2022年11月30日水曜日

雨のあと

今日で11月も終わり…
昨日は、よく雨が降りました。
朝は、暖かいと思ったけど午後になると寒くなりました。

近畿 冷え込み強まり12月1日夜からは北部山地で雪の見込み」(関西NHK)
折々のことば 鷲田清一 2513(2022.09.30)

 つかの間の秋晴れを、心配しつつすごすなんて、そんなもったいないことが出来ようか。 白洲正子

 戦争を何度も経験してきた人は、戦火のただ中にあっていたずらに不安を叫ぶだけだと、さらに悲惨な結果を招くことになると思い知っていると、随筆家は言う。
それを知るからこそ、人生を楽しもうとするのだと。
…中略…
美の遍歴』から。
そして今朝の
 折々のことば 鷲田清一 2772(2022.11.30)

  祖父の中にあったのは、焼ける前と焼けたあと、という区分だった。  星野博美

 町工場の連なる東京・五反田の工場地帯で戦時下をしぶとく生き抜いた祖父。
彼が遺(のこ)した手記を手がかりに、ノンフィクション作家は、この地の人々が経験した過酷な定めを綴(つづ)る。
庶民にとっては戦中・戦後という歴史の区分よりも、…中略…
世界は五反田から始まった』から。
昨日、紹介した『江戸の災害史 徳川日本の経験に学ぶ』に
1666年イギリスのロンドンで大火があり、これを機にロンドンでも防火のための都市改造が行われる。
と書かれていました。
ロンドンでは、この大火の後、木造建築の禁止などからなる建築規制など行なわれました(ロンドン大火 ウィキペディア)。
一方、江戸でも道幅拡張、側溝などについて定めたり、江戸町屋の藁葺、萱葺を禁止したりしたようです。
報告書(1657 明暦江戸大火)」(内閣府防災情報のページ)
しかし、その後も江戸は火事に見舞われています(「江戸三大大火」東京消防庁)。
日本の木造家屋を研究し、標的としたのがアメリカ軍の焼夷弾による無差別爆撃です。

「消せない火災」狙った兵器 米軍が使った焼夷弾の実態〟(朝日新聞 2019.08.15)
第5章 無差別爆撃命令書
 「戦術作戦任務報告」から


…中略…

 その中の一つ、3月10日の「戦術作戦任務報告」は超極秘資料で、一通ずつコピー・ナンバーがうたれ、第21爆撃機軍団司令官カーチス・E・ルメー署名つきの「爆撃命令書」を中心に、作戦、気象、通信、諜報(ちょうほう)、総合統計など多角的に構成され、東京大空襲がいかに綿密に準備され、実施されたかを知るのに、基本的な資料だといってよいだろう。
…後略…
(『東京が燃えた日 戦争と中学生』早乙女勝元 岩波ジュニア新書 1979年)
 ルメー将軍への贈り物

