と、いうことで自転車でやってきました。
晴れなんだけど…遠くの山(飯盛山方面)が霞んで見える。
「西~北日本で黄砂観測 函館では視程6キロ 運転や洗濯物に注意」(NHK 5月8日)
自転車でくるときは、心肺機能が低いのでマスクをずらすのですが、
黄砂を考えるとマスクをしたままやってきました。
やはり息が上がりそうになります、気温も8時過ぎには、もう20度を超えていました(^-^;咲き出しました(^^)v
ドクダミ(蕺草) ドクダミ科・ドクダミ属
毒を矯正する、抑制するという意味の「毒矯め」、毒や痛みをとる「毒痛み」が名の語源といわれる。
白い地下茎を長く伸ばして、湿った半日陰地に群生する。
軟らかい茎は、赤みを帯びて直立し、スペードのような葉をつける。
4枚の白い花弁状のものは総苞片(そうほうへん)。
花弁の萼(がく)もなく、花は真ん中に立つ1~3cmの花穂に、雄しべと雌しべがあるだけ。
(『道草の解剖図鑑』金田初代 エクスナレッジ 2021年)
今日は、「世界赤十字デー」(日本赤十字社)
「今も昔も、感染リスクの最前線に 引き揚げ港で倒れた看護師」(NHK 5月6日)
父も南方の戦線から帰ってきた兵隊が持ち帰ったマラリアに感染しました。
感染症に対する偏見や差別は、現在も人々の心に蔓延しています。
原民喜が「コレラ」(昭和10年)という短篇を書いています。
『焔』(昭和10年)
コレラ
コレラが流行り出した。
コレラはもう四五町さきまでやつて来た。
胃腸の弱い彼はすつかり神経を鋭らせた。
買はないと云ふのに魚屋は毎日勝手口からやつて来る。
屑屋まで此頃はわざと勝手口からやつて来て、お宅の井戸は、と賞めながら勝手に水を飲む。
用事もない奴等が出入する度に彼は冷々した。
到頭、我慢がならないので、
コレラ流行につき無用の者出入すべからず
と一筆貼り出した。
(『定本原民喜全集Ⅰ』編集委員 山本健吉・長光太・佐々木基一 青土社 1978年)
すると翌朝、巡査と医者がやつて来た。
「御宅に病人があるさうですが……」と二人は彼がまだ寝てゐるところへどかどか侵入して来た。
「患者と云ふのはあなたですな。」と医者は彼を一目で判断した。
「いや、僕は胃腸が悪いことは事実ですが、まだコレラには罹つてゐませんよ。」と彼は拙(つたな)く弁解した。
「それでは一つ規則ですから避病院へ入つて貰ひませう。」と巡査が云ふ。
「ハハハ、一体僕がどうしてコレラなのかしら。」父も南方の戦線から帰ってきた兵隊が持ち帰ったマラリアに感染しました。
感染症に対する偏見や差別は、現在も人々の心に蔓延しています。
原民喜が「コレラ」(昭和10年)という短篇を書いています。
『焔』(昭和10年)
コレラ
コレラが流行り出した。
コレラはもう四五町さきまでやつて来た。
胃腸の弱い彼はすつかり神経を鋭らせた。
買はないと云ふのに魚屋は毎日勝手口からやつて来る。
屑屋まで此頃はわざと勝手口からやつて来て、お宅の井戸は、と賞めながら勝手に水を飲む。
用事もない奴等が出入する度に彼は冷々した。
到頭、我慢がならないので、
コレラ流行につき無用の者出入すべからず
と一筆貼り出した。
(『定本原民喜全集Ⅰ』編集委員 山本健吉・長光太・佐々木基一 青土社 1978年)
すると翌朝、巡査と医者がやつて来た。
「御宅に病人があるさうですが……」と二人は彼がまだ寝てゐるところへどかどか侵入して来た。
「患者と云ふのはあなたですな。」と医者は彼を一目で判断した。
「いや、僕は胃腸が悪いことは事実ですが、まだコレラには罹つてゐませんよ。」と彼は拙(つたな)く弁解した。
「それでは一つ規則ですから避病院へ入つて貰ひませう。」と巡査が云ふ。
「駄目だ、匿したつてこちらにはわかつてる。さあ入院の仕度し給へ。」
「詳しい診断(こと)はとにかく避病院へおいでになつてからにしませう。」と医者も急かす。彼の女房はわーと泣き出した。
そのうち自動車が迎へに来る。
彼は噦泣く女房と二人で自動車に乗ると、窓から見る暑い街のアスフアルトがこの世の見をさめではないかと思はれた。
なに、屹度直ぐに戻れるとも思つた。 避病院に着くと、「彼はとんとんと廊下を通つた。
患者がぴんぴん歩けるので、看護婦は目を瞠つた。
ともかく16号室に入れられて、今度は違ふ医者がやつて来た。
「僕がどうしてコレラですか。」と彼が抗議すると、その医者は穏かに肯いた。
「まあまあ。さう興奮なさるな、四五日経過してみて疑ひが晴れれば直ぐに退院させますから。」
彼は四五日したら、それこそほんもののコレラになりさうな気がした。
ベッドも天井もコレラ菌だらけの部屋のやうに思へた。 茫として時間が長かつた。
そして、やうやく夜になつた。
睡らうとすると、隣りの部屋が急にざわめき出した。
誰かの息子の断末魔らしく、低く鈍く喘ぐ声がつづいてゐたが、突然母親らしい声が怒鳴り出した。
「それみろ、云はないことか、あれほど殺生するなと云つたのに、お前が釣ばかりしてゐたから魚の罰があたつたのだ、ええツ、情ない、極道息子め!」 そのうち急に、しーんと物音が歇んだ。
次いで今度は二つ三つの泣声がゆるく流れて来た。
