2021年5月31日月曜日

5月も終わりだけど

明日はもう6月。
6月の花といえば、母の好きな
ネムノキが花を咲かせる準備をしていました。
カルガモの子どもが何か飲み込もうとして苦労しているみたい(ミミズかな?)。
カルガモは雑食だそうですが…
「五輪、ステージ3なら無観客」言えぬ分科会専門家 政府が難色〟(毎日新聞)
専門家の意見を捻じ曲げて感染拡大を招いているのは政府だけでなく大阪もだと思う。

東京五輪観客に「陰性証明」求める、1週間以内の取得条件…政府原案〟(読売新聞)
の中に、観戦中の食事や飲酒は、禁止されるようですが
 デーブ・スペクターさんのTwitterに

【速報】「選手村では飲酒OK」の報を受け、都内の酒類提供店は名称を選手村に変更へ

「酒出せなくても…」ノンアルのカクテルやワイン 活発な動き〟(NHK)
発病以来、アルコールを飲めなくなったのでクラス会ではノンアルコールです。
それでも美味しいなと思います(^_^)v

お上の不条理なやり方に庶民は黙って従っているばかりではありません。
浮世絵EDO-LIFE「落書き?名作?衝撃の一枚!国芳“荷宝蔵壁のむだ書き”
で紹介されていたけど、江戸時代に贅沢禁止令が出た時に反骨精神を発揮していました。

荷宝蔵壁のむだ書」(国立国会図書館)
国芳だけでなく
江戸時代「贅沢禁止令」に反骨精神で挑んだ浮世絵師たち〟(Japaaan 2016年11月8日)
原民喜にとって貞恵さんは、

 最大の理解者であり庇護者でもあった妻は戦時中に喪い、その後広島で被爆した原にとって、戦後の東京生活は、孤独と貧しさとのたたかいだった。
その中で執筆を続け、ついに力尽きたのだった。 (P07)

 原は薄紙に包んだ妻の写真を肌身離さず持っていた。
死別したあとも彼を支えていたのは妻の存在であったことを、友人たちはみな知っていた。 (P23)
(『原民喜 死と愛と孤独の肖像』梯久美子 岩波新書 2018年)

原民喜は、貞恵さんが亡くなった後もよく生き続けたと思います。
その生きる原動力(?)となったのは何かという問いに「死と愛と孤独」というエッセーに
  死と愛と孤独

 原子爆弾の惨劇のなかに生き残つた私は、その時から私も、私の文学も、何ものかに激しく弾き出された。
この眼で視た生々しい光景こそは死んでも描きとめておきたかつた。
「夏の花」「廃墟から」など一連の作品で私はあの稀有の体験を記録した。
(『定本原民喜全集Ⅱ』編集委員 山本健吉・長光太・佐々木基一 青土社 1978年)
 たしかに私は死の叫喚と混乱のなかから、新しい人間への祈願に燃えた。
薄弱なこの私が物凄い饉餓と窮乏に堪へ得たのも、一つにはこのためであつただらう。
だが、戦後の狂瀾怒濤は轟々とこの身に打寄せ、今にも私を粉砕しようとする。
「火の踵」「災厄の日」などで私はこのことを扱つた。
 まさに私にとつて、この地上に生きてゆくことは、各瞬間が底知れぬ戦慄に満ち満ちてゐるやうだ。
それから、日毎人間の心のなかで行はれる惨劇、人間の一人一人に課せられてゐるぎりぎりの苦悩――さういつたものが、今は烈しく私のなかで疼く。
それらによく耐へ、それらを描いてゆくことが私にできるであらうか。
 嘗て私は死と夢の念想にとらはれ幻想風な作品や幼年時代の追憶を描いてゐた。
その頃私の書くものは殆ど誰からも顧みられなかつたのだが、ただ一人、その貧しい作品をまるで狂気の如く熱愛してくれた妻がゐた。
その後私は妻と死別れると、やがて広島の惨劇に遭つた。
うちつづく悲惨のなかで私と私の文学を支へてゐてくれたのは、あの妻の記憶であつたかもしれない。
そのことも私は「忘れがたみ」として一冊は書き残したい。
 そして私の文学が今後どのやうに変貌してゆくにしろ、私の自我像に題する言葉は、
  死と愛と孤独
恐らくこの三つの言葉になるだらう。
……十数年も着古した薄いオーバーのポケツトに両手を突込んで、九段の濠に添ふ夕暮の路を私はひとりとぼとぼ歩いてゐる。
    (「群像」昭和24年4月号に初出)
(『定本原民喜全集Ⅱ』編集委員 山本健吉・長光太・佐々木基一 青土社 1978年)
今朝の父の一枚です(^_^)v
タイサンボクを何枚も写していました。
その時についつい夢中になり、足を滑らせて右手をついたときに右肩を痛めたようです。
明日、ワクチン接種なんだけど…
整形外科で診てもらおうといっても「これくらい」と言って聞いてくれません。