紹介する中で護王神社の亥子祭について書かれていました。
京都御所を何度か訪ねているのに護王神社のことを知らなかったので(^^ゞ

 護王神社と梨木神社

 京都には近代に創始された神社が、この他にもいくつかありますが、平安神宮より少し前に建てられ、京都御所の東西に立っているのが、護王(ごおう)神社と梨木(なしのき)神社です。
この二つの神社も京都御所に行った人には、必ず目につくものですし、近代の天皇と深くかかわっているので、ここでふれておきます。
(『京の社 神と仏の千三百年』岡田精司 ちくま学芸文庫 2022年)
 護王神社は和気清麻呂(わけのきよまろ)を祭神としています。
和気清麻呂は奈良時代の称徳天皇の時、弓削道鏡を皇位に即けようとした企てを阻止して、宇佐八幡宮からの正しい神託を伝えたために流罪になった話で有名です。
また桓武天皇に平安京遷都を建白し、造宮太夫に任ぜられ、宮都造営に功績がありました。
 和気清麻呂の霊はもともとは、紅葉で有名な高尾の神護寺の境内に、護王善神廟(ごおうぜんしんびょう)として真言宗で祭られていた、この寺の護法神です。
この人物も怨霊ではありませんし、神道の〝神〟でもありませんでしたが、幕末の嘉永4年(1851)に、この護王善神廟に孝明天皇から「正一位護王大明神」の神号を贈られたことで、〝神〟として祭られるようになります。
道鏡事件で皇室の血統を護った功績が、幕末期に回顧されたのでしょう。
 1874年(明治7)には神護寺の境内にあったままで別格官幣社となり、更に1886年(明治19)に天皇の命で、蛤御門前の現在地に社殿を新築して遷座したものです。
後に1915年(大正4)に姉の和気広虫も合祀され、祭神は二座となりました。
 護王神社の拝殿の前には、左右一対のイノシシの石像が立っていますが、他に例のないものです。
和気清麻呂が弓削道鏡の怒りにふれて大隅国に流されたとき、現れたイノシシの一群が道中を守ってくれたという伝承によるものです。
 京都御苑の東側にある梨木神社は、公家の三条実万(さんじょうさねつむ)を祭神とします。
三条家は公家の第二位にあたる「清華」の家柄でありました。
実万は孝明天皇まで三代の天皇に仕え、特に孝明天皇のもとで幕末の政界で活躍しました。
安政の大獄に連座して蟄居を命ぜられたまま、安政6年(1859)没しました。
1885年(明治18)旧三条邸の跡に彼を祭神とした神社を建て、別格官幣社の社格を与えられました。
 三条実万の子息、三条実美(さねとみ)は明治維新で活躍し新政府の太政大臣となった人物ですが、没後の1925年(大正14)に梨木神社に合祀されました。
 護王神社と梨木神社は、なぜその祭神となった人たちが神社に祭られることになったのか、それまでの神社としては全く異例で、何故彼らが神とされたのか、不可解に思えます。
何か、明治政府首脳たちの政治的な意図があったのでしょうか。
 和気清麻呂の場合も、彼と同時代の人物で怨霊でもない、功成り栄達した人物が後世になって神とされた例は、全くありません。
ことに三条父子の場合、維新の功労者は大勢いるのに、殆どの人物は京都には個人の神社は建てられていません(戦死者や犠牲者の集団祭場である霊山護国神社を除いては)。
この父子だけが、個人の霊を、しかも御所の傍らに神社として祭られているのは、なんとも不思議です。
 護王・梨木両神社が設立された1885~86年(明治18~19)という時期に、その謎をとく鍵があるように思います。
それは政府の京都御所への対処が、放棄から保存に方針転換する時期でした。
維新後公家華族の東京移住のあと、公家屋敷は撤去され、御所の建物も荒廃するに任せていましたが、公家出身で実際上政府のトップに立っていた右大臣岩倉具視の尽力によって、政府も1880年頃から御所を即位儀礼の場として保存し、周辺の御苑を整備する方向に転換します。
 最晩年の岩倉具視は、京都御苑内の旧仙洞御所(せんとうごしょ)跡に桓武天皇の「平安神宮」を建立するプランを持っていたという研究もあります。
岡崎の平安神宮は、この岩倉の構想から始まったものとされています。
岩倉はその実現を見ずに1883年夏、没しました。
護王・梨木両神社が設立されるのは、その2~3年後のことです。
少なくとも宮内省の周囲には、岩倉の構想の下に保存されるべき御所、そして将来の「平安神宮」創建も視野のうちに置いて、その左右に近侍する神として桓武天皇の忠臣和気清麻呂と、孝明天皇の重臣三条実万の社を祭るという発想があったものと思われます。
 護王神社も梨木神社も、1915年に祭神を増加しますが、この年に大正天皇の即位の礼が京都御所で挙行されたので、祝賀事業の一環として行われたものでありました。
 以上のように、御所を護るように立つ二つの臣下の神社も、平安神宮と一体のものとして国家神道の下で機能したと考えられるでしょう。
 これらの平安神宮を頂点とした神社群は、まさに、天皇を「神聖不可侵」で「万世一系」の「統治者」として仰いだ、明治憲法の理念が結晶した大日本帝国の記念物でありました。
(『京の社 神と仏の千三百年』岡田精司 ちくま学芸文庫 2022年)
今朝の父の一枚です(^^)/

 日々を積み重ねる家 永田紅(こう)

…前略…

 時間が過ぎる。
それでも、新しくなった木の家で、居心地よく機嫌よく日々を積み重ねることが大切。
二匹の猫たちは木の床が気持がいいようで、あちこちで昼寝する。
思わず人間も寝転んでしまう。
布団をたくさん干せるベランダが出来た。
母は布団を干すのが大好きなのだ。
天気のいい日、布団をしっかりと陽にあてて家族の帰りを待つとき、何を思うのだろう。
母のひとりの時間を思うのはかなしい。
 母は今年、庭一面にコスモスを育てている。
小さな苗のころから添え木をして風に倒れないようにし、早朝に草取りをする。
姉さんかぶりの手ぬぐいがコスモスの向こうに見える。
つぼみがつき、私の背丈を越えた。
そろそろ花が咲き始める。
    (21・9・9)

  コスモスのほそく群れさく陽のなかでこの世のふしぎな時間と言えり

(『家族の歌 河野裕子の死を見つめた344日』河野裕子 永田和宏 文春文庫 2014年)