朝食を抜いて病院へ。
検査が終わって喫茶室でパンを買いました。
入院中、病院食のパンがおいしかった。
看護師さんに聞くと喫茶室のパンは、同じ工場で作っているのだそうです。待ち時間に読んでいたのが図書館で借りた
片桐はいりさんの『もぎりよ今夜も有難う』
退屈な時間を忘れるほど(^^)v
片桐はいりさんは10歳ほど年下なんだけど…
巴里の空の下ケムリは流れる
学校時代ストーブにコークスをくべた記憶があるのは、何歳から何歳くらいまでの世代だろうか。
同い歳の東京生まれに聞いても、いったいそれな時代のどこ地方の話? と、まるで昔話を聞くように煙たい目をする人もいる。
東京の南のはずれの下町だけど、我が小学校時代、暖房はいわゆるだるまストーブだった。
日直がバケツにコークスを取りに行き、休み時間に少しずつくべてゆく。
人並みはずれた暑がりのわたしは、頼まれもせぬのにストーブ番を買って出て、炭の量を最小限にごまかしていた。
中学に入ると、校舎こそおんぼろの木造だったけど、暖房はすっかり全校温度調整されたヒーターが設置されていた。
わたしは特別に許しを得て夏用の制服を着、窓際の席を与えられて、すきま風を入れてしのいでいた。
20代になって、もう一度コークスの暖房に巡り合うことになるとは思いもよらなかった。
時は昭和、でも最後の数年である。
石炭やコークスの思い出なんて、終戦後に給食で脱脂粉乳を飲んだとか飲まないという話と同じくらい遠い過去になっていた、はずだった。
わたしが働いていた銀座文化では、入れ替え時間が忙しくないプログラムの時はたっぷりとお昼休みがもらえた。
時間はあってもお金がないもぎりたちは、お弁当を持ち寄っては眺めの良い場所にくりだして、のんびりとランチタイムを楽しんだ。
日比谷公園、晴海の埠頭、銀座通りに並んだデパートの屋上。
なかでもわたしがお気に入りだったのは、銀座文化の屋上である。
裏通りのビルの上から眺めるこの街は、地上とはまるで別人の顔をしていた。
銀座のどまん中とは言え、それぞれのビルに上には洗濯物がつるされた屋根部屋があったり、さびたデッキチェアやビーチパラソルが放られていたり、ひそかに育てられた植木が花を咲かせていたりする。
日本一の高級商店街の上空にも、少しだけ暮しの匂いが漂っていたのだ。
もぎりたちはスクリーンの向うに広がる異国の街に憧れて、よく銀座通りをニューヨークの五番街に見立てたりしていたけれど、銀座文化の屋上はさながら、巴里の屋根の上だった。
わたしたちは、「彼の地のアパルトマン暮してのはもしかしたこんなふう?」と思いをはせながら、フランスパンならぬ、木村屋のあんぱんなどをかじったものだ。
…後略…
(『もぎりよ今夜も有難う』片桐はいり キネマ旬報社 2010年)
小学校時代、日直がバケツで石炭を取りに行っていた。
片桐さんの年代でコークスで暖房していたのにビックリした。
高校時代は、小さな丸いガスストーブ一個だったけど、
そのストーブで、生のニンニクを焼いた同級生がいて始末書を書かされた。
泊まりのクラス会をしたときに「生ニンニク焼き事件」の話で盛り上がった(*´▽`*)
そんな無邪気?な思い出話で盛り上がるクラス会が新型コロナ感染拡大で開かれずにいる。
高校時代は、小さな丸いガスストーブ一個だったけど、
そのストーブで、生のニンニクを焼いた同級生がいて始末書を書かされた。
泊まりのクラス会をしたときに「生ニンニク焼き事件」の話で盛り上がった(*´▽`*)
そんな無邪気?な思い出話で盛り上がるクラス会が新型コロナ感染拡大で開かれずにいる。