ふと、彼はベツドから女房の方を見下した。
女房もまだ起きてゐて、不思議に毅然たる姿勢を保つてゐた。
(『定本原民喜全集Ⅰ』編集委員 山本健吉・長光太・佐々木基一 青土社 1978年)〝競泳 池江璃花子 五輪めぐり心境「あたたかく見守ってほしい」〟(NHK 5月7日)
池江璃花子さんのTwitterを見ていると、胸が痛くなります。
今朝の「NHK映像ファイル あの人に会いたい」に前畑秀子さんが登場していました。
前畑選手もドイツのゲネンゲル選手も国家によって利用されていたと思います。
「アンコール 前畑秀子(水泳選手)」 (株)読売新聞社『読売新聞百年史. 資料・年表』(1976.11)
昭和16年(1941)5月8日
初の肉なし日(毎月2回、肉屋、食堂などで肉不売)
(「渋沢社史データベース」)
このような状況で同じ年の12月8日に日米開戦へと突き進んで行きました。
「戦争と国民生活~日中戦争・太平洋戦争~」10min.ボックス 日本史)
「日本は戦争をやる資格のない国」だと言い切った軍人がいました。
(新型コロナが感染拡大している「日本はオリンピックをやる資格のない国」)
日本は戦争をやる資格のない国
持久戦のできない国であるからこそ、速戦即決の作戦を立てたり、想定敵国を地政学的に挟み撃ちにすることを考えたりしなければならないわけですね。
ご苦労なことです(笑)。
ならば、日本は持久戦ができないのなら、そもそも戦いのエントリーができない国なのだと自ら認めてしまえばよいのだと考えた人がいました。
軍人でありながら平和思想を説いた人ですが、知っていますか?
昭和のはじめに平和思想を説いた海軍の提督です。
(『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』加藤陽子 朝日出版社 2009年)――山本五十六?
違います。彼は心のなかでは平和思想を持ってはいたのですが。
――米内光政?
米内も実にまともな軍人でした。
しかし、山本や米内ではない。
1920年代に、「日本はこういう理由で、そもそも戦争ができない国です。だから戦争など考えるのはやめてしまいましょう」といった人。
知りませんか? 答えは水野廣徳(ひろのり)です。 水野は1929年に「無産階級と国防問題」という文章を書いています。
この二つの単語がなぜ結びつくのか、不思議ではありませんか。
水野は、国家の安全とはなにか、というところまで深く考えた人でした。
29年といえば、いまだ飛行機が初歩的な進歩しか遂げていない頃です。
さて水野は、日本が島国で領土的な安全がめったな理由で脅かされることがないならば、日本の国家として不安材料は経済的な不安だけだろう、と述べる。
外国との通商関係の維持が日本の国家としての生命であるはず、ならば、それは他国に対して日本が「国際的非理不法」を行なわなければ保障される。 日本は経済が大事なのだろう、と。
国家の重要物資の8割を外国に依存している国なのだから、生命は通商関係の維持にある。
通商の維持などは、日本が非理不法を行なわなければ守られるものである。
現代の戦争は必ず持久戦、経済戦となるが、物資の貧弱、技術の低劣、主要輸出品目が生活必需品でない生糸(きいと)である点で、日本は致命的な弱点を負っている。
よって日本は武力戦には勝てても、持久戦、経済戦には絶対に勝てない。
ということは、日本は戦争をする資格がない、と。
こういうことをいう軍人がいたのです。
私は「技術の低劣」という点については水野の点は辛すぎると思います。
ですが、確かに水野のいうとおり、日本の主要輸出品は世界にとって生活必需品ではない。
相手国にとって死活的に重要な物資でもなかった。
タングステンやウランやチタンなど日本では産出しない。
せいぜい輸出できるのはお嬢さんを喜ばせる生糸、綿布くらいとなると、いかにも弱い。
日本との貿易が途絶してもどの国も困らない。 かくの如(ごと)く戦争が機械化し、工業化し、経済力化したる現代においては、軍需原料の大部分を外国に仰ぐがごとき他力本願の国防は、あたかも外国の傭兵(ようへい)によって国を守ると同様、戦争国家としては致命的弱点を有せるものである。極端に評すればかくの如き国は独力戦争をなすの資格を欠けるもので、平時にいかに盛んに海陸の軍備を張るとも、ひっきょうこれ砂上の楼閣(ろうかく)に過ぎないのである。
この水野の論は、徹底しているという点で胡適(こてき)の論に相当するかもしれません。
中国の国土の何割か、海岸の大部分が封鎖されて初めて、米ソを戦争に巻き込めるとの胡適の議論と似ている。
水野の議論も、日本は戦争をする資格がない、こうくるわけです。
しかし、水野の議論は弾圧されます。
また国民もこのような議論を真剣に受け止めない。
すぐ別のところへ議論が飛んでしまうのです。
つまり、持久戦ができない、ならば地政学的にソ連を挟撃しようか、あるいはいかに先制攻撃を行なうか、といった二者択一になってしまう。
(『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』加藤陽子 朝日出版社 2009年)