2021年5月1日土曜日

予約の後に…

父のワクチンの予約がなんとかとれました。
75歳以上の高齢者が対象なんですが、
Web予約は高齢者の方にはハードルが高いだろうし
電話予約だと、1回目、2回目と予約をとるのに時間がかかっているだろうなぁ…

リハビリ散歩に出かけましたが、10時前だとやはり暑い(^-^;
それに人出が多かったです。
見ていると家族連れが多いのはわかるのだけど
子どもたちのスポーツクラブの団体を何組か見かけました。

「3密」でなくても集団感染のおそれ〟(NHK 4月30日)
昨夜のドキュメント72時間「奄美 海上タクシーに乗って
懐かしそうに見ていた父は、幼少の頃、奄美大島で暮していて、
父親が亡くなってから徳之島に渡った。

番組の中で
5年前まで関西に住んでいて、夫のふるさと加計呂麻島に引越してきた親子。
小学2年生の男の子は、自閉症で結構動き回るのだけど
この島では島の人々に温かく迎えられていました。
自然の中でゆっくりと成長している。

18人が通う小中学校。
26歳の講師の先生。
初めての赴任先だったそうです。
幸せな教師生活を送れたのだと思う。
先生になりたいという気持ちがより強くなっただろうなぁ。
歩いている時に
宮城県で震度5強 津波なし 宮城で5強は3月以来」(NHK)
がおきていたんだ…

5月1日 寛文2年(1662.6.16) 京畿大地震(実紀)。
(『日本史「今日は何の日」事典』吉川弘文館編集部 2021年)
5月1日
 長徳2年(996.5.20) 中宮藤原定子(ていし)、出家(小右記5月2日条)。
(『日本史「今日は何の日」事典』吉川弘文館編集部 2021年)

定子に仕えたのが清少納言。
清少納言が『枕草子』を書かなければ定子のことは、後世忘れられてしまったのではないかと思います。
枕草子[能因本]』の「解説」より作品の背景について転記しますφ(..)
尚、原文に書かれていなかった読み仮名を追加しています。
本文の中に書かれていると思うけど、探す余裕がないので間違いかも知れませんm(__)m
なお文中の『枕草子』の段は、「能因本」です。
解説
 三 作品の背景について


