2021年5月9日日曜日

母の日

今朝は、風が強かったです。
花を写そうとしても揺れるゆれる…
スイレンが咲き出しました。
今日は「母の日」
検索するとこんなニュース映像がありました。
母の日 東京」(NHKアーカイブス 1951年)
公園でカーネーションには出会えませんでしたが、
緊急事態宣言で図書館などを利用できないので古い資料からの引用です(^^ゞ

カーネーション

 カーネーション Dianthus caryophyllus L. は、栽培の歴史が古く、ヨーロッパでは中世末に用いられた草花のなかにも、ルネサンスの絵画のなかにも広く見うけられ、重要な草花であったことがわかる。
今日のカーネーションは、セキチクが交雑されており、1840年以後にできたた雑種である。
(『週刊朝日百科 世界の植物76 ナデシコ ハコベ』大井次三郎監修 朝日新聞出版 昭和52年)
 ルネサンスから19世紀はじめまでの絵画にでてくるカーネーションの花の大きさを比較してみると、年代を追って大きくなっており、ゴヤ(1746~1828年)が描いているものは、今日のカーネーションとあまり違いがないほどになっている。
ただ、今日のカーネーションにくらべて茎が弱く、花の重さでひどく首が垂れている。
品種によっては、今日のカーネーションでも茎が弱く、花が垂れるものもあるから、この点だけで区別することはできないが、セキチクが交配されるまでに、花の大きさはかなり改良が進んでいたと見なければなるまい。
他の種も交雑されたものと考えられるが、明らかではない。
 カーネーションと思われる植物は、イスラムの美術品にも現れている。
ことに、17世紀はじめにつくられたトルコの焼き物には、カーネーションが、バラ、チューリップとともにしばしば描かれている。
これは、ギリシャ・ローマから東ローマ帝国に伝わっていたものを受けついで観賞し、模様にしたのであろう。
カーネーションは、英語、フランス語、ドイツ語とそれぞれ異なったよびかたをされている。
チューリップのように、近世に各国に移動していった年代がはっきりわかる植物では、国によるよびかたの違いがないのと対照的で、各国で古くから独自に栽培されてきたことを示している。
 <塚本洋太郎>
   品種と栽培の歴史

 カーネーションの品種改良は16世紀に始まり、フランスのルイ14世時代のベルサイユ宮殿には300品種が集められていた。
18世紀には、「ファンタジー」や「グレナダン」など、今日もある一季咲きのボーダー・カーネーションが現れ、19世紀半ばには、フランス人ダルメーによって二季咲きの「ウイエ・ド・マオン」から四季咲きの品種の「アティム」がつくられた。
この時点で、中国から入った四季咲きのセキチクが交雑されたらしい。
1900年には、完全四季咲きのマルメゾン・カーネーションも育成された。
 今日の温室カーネーションは、多くがアメリカで改良されたもので、その原種は1852年にフランスから輸入されたウイエ・ド・マオンであった。
1903年、アメリカの園芸家フィッシャーは、明るいピンク色の品種「エンチャントレス」を世にだし、カーネーションブームをまき起こした。
数年前まで日本で主要品種であった「ピーター・フィッシャー」もかれの手によるものである。
アメリカの園芸家ドーナーが1924年につくりだした赤色の「スペクトラム」は、世界的名品種とされるが、日本でつくられた「コーラル」交配親としても有名である。
1939年には、アメリカの園芸家シムが、赤色の「ウィリアム・シム」をつくりだした。
これからは250もの枝変わり品種が育成され、丈夫な株立ち、豊富な色彩、豪華な花容を誇るシム系グループとして、現在のカーネーション界の主力となっている。
 日本への渡来は江戸時代初期で、貝原益軒の『大和本草』(1709年)に「紅夷(おらんだ)石竹は大にして香気あり……」との記載がある。
また、『地錦抄付録』(1733年)にも「あんじゃべる」「おらんだ石竹」の名でカーネーションの説明があり、当時の花容をうかがい知ることができる。
日本ではカーネーションの呼称は明治の終わりころまで一般的でなく、香りのよさから麝香撫子(じゃこうなでしこ)ともよばれていた。
明治40年代に入ってから、四季咲きカーネーションなどが導入され、大正時代には交配の結果、いくつかの独自の品種がつくりだされた。
大正年代の末には、園芸家の犬塚卓一が多摩川下流の近くにアメリカ式の温室村を建設し、日本のカーネーション栽培の基礎を築いた。
 現在、カーネーションの生産はキクに次ぎ、日本における花卉(かき)類総生産額の7パーセント、約70億円を占めている。
産地は北海道から九州まで全国に及ぶが、なかでも長野、神奈川、兵庫、愛知、千葉、静岡の諸県に多い。
栽培には温暖な気候がよく、夏が高温多湿な日本では、簡易冷房まで導入して夏越しに苦慮している。
大半は冬の出荷を目的とする温室栽培であるが、長野県だけは高冷地の特性を生かした夏切り用の露地栽培も行っている。
ヨーロッパやアメリカでは、冷涼な夏季に主力がおかれており、2年継続の栽培も困難ではない。
最近の少し変わった傾向として、房咲きのミニチュア・カーネーション栽培や、矮性(わいせい)の鉢植え栽培なども見られる。
  <武田恭明>
(『週刊朝日百科 世界の植物76 ナデシコ ハコベ』大井次三郎監修 朝日新聞出版 昭和52年)
5月9日
 高島秋帆(しゅうはん)が徳丸原(とくまるがはら)でヨーロッパ式軍事演習をした。 1841(天保12)年

