今朝も青空が広がっていました。
山を見ると陽ざしで暖められて霞んでいるようです。
歩いていると汗が出そうになるほどでした。 「北朝鮮 多数のミサイル発射 ねらいと今後の焦点は」(NHK)
ミサイルを発射するたびに北朝鮮の国民は貧困に苦しむ。
この機会を利用するかのように日本政府は、
「潜水艦発射型も開発検討 敵基地攻撃の手段に 防衛省」(朝日新聞)
〝「トマホーク」政府が購入を検討 いったいなぜ?〟(NHK 10月28日)
電力不足を利用して
「30年超の原発、10年ごと認可 規制委が運転60年超へ方針」(産経新聞 11月2日)
原発をミサイル攻撃から守れるのでしょうかね…
ミサイルだけでなくサイバー攻撃の可能性もある。
「サイバー攻撃受けた病院 入院患者の転院対応も 大阪」(関西NHK 11月2日)今日は文化の日。
父の時代は「天長節(明治節)」(明治天皇の誕生日)。
文化の日は移動しないのだけど天長節は…
第六章 憲法発布
1 憲法発布式
宮城
明治22年(1889)2月11日朝、前夜からの雨が夜半過ぎに雪に変わった東京は銀世界であった。
午前8時、未だ降り続く雪を蹴散(けち)らし、舗装されていない道路を泥濘(でいねい)と化しながら多くの馬車、人力車がかつての徳川将軍家の居城、江戸城あらため宮城(きゅうじょう)へと向った。
大日本帝国憲法がいよいよ発布の時を迎えたのである。
徳川家から引き継がれた江戸城西の丸の宮殿は、明治6年(1873)5月に火災で焼失し、その後天皇は赤坂の現在の迎賓館(げいひんかん)、東宮御所(とうぐうごしょ)あたりの仮皇居を用いていた。
明治7年1月に岩倉具視(いわくらともみ)が喰違(くいちがい)が襲われたのは仮皇居から退出した直後、11年5月に大久保利通(おおくぼとしみち)が紀尾井坂(きおいざか)で命を落としたのは仮皇居に置かれた太政官(だじょうかん)への出勤途上のことであった。
新たな宮殿は、21年の10月に落成し、その名称は宮城と定められた。
(『維新の構想と展開 日本の歴史20』鈴木淳 講談社学術文庫 2010年) 現在の感覚だと「みやぎ」と読んでしまうが、「きゅうじょう」であり、これがこの憲法の下での皇居の名前であった。
もっとも、宮城県知事はさっそく、さしさわりがあるので県名を改めるべきではないかとうかがいを立て、その必要はないと指令を受けたという(『朝野新聞』21年12月28日)から、当時もまぎらわしいとは思われていたのである。
いずれにせよ、憲法発布の儀式は、外見和風で内装は洋風の真新しい木の香りの漂う宮殿で行なわれ、そのこと自体が新たな時代の到来を人々に感じさせたにちがいない。 この日、2月11日は神武(じんむ)天皇の即位日とされた紀元前660年の元旦を太陽暦に換算した紀元節(きげんせつ)、現在の建国記念の日である。
神武創業への復古を唱えながら、その日を太陽暦、すなわち開化の標準である西洋の暦で読み替えるところに、明治政府の性格がよくあらわれている。
明治天皇の誕生日である天長節(てんちょうせつ)も、明治初年には9月22日であったのが、明治6年の改暦から太陽暦換算で11月3日、すなわち現在の文化の日に改定されていた。
式典は午前9時、宮中三殿(さんでん)における紀元節御親祭(ごしんさい)にはじまる。
ちょうどこのころ、雪は止んだ。
紀元節御親祭は例年宮中で行われた祭であるが、ここで天皇が玉串(たまぐし)を奉り、御拝(ぎょはい)するとともに「朕(ちん)が現在及将来に臣民(しんみん)に率先し此の憲章を履行(りこう)して愆(あやま)らざらむことを誓ふ」という文言を含む憲法発布の御告文(ごこうもん)を奏したので、この年には憲法発布の儀式の一環として意味を持っていた。
(『維新の構想と展開 日本の歴史20』鈴木淳 講談社学術文庫 2010年) (「宮沢賢治と風刺精神 燃やし尽くした精神」梅原猛 つづき)
こうした二重の修羅の世界が、賢治の風刺精神の秘密をとく鍵を与える。
賢治は一面、仏の世界、慈悲の世界を深く見ている。
しかし、他の一面で、殺害の世界、修羅の世界を凝視する。
そして世界ばかりか、彼自身の心の中に二つの世界をもつ賢治自身が、己れの心の中にある修羅の世界に怒りをもちつつ、その世界を同時に己の心に実在する仏の世界から凝視するとき、彼の風刺的な童話が生まれるのである。
修羅の世界にたいする修羅であることを脱却しようとする一人の修羅の痛烈な風刺。
賢治の風刺精神の根底は、そこにあるのである。
そして彼の心に巣食う修羅の世界にたいする風刺は、修羅を世界の原理とする、現在の世界そのものに対する痛烈な風刺となるのである。
そして、現在の世界が、依然としてヨーロッパ的原理によって支配され、ヨーロッパ的な原理が、依然として修羅の原理から成り立つとき、賢治の風刺が、時間と共に、ますます、その深い意味をあらわにしてゆくのである。
(『現代詩読本―12 宮澤賢治』 思潮社 1979年) 夜の湿気と風がさびしくいりまじり
松ややなぎの林はくろく
空には暗い業の花びらがいっぱいで
わたしは神々の名を録したことから
はげしく寒くふるえている。
ああたれか来てわたしに言え
「愛の巨匠が並んでうまれ、
しかも互に相犯さない
明るい世界はかならず来る」と
遠くでさぎが鳴いている
夜どおし赤い眼を燃して
つめたい沼に立ち通すのか!
