2021年5月15日土曜日

もう6月の気温に…

土曜日なので人出が多いだろうと父はお休み。
なので自転車でやってきました。
発病前は、自転車で片道30分の通勤をしていたのに
今は、片道15分で息が上がる…(-_-;)
その上、この暑さにマスク…
東屋の温度計を見ると8時過ぎなのにもう23度になっていた(^^;

九州北部 四国 中国地方の梅雨入り発表 平年より3週間ほど早く」(NHK)
奈良市 75歳以上の高齢者対象にワクチンの集団接種始まる」(関西NHK)

今朝、父の主治医の先生が、ワクチンの予約ができたかと心配して電話をくださった。
父は、6月にワクチンを接種します。
沖縄の「今」が始まった1972年5月15日 “沖縄の一番長い日”ドキュメント【WEB限定】〟(沖縄タイムス)
本土復帰した時は大学1年生だった。

山之口貘(やまのくちばく)さんの娘さんが『新版 父・山之口貘』に貘さんの故郷への思いを書いておられます。
母が沖縄を離れたのは戦後だったけど
帰郷した時、故郷の姿の変わり方に寂しがっていました。
  父と沖縄

 父と沖縄、と言う時、真先に浮かぶのは、泡盛屋さんの小座敷を舞台に踊っている父である。
大抵は、琉球絣を身にまとい、かんぷうという髷に似せて前髪をあげ、かんざしなどもさしている。
女姿である。
踊っているのは、「浜千鳥」という曲だ。
普通は正真正銘の女の人が踊ることになっているようなのだけれど、その曲を気に入っていた父は、勝手に自分の十八番(おはこ)にしていたらしい。
旅の想いを切々と吐露する歌詞がついていて、長いこと故郷に帰れないでいる父にとっては、自分のための曲のように感じられていたのかもしれない。
(『新版 父・山之口貘』山之口泉 思潮社 2010年)
私自身も聴くたびに<いいなあ>と思うのだが、実は、女形と言うにはあまりにも骨っぽく男らしい父の扮装と哀調を帯びて繰り出されるその音色とは、珍妙としか言いようのない組み合わせであった。
折角の曲が台無しだよ、と、私は不満だったが、泡盛のはいったお客さんたちはそれで良しとしているらしく、父の登場は、いつも、笑いと拍手に迎えられていた。
多分、父は<沖縄舞踊の夕べ>と銘うたれていたその集いの中で、前座のような役目を果たしていたのだろう。
笑いと拍手と指笛に送られて澄まし顔の父が退場した後は、琉装も艶やかにしずしずと綺麗なお姉さんが現れて、本格的な沖縄舞踊を披露してくれるのが常であった。
 父と故郷を異にする母は、男が踊るということにどうしても馴染めなかったらしく、「ばかみたい。男のくせに」と、良く言っていた。
父が私をそういう場所に連れて行くことも、私が喜んでついて行くことも、全く気に入らないらしく、送り出す時は些かご機嫌斜めである。
<舞踊家でもあるまいし、踊ってる暇があったら原稿のひとつも書いたらどうなの>と、むすっとした母の顔には書いてあった。
どうして父がそんなに踊りたがるのか、母には本当に謎でしかなかったのだろう。
 母の不機嫌をよそに、私は、沖縄の踊りを大いに楽しんだ。
父の踊りは何だか変てこだと思ったものの、蛇の皮を張った三味線(さんしん、と言うのだそうだ)の音や、小さな太鼓の小気味良いリズム、独特の音階と発声の歌、雅びやかな、あるいは、軽妙な、数々の踊りが、子供心に好ましく喰い入った。
母が言うように、たとえ父が男のくせに踊り好きであっても、そのこと自体のどこが悪いのか私にはわからなかった。
父が生まれ故郷の音楽と踊りを愛する様は、極く自然であり当然のこととして私の眼には映っていたのだ。
<沖縄舞踊の夕べ>は、ひと月に一度、定期的に開かれていたらしい。
父が毎回出演していたかどうかは定かでないが、私を連れて行った夜は必ず踊っていたので、多分ほかの時も踊っていたのだろうと思う。
母から見るとばかばかしく、私から見るとわくわくするような、小さな泡盛屋さんでの催しが、沖縄の日本復帰を願う運動のひとつだったということを知ったのは、もっとずっと後のことである。
戦後直ぐに米軍に占領され、講和条約締結の折もうやむやのうちに返還されなかった故郷沖縄のために、在京の沖縄県人が、いかにも沖縄的なアピールの方法を考え出したのだった。
古くは中国と日本に引っ張り合われ、日本の支配下に置かれてからは無理矢理内地語を押しつけられ、しかも一段低いもののように扱われ、最後は大戦に巻き込まれて惨憺たる戦場と化した。
踏んだり蹴ったりの沖縄である。
私が沖縄だったら、日本に帰るなんて、真平御免と思うだろう。
後足で砂を掛けてやりたい位のものである。
だが、父は、日本である沖縄で生まれ、日本である沖縄で育った。
たとえ日本がどんな仕打ちをする国であれ、沖縄が日本に帰ることは、父にとって何より当たり前のことだったのだ。
その当たり前のことが当たり前として通らないので、父は、悲憤慷慨のし通しだったのである。
 父が生きている間、沖縄は、とうとう返還されなかった。
手遅れの状態で発見された胃癌のために五十九歳で生涯を閉じるまで、ひたすら願い続けていたことだったのに。
間近に死が迫っていたある日、父は、病床で雑誌の取材を受けた。
その折の取材テープを、数年前、たまたま聴くことができた。
もう思うように舌がまわらなくなっているが、気力を振りしぼって話している。
沖縄のこと。沖縄のこと。沖縄のこと。
時折、言葉が詰まっている。
涙で途切れているのである。
自らの死を目前にして、なお、沖縄の現状を憂えている。
死にゆく我が身のことでなく、生まれて育ててくれた故郷の行く末を案じている。
  詩人になろうと心を決めて、父が沖縄を出て来たのは、二十歳の時である。
五十四歳になって、父は、初めての里帰りをした。
日頃貧乏で片道切符すら買えそうにない父のために、在京在郷の友人知人が帰郷をプレゼントしてくれたのである。
郷里の人々は、皆、温かく迎えてくれた。
けれど、沖縄は、変わり果てた姿を父の眼にさらしていた。
覚悟はして帰ったはずなのに、父は、空ろな眼をして帰京した。
戦争を経た故郷は、父に、予想以上の打撃を与えたようだった。
 父の死後、九年たって、やっと沖縄は帰って来た。
背中に重い米軍基地をのせたまま。
こんな形の返還を、父は望んでいたろうか。
(『新版 父・山之口貘』山之口泉 思潮社 2010年)
 芭蕉布

上京してからかれこれ
十年ばかり経って夏のことだ
とおい母から芭蕉布を送って来た
芭蕉布は母の手織りで
いざりばたの母の姿をおもい出したり
暑いときには芭蕉布に限ると云う
母の言葉をおもい出したりして
沖縄のにおいをなつかしんだものだ
芭蕉布はすぐに仕立てられて
ぼくの着物になったのだが
ただの一度もそれを着ないうちに
二十年も過ぎて今日になったのだ
もちろん失くしたのでもなければ
着惜しみしているのでもないのだ
出して来たかとおもうと
すぐにまた入れるという風に
質屋さんのおつき合いで
着ている暇がないのだ
(『山之口貘詩文集』山之口貘 講談社文芸文庫 1999年)

芭蕉布 沖縄伝統の織物~大宜味村喜如嘉」(みちしる NHK 2012年)