 ほら貝の音を合図に臼砲(きゅうほう)が3発とどろき、この日、江戸近くの徳丸原で、ヨーロッパ式の軍事演習がはじまった。
 長崎からよばれた秋帆は、門人たちを銃隊99人、砲隊24人に編成し、幕府や諸藩の侍(さむらい)たちがかたずをのんでみつめる中で、ホウイツル砲・ドロイフコーゲル砲などを発射したり、突撃や一斉射撃などをやってみせた。
 演習は大成功で、老中水野忠邦(ただくに)も満足し、秋帆に銀200枚をあたえた。
しかし、秋帆はこれに反対する町奉行鳥居耀蔵(ようぞう)によって謀反(むほん)の罪をきせられ、翌年から11年間も捕らわれの身となった。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)
第3章 19世紀世界と天保の改革
 アヘン戦争情報


 日本がアヘン戦争情報を最初に入手したのは、1840年(天保11)6月に長崎に入港したオランダ船からである。
アヘン貿易の実態、イギリスと清国の交渉、川鼻沖海戦、清国海軍の「木の葉のように打ちとば」される苦戦の模様が伝えられた。
 本格的な戦闘の情報は、中国船からもたらされた。
1840年12月に入港した中国船の「唐船風説書(からふねふうせつがき)」は、44隻のイギリス軍艦が定海県を占領したこと、定海県知事と中国兵多数が死傷したことなどを正確に伝えてきた。
情報は老中水野忠邦に衝撃を与え、水野は私信に「異国(中国)の義にそうらえども、則ち自国の戒めと成るべき事」と記していたのである。
(『日本の歴史18 開国と幕末変革』井上勝生 講談社学術文庫 2009年)
 ここで、日本において中国は、まちがいなく「大国」であると考えられていたことを確認しておこう。
朝鮮を「貧弱の小国」と評していた尊大な徳川斉昭(なりあき)ですら、アヘン戦争勃発の前年に「清国は何を申すも大国ゆえ」と述べていた。
この後、斉昭は続けて「夷狄(いてき<欧米>)も容易に手を出す申すまじく、朝鮮・琉球は貧弱の小国のそうろうあいだ、目にもかけもうすそうらわん」と、ヨーロッパ諸国が東アジアで最初に侵略するのは日本であると想定していた。
いかにも斉昭らしい、人心を驚かす「国際情勢論」だが、斉昭のこの予測は見事にはずれた。
 それにしてもイギリスも侵略を敬遠するほどの「大国」というのが、この時代の日本の中国に対する確たる評価だったのである。
このため、日本の衝撃はきわめて大きく、「清国の覆轍(ふくてつ)」が強烈に印象づけられた。
 次に、1841年(天保12)3月と6月の中国船の「唐船風説書」がイギリスの広東攻略戦を報道し、天保の改革開始後も、1842年(天保13)6月のオランダ情報が伝えられた。
とくに重要なのは、新任の商館長ビツキがオランダ通詞(つうじ)に伝えた情報である。
澳門(マカオ)でビツキがイギリス軍人と会見した際、イギリス軍人が「ことにより日本の渚(なぎさ)にも参り、自然、不都合の取り扱いもこれ有りそうらわば、一戦いたすべき兆(きざ)しもこれ有る由」と、重大なイギリス海軍来襲情報を伝えた。
だが幕府は、情勢の切迫は知っていたが、これらの情報をまったく独占し、大名にもいっさい伝えなかった。
そのため、さまざまな噂(うわさ)がとびかった。
  アヘン戦争に備える

