2022年11月29日火曜日

西の空が暗い

途中で出会った方が「昼まで大丈夫かな?」と聞くので
西の空が暗いですよと答えると「早く帰らないとあかんなぁ」
別れた後、すぐに雨が降り出しました。
出かける前に天気予報を見ると9時頃から雨だった。

西日本や東日本 局地的に非常に激しい雨 30日にかけ大気不安定」(NHK)
中国の抗議活動は、平和的な方法でも香港のように弾圧される。
中国政府「ゼロコロナ」政策への抗議活動に警戒強める〟(NHK)

抗議活動のきっかけは
「ロックダウンやめろ」、中国・ウルムチで異例の抗議 10人死亡の住宅火災きっかけ〟(BBC 11月27日)
今日は11月29日は、イイニクで「肉の日」なんだそうです(*´▽`*)
肉を焼くのはいいのだけど…
昨日の記事で三の酉の年は火事が多いと紹介しました( ..)φ
喧嘩と火事は江戸の華というそうですが、その語源は、

樋口清之氏は、火事は江戸の華の語源を、大老酒井忠清の言にありとしています。
たび重なる大火に冠を曲げた大老は
「かように頻繁に火事を起こすとは江戸のハジじゃぞ」と町人をたしなめたのですが、
これを聞いた講釈師か狂歌師が、恥を華とすり替えたのが、「江戸の華」のいわれと言われています。

(「宵ごしの銭と江戸の華」東京消防庁)
第1章 徳川日本の成立と災害
 3 災害と都市
 明暦の大火


 江戸時代は都市化の時代だ。
江戸・京都・大坂という三都を筆頭に、各地に城下町が築かれ、寺社の門前町や湊町も発展した。
現在の都市には、この時代の町場に始まるところが多い。
この時代の都市といえば、やはり江戸をあげなければならない。 
(『江戸の災害史 徳川日本の経験に学ぶ』倉地克直 中公新書 2016年)
 江戸の都市建設は、天正18年(1590)に徳川家康が関東八か国に転封され、その居所としたことに始まる。
しかし慶長6年(1601)に起きた大火によって、町屋のほとんどが焼失。
慶長8年から新たな町割りが行なわれ、再び建設が進む。
この年家康が征夷大将軍に任命されており、大規模な城郭建設が大名の御手伝普請(おてつだいぶしん)として行われた。
慶長12年には五層の天守閣が完成する。
 寛永18年(1641)慶長以来の大火という桶町(おけちょう)火事が起きる。
焼失町数97町、死者は数百人と言われる。
その後も都市域の拡大は進み、承応2年(1653)には人口増による水需要に応ずるため玉川上水(たまがわじょうすい)が引かれる。
 明暦3年(1657)は正月元日から火事が起きていた。
同18日、本郷(ほんごう)五丁目裏本妙寺(ほんみょうじ)から出火、折からの北西の大風に煽られて神田・浅草方面へ広がった。
翌19日には、小石川伝通院(こいしかわでんつういん)前新鷹匠町(しんたかじょうまち)と麹町(こうじまち)五丁目続き番町(ばんちょう)から出火、江戸城本丸・天守閣をはじめ江戸の町の大部分を焼き尽くす大火となった。
いわゆる明暦の大火だ。
武江年表(ぶこうねんぴょう)』は焼死者10万7046人と記す。
 初め酒井忠勝などは、謀叛(むほん)をたくらむ者の放火ではいかと疑った〔『徳川実紀』〕。
由比正雪(ゆいしょうせつ)の承応事件や戸次庄左衛門(へつぎしょうざえもん)の慶安事件は、つい五、六年前のことだ。
まずは民心を安定させることが急務であった。
鎮火後大雪が降り、焼け出された人びとのうち凍死する者も多く出た。
幕府は20日から浅草御蔵の米を放出して粥施行を行う。
施行は二度にわたって期間が延長され、2月12日まで続けられた。
江戸町中へは、米穀の安売りを命じるとともに、復興のために金16万両を下賜した。
屋敷を再建する武家に対しては、10万石以下1万石以上の大名には恩貸金(おんたいきん<無利子の拝借金>)が、万石以下100石までの幕臣には下賜金が与えられた。
 また無縁の焼死者を集め、塚を設けて葬り、一寺を設けた。
のちの回向院(えこいん)である。
幕府は増上寺(ぞうじょうじ)の貴屋(きおく)に300両を与えて、盛大な法要を営ませた。
 大火後、幕府は防災のための都市改造に取り組む。
御三家の屋敷が城内から城外に移され、それにともなって武家屋敷の移転が行われた。
大名も上屋敷の他に中屋敷や下屋敷を設けるものが増え、武家地が広がる。
寺院には郊外に移転するものもあり、町屋地には広小路や火除けの広場が設けられた。
隅田川に両国橋が掛けられ、本所(ほんじょ)・深川方面に武家屋敷や町屋が広がった。
1666年イギリスのロンドンで大火があり、これを機にロンドンでも防火のための都市改造が行われる。
その後、ロンドンも江戸も巨大都市に発展する。
 また、明暦大火後には常設の専門消火隊として「定火消(じょうびけし)」が設置された。
それまでの消火隊は「大名火消」があるのみだった。
「大名火消」は幕府によって大名に命じられるもので、幕府の重要施設を担当する「所々(しょしょ)火消」、江戸城の決められた方角に出動する「方角(ほうがく)火消」、臨時に命じられる「増(まし)火消」などがある。
これに対して「定火消」は幕府直属の消火隊で、旗本が任命されて若年寄(わかどしより)の指示で活動した〔池上彰彦「江戸火消制度の成立と展開」、『江戸町人の研究 5』吉川弘文館 1978〕。
(『江戸の災害史 徳川日本の経験に学ぶ』倉地克直 中公新書 2016年)
今朝の父の一枚です(^^)/
先日『野鳥の名前 名前の由来と語源』よりモズについて『日本書紀』に書かれていることを紹介しました。

仁徳天皇

 67年冬10月5日、河内の石津原においでになり、陵地を定めされた。
18日に陵を築いた。
この日、野の中から急に鹿が出てきて、走って役民の中に入り、倒れ死んだ。
その急に死んだのを怪しんで傷を探した。
百舌鳥(もず)が耳から出てきて飛び去った。
耳の中をみるとことごとく食いかじられていた。
それでそこを百舌鳥耳原(もずのみみはら)というのは、このいわれによるのである。
…後略…
(『日本書紀(上)』宇治谷孟訳 講談社学術文庫 1988年)

百舌鳥耳原中陵(もずのみみはらのなかのみささぎ)」(宮内庁)