2021年4月30日金曜日

四月も終わり…

雨が止んでくれました。
久しぶりに公園に着くとミカンの花の甘い香りが漂っていました。
昨日、妹から虹が出ていると電話がありました(18:30頃)。
きれいな半円の虹。
よく見ると二重の虹でした。
建物まで入れると分かるのですが、場所を特定されるので(^_-)-☆

岸政彦さんが、同じ頃に

大阪のみなさん凄い夕焼けですよ
 虹(にじ)
 <朝虹(あさにじ)・夕虹(ゆうにじ)・二重虹(ふたえにじ)>三夏 天文

 雨あがりに雨粒が漂い、無風で太陽が現れると、その反対側に虹が出る。
太陽を背にして立つと、それが見える。
球状の雨粒へ入射した太陽光は波長に応じて屈折し、球の中で一度反射して出る。
一つの雨粒から出た一つの光を観察者は見ている。
雨粒が広く分布しているといろんな方向から波長の異なる光を見ることになる。
 輪の外側が波長の長い、つまり屈折率の小さい赤、内側が波長の短い、つまり屈折率の大きい紫である。
これが主虹(しゅこう)で、光が強いと雨粒の中で2回反射した光も見える。
それが主虹の外の副虹(ふくこう)である。
副虹は輪の外側が紫、内側が赤である。
主虹と副虹の間は「アレキサンダーの暗帯」と呼ばれる暗い部分になっている。
主虹の外側と副虹の内側は反射光が入ってこない状態になるので、宇宙を見ていることになる。
(『季語の科学』尾池和夫 淡交社 令和3年)
 雨粒の少ない秋には虹は出ない。
春の虹、冬の虹は季語にある。
夏は、夕立が止んで強い太陽の光があると鮮やかな虹が出る。
冬、時雨の後に京都では昼の虹が出る。
 ニュートンは虹を研究して虹は七色とした。
それより前、北アメリカでも七色とする文化があったが、現代では六色である。
日本でも昔、五色、六色、八色の時があった。
沖縄では二色、中国では五色とされていた。
虹の色が何色あるかは歴史と文化の問題なのである。
  虹霓(こうげい)が虹の漢語表現で、虹は、はっきりと見える主虹であり、霓はその外側に薄く見える副虹をいう。
古代中国において、これらをそれぞれ雌雄の蛇または竜として、対にした表現である。
 虹以外にも、七色に輝く現象がある。
ハロは、太陽が透けて見える薄雲が広がった時、太陽の周りにボンヤリと見える光の輪。
幻日(げんじつ)は、太陽の横で虹色に輝く現象。
環天頂アークは、下側にへこんだ弓形に見える虹色現象。
環水平アークは、太陽の高さが高い時に見られる現象である。(カラー133頁<省略>)

 黒板に明日の予定虹二重   藺草慶子(いぐさけいこ)

(『季語の科学』尾池和夫 淡交社 令和3年)
 「まいにち 養老先生、ときどき まる」(見逃し配信:5/6午後6:44 まで)
まるが去年12月に拘束性心筋症で亡くなった…
養老先生も去年6月に心筋梗塞を発症してICUに入院してたんだ…

私は、一番太い冠動脈が詰まってしまった。
今なら救急車を呼んでも間にあったのかな…
あの時、主治医の先生が「一刻を争う」と言われた。
私も人工呼吸をうけていたときに幻覚を見ていました。
海岸沿いをバスに乗って白い巡礼服で巡っていました(歩き遍路でないのが私らしいけど…)
あのまま対岸に渡っていたら補陀落渡海に渡っていたかな?

「生死をさまよい、娑婆に戻ってきた」病院嫌いが心筋梗塞になって考えたこと〟(PRESIDENT Online 養老孟司 2021年4月18日)
 市川考古・歴史博物館(公式)のTwitterに

#白幡天神社
今日は1959年(昭和34年)4月30日未明に永井荷風が亡くなった日です。
荷風は市川市八幡で、79歳の生涯を閉じました。
白幡天神社の境内には、
荷風の名を彫った碑があります。

この時、半藤一利さんが永井荷風宅にかけつけ、週刊文春に記事を書いています。
半藤さんが出逢えたブレなかった日本人

 永井荷風(ながいかふう) 作家

(前略)