 最初のアヘン戦争情報が中国兵船の「木の葉のように打ちとば」される苦戦を伝えた半年後、幕府は西洋砲術家の高島秋帆(たかしましゅうはん)を幕臣に登用し、翌年5月、広東攻略戦が伝えられるころ武蔵徳丸ヶ原(とくまるがはら)で西洋砲術演習を実行した。
アヘン戦争に備えるためである。
長崎町年寄役高島秋帆は、屈指の蘭書蒐集家(らんしょしゅうしゅうか)で西洋銃器にくわしく、オランダから購入したモルチール砲(臼砲<きゅうほう>)やゲベール銃、ヤーゲ銃などをもっていた。
モルチール砲は高角発射する大砲で、カノン砲は、ほぼ水平の弾道を描く。
歩兵連隊と大砲を組み合わせる戦法が18世紀のヨーロッパでは確立し、大砲を前列に、歩兵銃隊をその間においた。
こうした戦隊は強力で、突破するには相当な訓練が必要であった。
なお秋帆の演習は、号令はオランダ語であった。
開明派の幕臣江川英竜(ひでたつ)は高島秋帆から高島流砲術を伝授され、のちには幕臣以外の武士たちも高島流砲術を学ぶことができた。

(「モルチール砲(臼砲)」文化遺産オンライン)
 1825年(文政8)の異国船打ち払い令は1842年(天保13)7月下旬に大転換し、薪水給与令(しんすいきゅうよれい)が出された。
薪水給与令についての幕府の評議は、関連史料が残っていない。
7年後、浦賀(うらが)奉行の海防(かいぼう)策意見書に薪水給与令が「三人の専断」で出されたと証言している事実が発見されているが、「三人」が誰か、水野忠邦以外はわからない。
ごく一部の幕閣の専断で行われたことはたしかである。
 前に述べた長崎商館長がオランダ通詞に、「自然、不都合の取り扱いもこれ有りそうらわば、一戦」というイギリス来襲情報を伝えたのは、この年の6月22日ごろのことである。
長崎から江戸へは当時、早便で20日、薪水給与令に改められるのが翌月の23日であるから、十日あまりの幕閣の謀議とすれば、前後関係はぴたりと合う。
研究者は、この長崎情報を震源と推測している。
 翌月のはじめに忍(おし)と川越の両藩に対して、相模(さがみ<川越藩>)・房総(忍藩)の江戸湾両岸の警備を命じ、12月には下田奉行の復活と羽田奉行の新設を決めた。
(後略)
(『日本の歴史18 開国と幕末変革』井上勝生 講談社学術文庫 2009年)
石段を上がっていると突然目の前にムカデ(トビスムカデ?)(^-^;
苦手な人には申し訳ありませんm(__)m
という私も苦手です(^^ゞ
ただ、怖がっているだけでなく出会った時にどうすればいいのかを知っておくことが大切だと思います。
ムカデ(こん虫ではない)」(フマキッズこども研究所)

新型コロナへの対策も適切な施策をすれば
中満泉さんのTwitterに

国連のホスト市、ニューヨーク。
本当に苦しい1年でした。
ワクチン接種開始後のスピードも速かったですが、第1波の教訓からPCR検査と感染者追跡体制を確立、病床・ICUを拡充していたこともあり、データに基づいた制限で変異株が流行した1月以降の感染者増加を乗り越えました。
一方、大阪は悲惨な状況にありますが、この状況を招いたのは

「インパクト考えると…」吉村知事のコロナ対応 府民が覚えた違和感〟(毎日新聞 5月8日)
という府民の命よりも「インパクト」などと党利党略が優先している知事の姿勢です。
その違和感を覚えた府民の方は、沙和さんという方のようです。

イソジン会見以降、続けている大阪府市への情報公開請求(開示請求)。
行政文書から感じた思い・疑問を毎日新聞さんに取材いただき、本日5/8付朝刊・大阪面に掲載いただきました。

#みんなで開示請求
これは医療の低下を招いた橋下徹氏の施策が引き継がれていると思います。

盛田隆二さんのTwitter(4月17日)に

◆2012年、橋下徹・大阪市長「看護師、保育士…民間と比べて給代が物凄く高い。平松前市長まで全く改革できず。僕が市長になってから現業職の給与見直しをやっている」

◆2021年、吉村知事、滋賀県に「看護師派遣/患者の受け入れ」要請。医療崩壊は維新の医療削減政策が原因

大阪の医療崩壊と看護師不足は維新の医療削減政策のせい! 橋下徹は大阪市長時代、看護師の給料を「バカ高い」と攻撃〟(LITER 2020年12月5日)

「大阪ワクチン」のことも大阪市廃止の住民投票を有利に運ぶための宣伝道具にしていたと思います。
国内初のワクチン治験 吉村大阪府知事「前のめりの政治主導」の危うさ〟(毎日新聞 2020年7月4日)
という府民の命より党略優先していると思う。