昨日はよく雨が降りました。
空がいつもより暗いなと思っていたら
雷が鳴り出し、遠くに稲光がみえるほど。
今朝は、雨があがり穏やかな天気です。
いつも挨拶する人に火曜日くらいから腰痛になっていると話すと
その方も、昨日、ギックリ腰になったそうです。
この頃の気温の変化で冷えたのかなぁと
でも、歩いたほうが治るのが速いので、無理をせずに体を動かそうと声をかけ合いました。まさに大金星ですよね!
ドイツ大使館のTwitterに
日本代表の皆様、おめでとうございます!!!
フェアで熱い試合をありがとうございました🇩🇪⚽️🇯🇵
おやすみなさい。
日本サッカーの礎を築いてくれたデットマール・クラマー(Dettmar Cramer)さんへの恩返しですね。源実朝の歌について白洲正子さんが書かれています。
九十三 鎌倉右大臣
世の中はつねにもがもななぎさ漕(こ)ぐ
あまの小舟の綱手かなしも
鎌倉右大臣は、源実朝(みなもとのさねとも)のことである。
建保(けんぽう)6年(1218)、内大臣からかねて望んでいた右大臣に上り、翌7年1月27日、鶴岡八幡宮(つるおかはちまんぐう)において、拝賀之式を終えた後、公暁(くぎょう)のために殺された。
27年の短い生涯であったが、珠玉のような歌を遺(のこ)して いる。
「新古今集」ができた時、実朝はまだ14歳で、「新勅撰集(しんちょくせんしゅう)」(文暦<ぶんりゃく>2年―1235完)に定家は25首もえらび、鎌倉幕府へ追従すると悪口をいわれた。
が、実朝は既に亡(な)く、政権は北条氏へ移っていたのだから、定家にそんな下心があったとは思えない。
(『私の百人一首』白洲正子 新潮文庫 2005年) 実朝と定家は、ついに会うことはなかったが、実朝は15歳で定家の門に入り、家来を通じてさまざまな貴重な歌書を贈られた。
「吾妻鏡(あずまかがみ)」には、彼が18歳の時、自作の歌をはじめて師のもとに送り、ひと月の後に返事が来て、「詠歌口伝」を授かったと記してある。
それには定家がつねに提唱していた余情艶麗(えんれい)の歌風を論じ、「詞(ことば)は古きを慕ひ、心は新しきを求め、及ばぬまでも高き姿を願ひて、寛平(くわんぴやう)以往の歌にならはば、おのづからよろしきことも、などか侍(はべ)らざらむ」とあり、定家がいかに若い弟子に嘱目(しょくもく)していたか、また実朝がどんなに感喜したか、想像するにかたくはない。 その後、実朝は師の教えを守って、万葉・古今の「古きを慕ひ」、新古今の「新しきを求め」て、和歌の道に精進した。
が、天性の資質というものは恐ろしい。
それに加えて、実朝をおそった数々の悲劇が、若き将軍を孤立させ、孤立することによって、独特の境地を開いて行った。
実朝がそういうことを自覚していたのではない。
ひたすら師匠を崇(あが)め、都ぶりの歌に心酔しつつ、なおかつ定家の余情艶麗とも、万葉・古今の調べとも異なる独自の風格を得るに至った。 もののふの矢並(やなみ)つくろふ籠手(こて)の上に
霰(あられ)たばしる那須(なす)の篠原(しのはら)
箱根路をわが越えくれば伊豆の海や
沖の小島に波の寄るみゆ「愚見抄(ぐけんしょう)」は、この二首を例にあげ、「さて鎌倉右府の歌さま、おそらく人丸・赤人をもはぢがたく、当世不相応の達者とぞ覚え侍る」といい、「万葉集の中にかをまじへたりともよもはばからむ」と絶讃(ぜっさん)した。
「愚見抄」は、定家の書ともまたそうでないともいわれているが、当時の人々の評価を知る便りにはなる。
そこでは人丸・赤人に匹敵するだけでなく、「万葉集」の中に入れても恥しくないと褒めているが、万葉集の調べに似ているとはいっていない。
おそらく定家も同じように考えていただろう。
この批評家は、実朝の中にまったく新しい歌の魂が生れるのを見、和歌の生命が復活することを感じていたのではないか。
「新勅撰集」に多くの歌をえらんだのも、沈滞していた都の歌壇への無言の警告であったかも知れない。 実朝は建久(けんきゅう)3年(1192)8月9日に生れ、幼名を千幡(せんまん)といった。
その時の頼朝(よりとも)の喜びはひとかたではなく、部下の諸将の前に千幡を抱いて現れ、末長く忠節を誓わせたと伝えている。
鎌倉幕府がようやく安定し、後顧の憂(うれ)いがなくなった時に、男児の誕生を見たことは、一族郎党にとっても大きな喜びであったに相違ない。
が、千幡が8歳になった時、頼朝は不慮の災難に会い、突然この世を去った。
実朝の不幸はその時にはじまる。
二代将軍頼家は、北条氏に惨殺(ざんさつ)され、千幡は12歳で将軍に立つ。
実朝の名は、その時朝廷から賜ったのである。 それからの日々は陰惨なものだった。
頼朝の輩下達は次から次へと殺され、一番頼りにしていた和田義盛まで、将軍の名において、憤死せしめるに至った。
その悲劇は想像するに余りある。
そして、北条氏の残忍な手が、いつか自分の身にもおそいかかることを、敏感な実朝がよみとらなかった筈(はず)はない。
実朝だけでなく、周囲の人々はみな予感していたと「吾妻鏡」は記している。
悲惨な事件が起る朝、側近の者はそれとなく注意したが、実朝はうけがわず、鬢(びん)の毛をぬいて、家来に与え、一首の歌を詠んだという。
出(い)デテイナバ主ナキ宿ト成(なり)ヌトモ
軒端(のきば)ノ梅ヨ春ヲワスルナ 菅原道真の「東風(こち)吹かば」の歌を真似(まね)たようで、実朝の作とは信じがたいが、せめてまずい腰折れでも、主(あるじ)の霊に手向けたいと念(おも)うのが、幕府の侍達の真情であったろう。
実朝の歌は全部美しいとはいえないが、辞世にこんな凡庸な歌を詠んだとは考えられない。
それに22歳を最後に、あんなに好きだった歌を一つも詠まなくなったというのだから、黙々と自分の宿命に従ったと私は思いたい。
見ようによって彼の歌は、――少くともその中のいくつかは、私には辞世の句のように思われてならない。
彼にとっては、その日その日が、薄氷を踏む想(おも)いに明け暮れたのではなかろうか。 紅のちしほのまふり山のはに
日の入る時の空にぞありける
萩(はぎ)の花くれぐれまでもありつるが
月出でて見るになきがはかなさ
大海の磯(いそ)もとゞろによする波
われてくだけてさけて散るかも 百人一首の歌もその例に洩(も)れない。
実朝の清澄(せいちょう)なまなざしは、どんな想いで海人(あま)のあやつる小舟をみつめていたことか。
今まで私は現代語訳を極力さけて来たが、ここでは大体の意味さえ述べることは不可能に思う。
私が思うのではなく、実朝の歌がそれを拒絶する。
途方に暮れた私の目の前には、夕暮の渚(なぎさ)を往(ゆ)く舟のそこはかとない姿が浮び、潮騒(しおさい)にまぎれて艪(ろ)のきしむ音が、かすかに聞えるのみである。
(『私の百人一首』白洲正子 新潮文庫 2005年)