 会社に入ってからだいぶたったある日の夕暮れ、浅草で荷風さんがタクシーに乗るのを見かけました。
ふだんはバスか都電を使うはずなのにおかしいな、と思ってよく見たら、足取りが危なっかしい。
「もしや」と思い私もタクシーで跡を追いました。
ストーカーだね、こりゃ。
荷風さんはタクシーを降り、押上駅の坂を危なげなく上がり、京成に乗りました。
私も一緒に乗り、京成八幡駅から徒歩1分、千葉県市川市にあった荷風の家を確かめました(笑)。
(『文春ムック 永久保存版 半藤一利の昭和史』前島篤志編集 文芸春秋 2021年)
 その日の尾行が役にたつことになります。
私は創刊したばかりの「週刊文春」の編集部員でした。
昭和34年4月30日、午前10時半頃、出社すると、編集長が「荷風の家を知っているヤツはいないか?」と叫んでるんです。
しめた、と手を挙げたら、「荷風が死んだから、行ってくれ」。
 市川の家まで駆けつけると、門は開いていて、新聞記者三、四人の他には誰もいません。
別に止める者もいないから、戸を開け、玄関、次の間と行くと、奥の間に綱が張ってあって入れません。
中を見たら、荷風さんがそこに倒れているじゃありませんか。
(かたわ)らには、机と火鉢だけ。
はっきり記憶しているんだけど、机には読みさしのフランス語の原書と眼鏡が置いてありました。
読書中に苦しくなり、倒れたのでしょう。
壁に作りつけた書棚には、『鷗外全集』と『荷風全集』とフランス語の原書がビッシリありました。
 そのうち警察や、荷風取り巻きの人たちがドッと来ましたが、検死するかどうかとか、遺産がどうかとかでもめているようで、未明に亡くなった荷風さんの遺体をなかなか寝床に寝かせてあげないんです。
 午後3時頃、やっと葬儀屋が棺桶を持ってきたんだけど、荷風さんは大柄だから入らない。
ポキポキっと足を折っていましたね。
寂しい死に方に見えるけど、野垂(のた)れ死にこそ荷風さんの本望だったと思います。
 その時に書いた記事が、「荷風に於ける女と金の研究」(「週刊文春」昭和34年5月18日号)です。
荷風の取り巻きの一人だった巌谷槙一さん(巌谷小波<いわやさざなみ>の長男)からたっぷり話を聞けたので、荷風の生涯にわたる女性遍歴ついて詳しく書きました。
(記事の内容は割愛します(^_-)…)
 風狂に徹しぬいた

 荷風さんとはうんと若いころこんはヘンな縁があったのですが、ブレなかった人としての荷風さんに気づいたのはもっと後でした。
 私は『濹東綺譚』が大好きでした。
日中戦争の暗雲立ちこめる中、小説なのに蘊蓄(うんちく)たっぷりのエッセーの味わいもある、しかも私の生まれ育った町の隣にある玉の井を舞台にしていましたから、親近感もおのずと湧いた。
それが昭和史を調べだして『木戸日記』や『西園寺公と政局』(原田日記)という一等史料に匹敵するのが荷風さんの日記『断腸亭日乗』であると気づいたのです。
いやァ、のめり込みましたよ。
 この間、荷風没後50年でテレビに出演依頼されたので、「『断腸亭日乗』のホンモノを見せてくれたら出る」と条件つけたら、深川の倉庫に預けられた実物を念願叶って拝むことができました。
 そしてわかったのは、日記が戦前と戦後の部分で異なるということです。
戦前は、手帳に下書きした上で、きれいな筆の文字で和紙に清書しているんです。
わざわざ紙を貼りつけたり、欄外に書いたりと、宝物のように完璧に、装幀も同じにつくってありました。
本人も「文学作品」の意識があったのでしょう。
これが戦後になると、荷風さん自身が、筆も墨も紙も気に入ったのがないから、もう日記はやめようと思ったけれどと証言しているとおり、大学ノートに書きなぐりのままでした。
 昭和27年、荷風さんが文化勲章をもらったのが話題になりました。
これは『濹東綺譚』などの小説でなく、『断腸亭日乗』に与えられたと考えていいでしょう。
荷風さんも後世に残るものは『断腸亭日乗』のみと思っていたと思います。
 戦前は特高に捕まったら私物も調べられますから、日記を書き続けるために、用心深く、「他人の噂」「他人からの手紙」という形に仮託して、鋭い文明批評を行なっています。
例えば、昭和16(1941)年5月31日、大政翼賛会を「慾簒怪という化物」とクソミソにやっつけた上で、そういう話を聞いたと書く(笑)。
そういった韜晦(とうかい)しつつ、それでも平気の平左で書いている。
 昭和史の中でも、荷風さんほど最初から最後まで同じ姿勢を貫いた人はいません。
煮えたぎる釜の中で、熱くも冷たくもならず、石ころがゴロンと転がっている――。
時代に対して、冷淡でありながら逃げない。
亡命願望を秘めつつも、市中に分け入り見聞を深める。
作家というよりも人間としてすごいと思います。
 戦争には一切協力しなかったし。
(きん)の供出を求められると金を使った煙管(キセル)をわざわざ隅田川にまで捨てに行くんだから。
埋めればいいのにね(笑)。
戦後も浮ついた民主化なんかクソ食らえで、冷静この上ない日本人でありつづけた。
風狂に徹しぬいた。
 歴史観もきちっと持っていました。
張作霖爆殺、満州事変、国際連盟脱退、二・二六事件、三国同盟、南部仏印進駐という、一連の太平洋戦争への道を、あたかも戦後から見たかのように、リアルタイムに書き込んでいる。
時勢や時代の流れに対する目がいかにしっかりしていたか。
さすがです。
 こんな作家がもう二、三人もいたら、『昭和史』ももっと豊かに書けるんですがね。
(『文春ムック 永久保存版 半藤一利の昭和史』前島篤志編集 文芸春秋 2021年)
今朝の父の一枚です(^_^)v
一緒に画像を見ていた父が「しら~ん」と言っていました。
母が会社の同僚に花の名前を聞いた時に
「シラン」と教えてもらったのに「しらん(知らない)」と答えたと勘違いしたと嬉しそうに話していた。
シランには「あなたを忘れない」という花言葉があるそうです。

明日、9時からワクチンの予約受付があるのだけど、今度はつながるのかなぁ…
父のために頑張ってみるけど…
いつまでもつながらなくてリハビリ散歩ができないかも知れないなぁ…