(業の花びら) 賢治は一羽のさぎである。
「愛の巨匠が並んでうまれ、しかも互に相犯さない明るい世界」を待ち望んで、「夜どおし赤い眼を燃してつめたい沼に立ち通す」一羽のさぎなのである。
しかも彼は空しく明るい世界を持つ一羽のさぎに止まっていたわけではない。
彼は仏にかわって、こういう世界の到来に、彼の短い生命を賭けていたのである。
理想の世界の希求のはげしさと、それの実現のための努力のきびしさ。
私は賢治において始めて、「神々の名を録する」という真の詩人の名にふさわしい詩人を見る。詩人は本来深い神の告知者であるべきである。
人間の魂の最奥の深みに沈潜し、そこから現実の人間におち入っている魂の腐敗と、魂の新生を歌うことが、詩人の使命であろうが、詩人は、ここに於いて人間の魂のあり方を問い直すという使命に直面するのである。
ここにおいて詩人は必然的に、「神々の名を録せ」ざるをえないのである。
賢治は、近代日本の多くの詩人や、文学者の中で、ほとんど唯一人「神々の名を録した」人であった。
それ故、彼は、「神々名を録した」人のみが見る「暗い業の花びら」が空に漂っている光景を心象風景として感じるのである。 近代日本文学における風刺精神の不在が、よく指摘される。
日本文学には風刺精神が本来存在しなかったというような議論がよくなされる。
たしかに、日本文学には、すぐれた風刺文学は少ないのである。
日本の和歌と中国の漢詩と比べて見給え、杜甫や白楽天や蘇東坡にも、ユーモアにみちた風刺の詩があるが、柿本人麿以来、日本の大詩人には風刺の詩はほとんどない。
何故日本文学には、すぐれた風刺文学は生れないのか。
理由はいろいろあろう。
そしてその理由の一つに、理想精神の不在ということがあろう。
真の風刺文学は、理想の世界から、この不完全な世界を見るところに生まれることは、ジャン・パウロの指摘したところである。
はげしい理想への希求のないところに、すぐれた風刺文学は生れない。
「ドン・キホーテ」も「ガリバー旅行記」も、こういう挫折した理想精神の産物であった。
日本においてこういう精神を探すとき、宮沢賢治という三十八歳の生命を一つの理想に燃やし尽くした精神がある。
われわれは、いたずらに外国文学と比べて日本文学における風刺精神の不在を嘆くべきではなく、自己の中に理想精神をはげしく燃やすべきではないか。
(「文学」1966.12)
(『現代詩読本―12 宮澤賢治』 思潮社 1979年)今朝の父の一枚です(^^)/
十一月(初冬)
立冬から小雪のころ
冬支度のしるし
…前略…
汐風(しおかぜ)の中より百舌(もず)の高音かな 惟然(いぜん)
鵙はキーッ、キーッ、ギャ、ギャと高い突き刺さるような声で鳴きます。
「鵙の高鳴き」といわれているように、字に書いて伝えることがむつかしい声を響かせます。
鳴くというより叫ぶという鳴き声です。
昭和30年代の中ごろだったでしょうか、時折目にするいくつかの俳誌に「鵙高音(もずたかね)」を下五(しもご)に用いた句がよく出ていました。
惟然の句の「百舌の高音」の「の」を外した言い方です。
この流行が私どものささやかな句会にもおよび、句座の年配の女性が<鵙高音布団綴(と)じ針直に刺す>を出句し、この句の良し悪しがその日の話題になったことがありました。
作者のお名前もお顔も記憶にないのに、句だけを覚えているのが不思議です。
私にはいいのやら、よくないのやらさっぱりわかりませんでしたが、ひそかに使ってみたいなぁと思ったものです。
その後、努力してみたのですが、とってつけたような妙な句ばかりで、初学の身にはしょせん無理でした。
…後略…
(『NHK俳句 暦と暮す 語り継ぎたい季語と知恵』宇多喜代子 NHK出版 2020年)