2022年11月2日水曜日

今朝は、昨日の雨で空気中のほこりが流れ落ちたのか
すっきりした青空が広がっていました。
天気予報では、広く秋晴れになるそうです。

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貴司くんには仕事の悩みがあるようですが…八木のおっちゃんに言われたことが支えです。
「もがいてたらええんや」

貴司くん、話を聞いてくれる幼なじみがいるって、ステキだね😊
八木のおっちゃんの存在も、イイネ😊

もがいてたらええんや」名言ですね!
又吉さんなのか八木のおっちゃんなのか区別がつかないなぁ(*´▽`*)
何故か、映画「ジョゼと虎と魚たち」(犬童一心監督 2003年)を思い出した。
 (「宮沢賢治と風刺精神 燃やし尽くした精神」梅原猛 つづき)

 宮沢賢治は仏教的な、または半仏教的な多くの日本の思想家とちがって、仏教を人間観ではなく世界観として受け取った。
賢治の仏教は、日蓮宗というより、法華経信仰であったが、彼は仏教の中に、近代科学の成果と一致する雄大な世界観を見た。
「近代科学の実証と求道者たちの実験とわれらの直観の一致に於て論じたい」「新たな時代は世界が一の意識になり生物になる方向にある」「農民芸術とは宇宙感情の地、人、個性と通ずる具体的な表現である。」(農民芸術概論綱要)
(『現代詩読本―12 宮澤賢治』 思潮社 1979年)
 賢治によれば、世界は一つの生ける生命であり、一つの意識であった。
この生ける世界は、無限に多様に分化し、さまざまに変化し、変化にとむ生命となる。
日月、三川、草木、鳥、魚、獣、そして人間、それは皆、それ自身の一つの生命のさまざまなるあらわれにすぎないのである。
そして生命は明滅する。
われらの命も、また、さまざまな生けるものの命と同じく、たまゆらの命を、宇宙の一角で、燃やすのである。
瞬間に明滅する命、しかし、その命もみなかぎりない生命のあらわれなのである。
そして生命は、光のように明滅するけれど、それはまた時間の軸に従って、その意味を無限に変化させてゆく。
賢治の世界は、このような一つの生命が、無限に多様な生命となり、しかもそれが、時間の軸に従って、無限に多様に意味を変化さしてゆく雄大にして絢爛たる大生命の世界であろう。
 賢治のこのような世界観は、賢治が法華経から得たものであった。
大乗仏教の根幹には、一つの雄大な大生命哲学がある。
永遠、絶対の大生命が、宇宙の森羅万象の源である。
この一なる大生命が、如何に個々の生命に分化するか。
そして個々の生命の中に如何に、悠久永遠な宇宙の大生命の意志が実現されているか。
この大生命を大乗仏教では仏性というが、こういう雄大な宇宙論が、大乗仏教の根幹なのであり、法華経、特にその寿量品の中には、大日経や華厳経と同じく、こういう大生命哲学がしるされている。
賢治は法華経信仰を通じて、大乗仏教の世界観を自分のものとしたが、彼にとって法華経信仰を通じて、大乗仏教の世界観を自分のものとしたが、彼にとってこういう世界観は、同時に近代科学の世界観と一致するものであった。
 ふつう日本の作家や思想家が仏教に関心をもつとき、それは多く、禅と浄土真宗を通じて仏教に関心をもつのである。
禅と浄土真宗においても、それが大乗仏教である限り、こうした生命哲学が背後にあるにはある。
しかし、この鎌倉時代という変革期に生きた思想家によって始められた仏教は、仏教から緊急なもののみをとり出した。
世界観より人間論。
禅にとってこの煩悩に執着した人間の迷妄をどうさますか、浄土真宗にとって、この悪にみちた自己をどのように救済するかがもっとも大切な問題であった。
深く自己の悩みに沈潜したかに見える鎌倉仏教は、その真剣な悩みによって、却って世界を世界自身として問題にする問題意識を失ってしまった。
そして世界論ではなく、人間論が、如何にして人間的な煩悩の主体である人間から脱却するかを究明する人間論が仏教の中心問題になった。
鎌倉仏教が、近代の日本人に愛されたのは、こうした煩悩の主体としての人間であることを脱却する人間論のためであったが、しかし、人間論中心の仏教は、同時に、人間の傲慢が正に世界の破滅をまねくような近代の西洋思想のもっている悪を治癒する薬としての役割を果たすことが出来ないかもしれない。
 賢治の世界観は、近代の日本の文学者・思想家がほとんど例外なくとっている人間中心主義を初めから脱却していたのである。
彼にとっては、人間は、何ら特権的な存在者ではない。
それは多くの生きとし生けるものの中の一つの生けるものにすぎない。
賢治が自己の文学の表現法として、詩と童話とをえらんだのも、このような賢治の世界観と関係があろう。