 この輝かしい〝大戦果〟に対して、B29の損害は14機だった。
日本の戦闘機の攻撃によるものは零だったが、高射砲によって2機、事故と故障によるもの1機、不時着水で4機、その他不明機が7機である。
ほかに42機が多少の損害を受けたが、不時着水したB29から40名の搭乗員が救出された。
 私がもっとも興味をそそられたのは、この40名の乗員を救うための、大がかりな空と海にわたる救助計画の項目だった。
 乗員の生命救助のために、日本本土からサイパン・マリアナ基地までのB29の帰途洋上に配備された潜水艦は4隻である。
各作戦任務の全時間中、つぎの場所で待機した。
すなわち、北緯34度50分・東経140度40分、北緯34度00分・東経141度00分、北緯33度00分・東経141度20分、北緯32度00分・東経141度40分。
つぎに駆逐艦、水上艇など洋上艦3隻、ダンボ機とよばれる大型機4機が、潜水艦とおなじように、それぞれ事前に指定された地点に配備された。
 不時着水機と故障機からSOSが発信されれば、大型機はただちにその現場に急行し、緊急装備を投下し、潜水艦ならびに洋上艇に指示をあたえることになっている。
 B29にかぎらず、米空軍の空中勤務者には、特別の救命具が渡されていたが、それはつぎのようなものだった。
ゴムボート1、十字のマーク入り鏡1、携帯食料5日分と水筒に水、釣り道具、小刀、のこぎり各1(現地自活用)、ウォルサムの時計2(物々交換用)などで、その用意に手ぬかりはないが、十字のマーク入り鏡はなんに使うのかといえば、搭乗員がゴムボートの上から反射鏡で、捜索機に位置を知らせるためである。
 報告書によれば、不時着水した1機は、乗員9名がゴムボートに乗りうつってから、わずか18分後に救助されている。
また1機は、パジャリス島海岸線に不時着水し、捜索機と交信を取って、1時間以内に掃海艇が急行し、9名全員がぶじ救出された。
 日本軍の場合だったら、まず、このようなことは考えられない。
神風特別攻撃隊で知られるように、爆弾をかかえた攻撃機は、往路のガソリンしか用意してなかった。
敵艦隊に体当たりできようができまいが、ひとたび出撃すれば、とび立ったとたんに故障でもしないかぎりは、二度とかえってこれなかった。
出撃はすなわち死の旅出で、兵隊の生命は鴻毛(こうもう<鳥の羽根>)のように軽かったのである。
 私は、ルメー司令官の手になる「戦術作戦任務報告」のコピーをくりながら、この「空海協同救助計画」とその詳細な救助計画図を見ているうちに、なんだか、妙な気持になってくるのを押さえることができなかった。
 なるほど、ルメー司令官は、自分の部下の生命を、どんなに尊重していたかはよくわかる。
ルメー将軍にかぎらず、アメリカ軍の場合は、だれもが納得できる救助計画がなければ、作戦任務そのものが成立しなかったのだろう。
しかし、それほど一人ひとりの人間の命が大切だというならば、その兵士たちの無差別〝絨緞爆撃〟によって、一夜にして失われた10万人の生命は、どういうことになるのだろう。
小さな蟻や虫けらのたぐいとおなじなのか。
虫けらだって、10万匹を焼き殺すことは、ふつうの神経の人間にはできることではない。
 「私は、日本の民間人を殺していたのではない。日本の軍需工業を破壊していたのだ。日本の都市の家屋は、すべてこれ軍需工場だった。スズキ家がボルトを作れば、お隣のコンドウ家はナットをつくり、おむかいのタナカ家はワッシャをつくっていたというぐあいに。……東京や名古屋の木と紙でできた家屋の一軒一軒が、すべてわれわれを攻撃する武器の製造工場になっていたのだ。これをやっつけてなにが悪いことがあろう。日本では女も、子どもまでが軍需産業にたずさわっていたことは以上の通りだが、残虐さは戦争そのものに帰せられるべきである」
と、ルメー司令官は自伝の中に書き残した。
 残虐さは戦争というならば、戦争と人間との関係は、どういうことになるのだろう。
すべての責任は戦争にあって、人間にはないのだろうか。
人間なしに、戦争があるはずはないのに。――
 もっとも、一般市民を対象とした無差別爆撃をせめるならば、ルメーとアメリカばかりでなくて、日中戦争勃発の1937(昭和12)年、日本軍は中国の首都南京を占領、市民大虐殺のあと、蒋介石(しょうかいせき)政府を追いかけて、揚子江上流の都市重慶(じゅうけい)に対し、翌年2月から非戦闘員をふくめた無差別爆撃を200回以上もおこなった事実を、見落としてはならないだろう。
 戦後、カーチス・E・ルメーは、ヨーロッパ駐留米空軍司令官、米軍戦略空軍指揮官を経て、1961(昭和36)年、米空軍参謀総長に就任した。
まもなくベトナム戦争がアメリカの全面的介入によって火を吹きはじめると、ルメーはB29にかわって〝黒い殺人機〟と呼ばれるB52戦略爆撃機で、北ベトナムのジェノサイド(皆殺し)無差別爆撃の火の雨をあびせかけ、「ベトナムを石器時代に引きもどしてやる」といった。
 1965(昭和40)年、空軍参謀総長からおりたルメーは、民間会社ネットワーク・エレクトロニクス社の重役になり、その後の大統領選挙に、ウォレス候補の要請を受けて、副大統領候補として出馬したこともある。
 そのカーチス・E・ルメーが、まだ米空軍参謀総長のころ、極東方面を視察中、日本に立ちよったのは、1964(昭和39)年12月6日のこと。
翌7日朝、埼玉県の航空自衛隊入間(いるま)基地に向ったルメーは、そこで天皇と日本政府からの贈り物「勲一等旭日大綬章(きょくじつだいじゅしょ)」を受取ったことを、最後に書きしるしておかねばならない。
授賞の理由は、ルメー大将が「日本の自衛隊建設に非常に功労があったから」というのが、衆議院予算員会での、佐藤栄作首相の答弁だった。
(『東京が燃えた日 戦争と中学生』早乙女勝元 岩波ジュニア新書 1979年)

カーチス・ルメイ」(ウィキペディア)


渡邉英徳さんのTwitterに

83年前の今日。
1939年11月30日,ソビエト連邦がフィンランドに侵攻,「冬戦争」が勃発した。
写真はタンペレにて機関銃を構えるフィンランド軍兵士。

ニューラルネットワークによる自動色付け+手動補正。
今朝の父の一枚です(^^)/

 鷺(さぎ)
〇以上の他、サギに関する俚言・俗信には次のようなものがある。
シラサギが飛んでくると漁がある(愛知)、シラサギが飛び廻れば不時の事あり(大阪)と、吉凶二相を占う。
田植シラサギ(広島・長崎)とは、田植次期にシラサギが時に多く現れるところからの呼び名という。
シラサギの立つ所には清水が出る(千葉)。
(『日本俗信辞典 動物編』鈴木棠三 角川ソフィア文庫 2021年)