2022年11月17日木曜日

雲が多め

今朝は、雲が多いなと思いました。
冬の便りが届くようになっている。 

札幌で初雪観測 平年より15日遅く 今シーズンいちばんの寒さ」(NHK 11月16日)
ポーランドにミサイル落下 何が起きた?」(NHK 11月16日)

ロシアのミサイルかウクライナの迎撃かは私には判断できないけど
ロシアの侵略、ミサイル攻撃が引き金になっていることだ。
NATOのストルテンベルグ事務総長の
ただ、はっきりさせたいのは、ウクライナの責任ではなく不法な戦争を続けるロシアが責任を負っている

ミャンマーで拘束の久保田徹さん 恩赦できょう午後解放の情報」(NHK)
ほんとうによかった。
ミャンマーやロシア、中国など独裁国家は、政権に反対することに対して、都合のいいように法律をつくり人々を監視する。
 佐藤梓さんのTwitterに

10年近く前に目撃した出来事を、ふと思い出す。
都内の、とある郵便局を利用した際、前に大きな花束を抱えた男性が並んでおられた。
(お花のプレゼントを送りたいのかな……箱に入れないと難しいのでは…それに生花って傷んでしまわないかな?)などと思いながら、そのかたの背中を眺めていた。


男性が大きな花束を抱えていたのは、続きを読むと…
 感じる宗教

 日本の宗教文化の基層にある自然崇拝や精霊信仰においては、崇拝対象も聖地も、個々の崇拝者が決めるものである。
一期一会で、そこに何を感ずるかだけが大切だからである。
その神仏との一期一会を、私の家族たちは「縁」といっていたようなのである。
(『教会と千歳飴 日本文化、知恵の想像力』上野誠 小学館 2021年)
 では、私は、その「感じる宗教」をどのように理解しているのか。
私は「感じる宗教」を、次の四つに分けて理解している。

 ① モノや場から感じる宗教
 ② 儀礼や建築物、音楽から感じる宗教
 ③ 人から感じる宗教
 ④ 文字から感じる宗教


 の四つである。
①のモノや場から感じる宗教は、まさしく祖母の道具信仰のようなものである。
聖地に対する思い入れも入るだろう。
②もきわめて重要である。
なぜならば、儀礼や建築物、音楽は、言語を媒介としないので、言葉の壁を越えて、より広い人びとの心を一つにできるからである。
素朴な神社建築も、壮麗な廟や寺院も、祝詞(のりと)、読経、声明、グレゴリオ聖歌も、日本人にとっては、何かを感じる「縁」の一つでしかないけれど。
③は、神職、僧侶、神父などの身振り、言葉などに表れる人格やオーラに宗教性を感じることも「縁」となる。
日本の禅は、この宗教的人格形成に重きを置いた仏教だ、と私は考えている。
④のように、文字によって記された経典によって感じるということも、当然あると思う(むしろ、近代において宗教といえば④だ)。
 「宗教心」と「信心」との違い

 が、しかし、文字から感じる宗教にはさまざまなレベルがあることも事実である。
なぜならば、④は知識の宗教だからである。
したがって、相当の学力がいるのだ。
知識人でなければ、無理だ。
仏陀の教えをパーリー語やサンスクリット語の経典から学ぶか、漢訳された仏典から学ぶか、ということになると大変だろう。
神道とて、『古事記』や『日本書紀』を読むためには、8世紀の日本語と中国語に対する知識がいるのは、いうまでもない。
ラテン語やギリシャ語がわからないとキリスト教者になれないのか、ということもあろう。
だから、多くの場合は、神職、僧侶、神父などが、そこにいる人びとの知識量に合わせて、経典を説くしかないのである。
したがって、④は知識人のみの宗教ということになってしまうという憾(うら)みが常にあるのだ。
 近代の神道が、④に重きを置きすぎていることは、柳田國男(1875―1962)や折口信夫(1887―1953)が批判したところであり、近代仏教の知識偏重を批判したのは、仏教民俗学者の五来重(ごらいしげる<1908―1993>)であった。
ただ、私は、④の知識人の宗教というものが①②③にも繋がっていると思うので、④をあながち全否定はしない。
知識人が正確に経典類を読み、その宗教世界に触れて、人格形成し、その人の言葉を通して宗教に親しむ人びとも多いからである。
ただし、わが家のように庭にお茶を撒いたり、物差しを拝む信仰や宗教感覚も、私は大切にしてゆきたい、と思う(①)。
 以上が、私の考える「感じる宗教」の四類型なのだが、一つだけ蛇足を述べたい。
④の『聖書』や『コーラン』などの聖典学習を一生続けるかたちで宗教心を培うというタイプの宗教は、日本では根づきにくい、と私は思っている。
「南無阿弥陀仏」にひと言なら可能かもしれないが。
この蛇足から考えてみれば、日本人で宗教心があるという人は、ほんのわずかではないか、と思う。
 が、しかし。
宗教心はなくても、信心のある人ならたくさんいる、と思う。
特定の宗教を心の底から理解している宗教心のある人と、神仏、宗教を問わず信仰する信心深い人とは、まったく違うのだ。
「信心のある」とは、神仏を常に感じようとすることだと、私は考えている。
 祖母、父、母は「何でも教」信者で、縁があればどのような崇拝対象も信仰する人びとであった。
そして祖母は、その行動のどこかに、自然崇拝や精霊信仰の名残りを留める人であった、とも思う。

 対して、私は、ようやく今、父、母、祖母の行動を、宗教に対する一つの知恵として、理解できるようになった。
あなたたちは、宗教心のある人ではないけれど、信心深い人たちだったのですね、と。
(『教会と千歳飴 日本文化、知恵の想像力』上野誠 小学館 2021年)

抜粋していますので文章のつながりが分かりにくいところがあると思います。
是非、手にとってお読みください。
今朝の父の一枚です(^^)/
今日もモズに出会っていました。

モズ 鵙、百舌、百舌鳥

いろいろな鳥の鳴き真似をするので「百舌」。
「も」は「百」、「す」は鳥を意味する接尾詞。

 モズの漢字表記は、百舌、百舌鳥、鵙(げき)
「鵙」は日本ではイスカの意としても使われてきた。
中国では昔も今も「伯勞」がモズ類を表す字である。
「伯勞」は、どういう意味なのだろうか。
私には分からない。
「百舌鳥」は、『日本書紀』仁徳天皇67年、冬10月の条に「河内(こふち)の石津原(いしつのはら)に幸(いでま)し、……是の日に、鹿有(かあ)りて、忽(たちまち)に野の中より起(おこ)りて、走りて役民(えたみ)の中に入りて仆(たふ)れ死ぬ。時に其の忽に死ぬることを異(あやし)びて、其の痍(きず)を探(もと)む。即ち百舌鳥(もず)、耳より出でて飛び去りぬ。因りて耳の中を視るに、悉(ことごとく)に昨(く)ひ割(か)き剥(は)げり……」と。
…後略…
(『野鳥の名前 名前の由来と語源』文:安部直哉、写真:叶内拓哉 ヤマケイ文庫 2019年)