 作者の仕えた定子中宮なくして、『枕草子』は生まれ得なかったであろう。
本項では、こうした定子中宮とのかかわり合いを中心として、この作品の内容や性質をめぐる問題について述べてみたい。
(『枕草子[能因本]』松尾 聰、永井 和子訳・注 笠間文庫 2008年)
  平安中期に藤原兼家(ふじわらのかねいえ)が政権をとるに及んで、藤原氏の位置は不動のものとなった。
更に、兼家の長子道隆(みちたか)が関白になってからは、この一門は政治の中枢を占めると同時に、当時の文化全体をになう立場に置かれることともなって、まさに全盛をきわめたのである。
  この道隆の一門を、同じ兼家の息(そく)でも道兼や道長の家と区別して、中関白家と称している。
その道隆のむすめである中宮定子は、こうした中関白家の栄華と権威とを土台として、一条天皇のもとに入内したのであるが、むしろ定子の入内によって中関白家の基盤は定まったと表現すべきかもしれない。
こうした場合問題となるのは、中宮その人の資質のいかんであるが、幸いにも定子は稀に見る最高の美質を備えた女性であったからである。
その、高貴にしてしかも明るく才気に富む中宮のもとに、清少納言は宮仕えしたのである。
ところが、宮仕え後、しばらくして不幸にも道隆は病没し、これを契機として中関白家は没落の一途をたどることになる。
ついには道長の勢力に押しひしがれた形のうちに、定子は24歳の生涯を閉じ、それと同時に『枕草子』の中宮をめぐる記事も終止符が打たれた。
すなわち作者に即して言えば、清少納言は中宮の最盛期と、その悲運の時代とに立ち会ったわけであるが、『枕草子』はそうした後半の時期の暗さについてはほとんど何も語ってはいない。
「をかし」や「めでたし」の語に代表される、中宮に対する明るく快い感度や讃美が全体の色調であって、われわれは主として外側の他の資料から、上述したような政治的な暗い背景を知らされてむしろ驚くのである。
 まず定子中宮のこうした運命の変転をもう少し具体的に述べておこう。
巻末の年表(省略)をあわせて見られたい。
定子中宮は貞元2年(977。貞元元年とも)才学のほまれ高い高内侍(高階成忠のむすめ貴子。儀同三司母とも称される)を母として生まれた。
『枕草子』に見える伊周(これちか)、隆家(たかいえ)、隆円(りゅうえん)、淑景舎(しげいしゃ)女御原子(もとこ/げんし)、御匣殿(みくしげどの)などは同母のきょうだいである。
定子は正暦元年(990)14歳の折に、11歳の一条天皇のもとに入内したが、一条天皇も道隆の妹東三条院詮子(せんし)を母としているので、いとこ同士ということになる。
正暦4年初出仕説に従えば、作者は28歳前後のころに、約10歳年下の中宮のもとに宮仕えしたわけである。
この折のことは、前述のごとく182段の「宮にはじめてまゐりたるころ」の記事にくわしい。
 作者が定子のもとに出仕してから一年半ほどたった長徳元年(995)4月10日、定子の父の関白道隆は病没した。
この後継者の座をだれが占めるかということが、中宮の運命を決するのであった。
大まかに言えば、道隆の息子と、道隆の弟の間でこの座は争われ、息子たちの側が敗退するに及んで、定子の悲運は決定的なものとなったのである。
定子の兄伊周は内大臣であったが、帝の生母東三条院詮子の力によって、兼家の次男道兼が伊周を押しのけて関白となった。
ところがわずか十日ほどのちの5月8日に、疫病のために道兼も病没し、この折にも伊周は敗れて、5月11日に道長に内覧の宣旨が下ったのである。
 以後、道長の伊周らに対する攻撃ははげしいものとなり、長徳2年(996)花山院に対して従者が矢を射かけ奉った、という罪状をもって、伊周は大宰(だざい)の権(ごん)の帥(そち)に、その弟の隆家は出雲の権(ごん)の守(かみ)として宮中から追われることとなる(『栄花物語』の「見果てぬ夢」に詳しい)。
中宮定子も、宮中から里邸である二条の宮に移られた。
このころ清少納言は、道長方の人であるということで中宮の女房たちから敵視され、しばらく里に籠っていたらしい。
このことは146段の「故殿などおはしまさで、世ノ中に事出で来」の記事に見えている。
更に6月8日には里邸二条の宮が焼失し、中宮は二条の高階明順(あきのぶ)の邸に移られるなどの不幸があった。
10月には定子の母貴子が心痛の中に世を去ってしまう、といった悲しみにたえて、中宮は12月に第一皇女脩子(しゅうし)を出産された。
 長徳3年(997)、大赦によって伊周、隆家は罪を赦(ゆる)されて入京したが、すでに昔日の面影(おもかげ)はなくなっていた。
しかし中宮も宮中に帰り、職の御曹司にはいられ、清少納言もお供をした。
80段、90段、139段、104段などはそのころの記事であろう。
なお長徳2年以降は、7月に大納言公季(きんすえ)のむすめ義子が弘徽殿(こきでん)女御として入内するなど、一条天皇もとには数人の女御が次々に入内するのであるが、天皇としては中宮定子を最も寵愛しておられたようである。
 長保元年(999)11月7日、中宮は大進生昌(だいじんなりまさ)の家で第一皇子敦康(あつやす)親王を出産された。
6段の「大進生昌が家に」の記事は、それに先立つ8月の出来事である。
これより先11月1日に入内した道長のむすめ彰子は、敦康親王生誕の同日に女御となった。
 長保2年(1000)2月には、定子は皇后に、彰子は中宮となって、彰子の力はついに定子の存在をおびやかすものとなる。
同年12月15日、皇后となった定子は第二皇女媄子(びし)を御産になったが、翌16日、24歳(または25歳)の短い生涯を閉じた。
(後略)
(『枕草子[能因本]』松尾 聰、永井 和子訳・注 笠間文庫 2008年)