彼は小説が書けなくて、詩や童話を書いたのではない。
小説という表現様式の中に、自ら一つの思想が表われている。
人間の物語、人間から見た人間の話、こうした小説の世界にたいし、詩は本来、自然の中における人間あるいは、人間と自然との共感を歌うのであろう。
今日、ヒューマニズムの限界を指摘するハイデッガーが、近代小説なるものをほとんど認めず、詩、特にヘルダーリンの詩の中にのみ芸術の本質を見るにたいし、依然としてヒューマニズム、人間中心主義に執着するサルトルが、詩の機能をほとんど認めず、小説の中心にのみ、状況の超越という言葉の真の役割を認めるのは、二人の哲学者のヒューマニズムにかんする思想の相違と深く関係をもつものであろう。
賢治は、ハイデッガーのように、あるいはハイデッガー以上に、近代の人間中心主義の限界を見ていた。
こいう彼がどうして、人間のみをあまりに人間的に語る小説という文学のジャンルを自己の思想表現の手段としてえらぶことが出来たであろう。
賢治の童話の中には、多くの動物ばかりか、植物や、天然現象も、すべて生き生きとした生命をもつものとして登場する。
彼はイソップのように人間世界の比喩として動物を使ったわけではない。
生命のもつもの、それは、自ら、われらの如き心をもち、われらの如き悩みを悩むのである。
賢治は童話と称する形式をもつ作品によって動物や植物を人間と共に登場させながら生きとし生けるものの生命の実相をえがこうとしたのである。
 賢治にとって、世界は、本来仏性のあらわれで、各々の生命は互いに他の生命を尊重しながら、己れの生命を光り輝かすべきものであった、
しかし、こういう世界の本来のあり方にもかかわらず、現実の社会は殺し合いの世界、強いもの勝ちの世界ではないか。
こうした世界の矛盾をどう賢治は説明するのか。
賢治はこの世界の矛盾を、十界互具、一念三千の天台智顗(ちぎ)の思想で説明する。
地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天の六道、それに、声聞、縁覚、菩薩、仏の四つの世界、合わせて十の世界で世界は出来ているけれど、同時に各々の世界は、またそれぞれ十の世界をもっている。
仏の世界、その世界にも地獄の世界も餓鬼の世界もあるのであり、地獄や餓鬼の世界の中にも仏が住んでいる。
すべての中にすべてがある。
従って衆生の心には、本来仏住があるけれど、同時にまた、そこに地獄の苦があり、餓鬼のあさましさがあり、畜生の愚かさがあり、修羅の怒りがある。
賢治は、人間ばかりか、あらゆる衆生を、こういう二つの心をもつものとしてとらえる。
 このような十界思想、あるいは六道思想は賢治の思想の中心であるが、特に、彼は修羅道を、衆生の世界の本質として見る。
修羅の世界は、怒りの世界、争いの世界である。
衆生の世界は、怒りの世界、争いの世界、そこでは生けるものが生けるものを殺すことによって生存を保ってゆく。
殺して、そして殺される、それがこの世界に生きるのの従わねばならぬ運命なのであろうか。
賢治が、六道の中で修羅の世界を重視したのは、決してどうでもよいことであるのではない。
彼はたとえば自然主義の文学者のように人間を餓鬼道としてとらえなかった。
彼は修羅道として衆生の世界をとらえたが、彼にとって修羅は、ただ、殺し合いの世界に登場する一人の怒れる殺害者であるばかりではない。
彼が己れを一人の修羅としてとらえるとき、その修羅は、殺し合いの世界の中の一人の殺害者、怒れる世界の中の一人の怒れる人という意味のみではなく、その怒りの世界そのものに怒るをもつ怒れるもの、殺害の世界に耐えられず菩薩の世界に生きようとして、しかも生きられない自己にはげしい怒りをもつものという意味をもつのである。
「春と修羅」の第一集、及び、「よだかの星」「貝の火」などで、賢治のえがく世界は、こうした二重の修羅の世界である。

…つづく
(『現代詩読本―12 宮澤賢治』 思潮社 1979年)
今朝の父の一枚です(^^)/

せきれい【動】 鶺鴒。
スズメ目セキレイ科の鳥。
スマートな鳥で翼長10㎝ほどだが尾は長く10㎝ほど。
この尾を上下に振るのが特徴(それでイシタタキとも言う)。
渓流や湖沼、水田等の水辺に棲み、チッチッと鳴きながら低く飛ぶ。
「白と黒とのぶちになったせきれいが水銀(→汞<こう>)のやうに水とすれすれに飛びました」(童話[革トランク])、「せきれいもちろちろ鳴いてゐるやうだけれども」(詩[〔爺さんの眼はすかんぽのやうに赤く〕]、「みんなは、砥石(といし)をひろったり、せきれいを追ったりして」(童話[風の又三郎])等。
(『新宮澤賢治語彙辞典』原 子朗 東京書籍 1999年)