冷たい雨が降りました。
まるで一気に冬がやってきたみたい…
秋の部
洛東ばせを庵にて
冬ちかし時雨(しぐれ)の雲もこゝよりぞ (安永6.9.22)
洛東ばせを庵(芭蕉庵)――京都一条寺村の金福寺境内に蕪村らによって建てられた草庵。
(『蕪村俳句集』尾形 仂 校注 岩波文庫 1989年)千三つのギャンブル
民主主義を獲得するために 辛淑玉( のりこえねっと共同代表 )
…前略…
統一教会によって人生も財産も人間関係を奪われた日本人女性被害者たちは、韓国人男性に尽くすことが、日本がかつて行なった「従軍慰安婦」たちへの蛮行の贖罪になると言い聞かされたという。
旧植民地で日本が何をしてきたか何も教えられてこなかったところに衝撃的な事実を知らされたせいで、真面目な人ほどその罠にはまってしまうのだろう。
しかし、信者にはこんなことを語る統一教会は、一方で慰安婦叩きの最先鋒でもある。
…後略…
(『世界 2022年11月号』岩波書店)(「宮沢賢治と風刺精神 燃やし尽くした精神」梅原猛 つづき)
狸。
学校を卒業した狸はお寺へ帰っていたけれど、やっぱりお腹がすいて一本の松の木によりかかって目をつぶっている。
そこへ兎がやって来る。
「狸さま。こうひもじくて全くしかたがございません。もう死ぬだけでございます。」狸がきもののえりをかき合わせて言いました。「そうじゃ。みんな往生じゃ。山猫大明神さまのおぼしめしどおりじゃ。な。なまねこ。なまねこ。」
狸はうさぎと一しょになまねこ、なまねこととなえながらうさぎの耳をかじる。
うさぎはびっくりするが、狸は、
「これも山猫さまのおぼしめしじゃ、おまえの耳があんまり大きいので、わしにかじってなおせと云うの、なんと云うありがたいことじゃ。」
と云ってうさぎの両耳を食べてしまう。
それを聞いて、うさぎは涙をこぼして、
「なまねこ、なまねこ。ああありがたい、山猫さま。私のようなつまらないものを、耳のことまでご心配くださいますとはありがたいことでございます。助かりますなら耳の二つやそこらなんでもございませぬ。なまねこ。」
と云う。
(『現代詩読本―12 宮澤賢治』 思潮社 1979年)狸もそら涙をこぼして、
「なまねこ、なまねこ。こんどはうさぎの足をかじれとは、あんまりはねるためでございましょうか。はいはい、かじります、かじります。なまねこ、なまねこ。みんなおぼしめしのまま。」
と云いながら、うさぎの足を食べてしまう。
うさぎはますますよろこんで、「ああありがたい。なまねこ、なまねこ。」と云う。 「狸はもうなみだで、からだもふやけそうに泣いたふりをしました。『なまねこ、なまねこ。みんなおぼしめしのとおりでございます。わたしのようなあさましいものでも、命をつないでお役にたてと仰られますか。はい、はい、これもしかたがございませぬ。なまねこ、なまねこ。おぼしめしのとおりにいたしまする。むにゃむにゃ。』うさぎはすっかりなくなってしまいました。そして狸のおなかの中で言いました。『すっかりだまされた。お前の腹の中はまっくろだ。ああくやしい。』狸はおこって言いました。『やかましい。はやく溶けてしまえ。』」それからちょうど二ヵ月目、狼が籾を三升さげて来て、どうかお説教願いますと云う。
そこで狸は
「お前はものの命をとったことは、五百や千ではきくまいな。生きとし生けるものならば、なにとて死にたいものがあろう。な。それをおまえは食ったのじゃ。早くざんげさっしゃれ。でないとあとでえらい責め苦にあうことじゃぞよ。おお恐ろしや。なまねこ、なまねこ。」
狼はすっかりおびえて、どうしたらよいかと聞く。
狸は、「わしは山猫さまのみがわりじゃで、わしの言う通りさっしゃれ、なまねこ、なまねこ。」と云う。
こうして狸は、恐ろしいことじゃ、恐ろしいことじゃと云って、狼を食ってしまう。ところが狼の持って来た籾を三升のんだために、その籾が芽を出して、だんだん大きくなり、狸はからだがゴム風船のようにふくらんで、ボローンと鳴って、裂けてしまう。
林中のけだものはびっくりして集って来るが、洞熊先生も少しおくれて来て、それを見る。
そして「ああ、三人とも賢い、いい子供らだったのにじつに残念なことをした。」と云いながら大きなあくびをした、という。 この童話について、も早解説は不用であろう。
競争社会と競争社会の教育についての見事な風刺。
すべての人は、他人より大きくなることに必死である。
大きくなることのみがここでは価値であるが、大きくなることは実は、多くの場合、他人を犠牲にすることによって可能である。
賢治はこのような競争社会に生きる三つの人間の類型をえがいた。
蜘蛛となめくじと狸は、その殺害の方法は別である。
裸の残忍さをもつ蜘蛛、狡猾な偽善者のなめくじ、そしてにせ宗教によって魂を麻痺させる狸、その方法は別であるが、いずれも他人を犠牲にして、自らを肥やすことを最大の念願にしていることは変りはない。
…つづく
(『現代詩読本―12 宮澤賢治』 思潮社 1979年)今朝の父の一枚です(^^)/
昨日、歯科受診で歩けなかったので雨でも歩くと言いました。
初しぐれ病む身がおもふ人の上 石川桂郎(けいろう)
時雨といえば思い出すのが『後撰集』の一首だ。
「神無月降りみ降らずみ定めなき時雨ぞ冬のはじめなりける」による冬の景物へと固定していった。
殊(こと)に初時雨は人恋しさの気配をかもす。
作者は病床に臥(ふ)しているのだろうか。
そんな状況で他人の身の上を案じても仕方がない。
けれどかえって気掛かりになるものだ。
「同病相あわれみ、同憂相救う」のことわざもある。
「我が身をつねって人の痛さを知れ」とも。
芭蕉には「初しぐれ猿も小蓑(こみの)をほしげなり」の句がある。
『芭蕉七部集』の一つ「猿蓑」の巻頭句で、集の名はこの句に基づく。
従来の「つらく寂しい」初時雨を、風雅としての美意識にまで昇華したといわれる名句だ。
桂郎の句も芭蕉句が念頭にあっての作だろう。
1909~1975 東京生まれ。「鶴」同人。「風土」創刊主宰。
句集『含蓄』『竹取』など。
(『きょうの一句 名句・秀句365日』 村上護 新潮文庫 平成17年)