帰ってきてみると「エラー発生」。
4回、試みたけどエラー
再更新がかかるまえに記事をアップしています。
アップデートもそうだけど、感染者もどうなることか…
今日は「看護の日・看護週間」5月12日の由来
近代看護を築いたフローレンス・ナイチンゲールの誕生日にちなみ、5月12日に制定されました。
1965年から、国際看護師協会(本部:ジュネーブ)は、この日を「国際看護師の日」に定めています。
(日本看護協会)第1章 看護という営み
2 職業としての看護師
(1)草創期の看護
(前略)
近代看護の基礎は、19世紀に女性の身でありながら戦場で傷病兵士の看護に当たった、フローレンス・ナイチンゲールが築いたとの説が今でも一般的です。
しかし、彼女が看護学校を創って職業的な看護師の訓練を始めるより半世紀も前から、アメリカ、英国、オーストリア等で病人を看護し、死にゆく者を看とり、外科手術の助手を務め薬剤を手配した女性たちがいました。
それはカトリックの修道女らで、彼女らは、「自分の地域の病人や貧者について熟知し、伝染病の流行時には陣頭に立って働き、体制の整った病院を設立した」といいます。
このことを研究したシオバン・ネルソンによれば、「看護はもっとも古い女性の職業」であり、「信仰による情熱が女性に勇気を与え、家父長的な支配から逃れて公共の場で活躍できるようにした」「彼女たちによって開かれた看護師の道へ、信仰に関わりのない女性も進めるようにしたのがナイチンゲールである」と述べています(シオバン・ネルソン『黙して、励め――病院看護を拓いた看護修道女たちの19世紀』原田裕子訳、日本看護協会出版会、2004年)。
(『看護の力』川嶋みどり 岩波新書 2012年)
これにより、それまで日本の医学の主流であった漢方から西洋医学に変わって、多くの開業医が誕生しました。
その開業医の家に住み込んで働いた女性が職業人としての看護師の始まりです。
その条件は「読み書き算術のできる女子」であったといいますから、担い手は、主に江戸幕府崩壊のため職を失った士族の娘たちであったようです。
自学自習をしながら見よう見まねで医業の手伝いをしたと思われますが、医師である雇用主のもとで医業の手伝いに加えて家事雑用などもさせられたようです。
このような背景に加えて、圧倒的多数の医師が男性で、看護師のほとんどは女性であったことからも、長年にわたって封建的な男女関係を反映した医師・看護師関係が続いてきたという見方もできます。 近代的な看護師養成が組織的に行われたのは医制公布後10年を経てからでした。
ナイチンゲールの影響を受けた英米のキリスト教宣教看護師らを指導者として、1884(明治17)年に有志共立東京病院看護婦教育所、1886(明治19)年に京都看病婦学校と桜井女学校付属看護婦養成所(東京)の開設が続き、それぞれ2年後には4~6名の第一回卒業生を送り出しています。
彼女らは、正規の教育訓練を受けた看護師(トレインドナース)と位置づけられ、病院から上流階級の家庭に派遣されて看護を行いました。
その精神の根底に、この時の教育の柱でもあった「看護は看護であり看護以外のなにものでもない」という思想が流れていました。
つまり「看護師はどこまでも看護師であり、医師でもなければその助手でもない」という考え方です。
これは、誰の手も借りず職業的、経済的、精神的独立を確立しようとしたナイチンゲールの主張そのものでもありました。
しかし、このようなヨーロッパのリベラルな思想が明治の国策には馴染まなかったことも当然で、桜井と京都はいずれも1906(明治39)年には閉校しています。 一方、帝国大学医科大学附属病院(現・東京大学病院)での看護婦養成は1888(明治21)年に、戦時の看護を意図して日本赤十字社病院での救護看護婦養成が始まります(1890(明治23)年)。
この2校と、有志共立東京病院看護婦教育所(後に東京慈恵医院看護婦教育所)は、現在も看護の大学として続いています。
(『看護の力』川嶋みどり 岩波新書 2012年)100分de名著「金閣寺 三島由紀夫」 第2回 引き裂かれた魂
で、三島由紀夫のことばが『私の遍歴時代』より紹介されていました。
この本には、三島由紀夫が太宰治との出会いについて書いている箇所があります。
私の遍歴時代
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多少時間が前後するかもしれないが、太宰治氏とのつかのまの出会も、記録しておかねばならぬ出来事にちがいない。
私は戦時中の交友ほど熱烈ではなかったにしろ、戦後も、幾人かの文学的友人を持った。
「『人間』を小説に書いた三島君」
というのが、当時の私の肩書であった。
そういう肩書で、ボヘミアンの一人になるのも容易なことだったが、臆病な私にはそれもできなかった。
少年時代に師事していた川路柳虹氏の令息川路明氏は、今、松尾バレエ団を牛耳っているが、当時は向こう気のつよい、衒気いっぱいな少年詩人であったし、今社会党の麻生良方氏は、眉目秀麗な不良少年で、「黒薔薇」という詩集の著者であったし、劇作家の矢代静一氏は、太宰治氏に対する青年の狂熱を最初に私に伝えた一人であったし、そのほか、豊満な三十女の詩人など、いろいろふしぎな人物がいたが、すべてに戦時中のような夢想の優位が失われていたから、現実的にみじめなものはみじめでしかなく、青春と云ったところで、そんなに活気横溢した空気もなかった。
(『私の遍歴時代』三島由紀夫 ちくま文庫 1995年)
太宰治氏は昭和二十一年、すなわち終戦のあくる年の十一月に上京し、さまざまの名短篇を発表してのち、二十二年の夏から「新潮」に「斜陽」を連載しはじめた。
私は以前に、古本屋で、「虚構の彷徨」を求め、その三部作や「ダス・ゲマイネ」などを読んでいたが、太宰氏のものを読みはじめるには、私にとって最悪の選択であったかもしれない。
それらの自己戯画化は、生来私のもっともきらいなものであったし、作品の裏にちらつく文壇意識や、笈(きゅう)を負って上京した少年の田舎くさい野心のごときものは、私にとって最もやりきれないものであった。
もちろん私は氏の稀有の才能は認めるが、最初から私に生理的反撥を感じさせた作家もめずらしいのは、あるいは愛憎の法則によって、氏は私のもっとも隠したがっていた部分を好意に露出する型の作家であったためかもしれない。
従って、多くの文学青年が氏の文学の中に、自分の肖像画を発見して喜ぶ同じ地点で、私はあわてて顔をそむけたのかもしれないのである。
しかし今にいたるまで、私には、都会育ちの人間の依怙地な偏見があって、「笈を負って上京した少年の田舎くさい野心」を思わせるものに少しでも出会うと、鼻をつままずにはいられないのである。
これはその後に現われた幾多の、一見都会派らしきハイカラな新進作家の中にも、私がいちはやく嗅ぎつけて閉口した臭気である。 さて、私の周囲の青年たちの間における太宰熱はいよいよ高まり、「斜陽」の発表当時にいたって、絶頂に達した感があった。
そこでますます私は依怙地になって、太宰ぎらいを標榜するようになってしまった。
「斜陽」が発表されたときの、世間一般の、又、文壇の昂揚は非常なもので、当時はテレビもなく、娯楽一般も乏しい時代であったから、文学的事件に世間の耳目が集中したのであろう。
今日ではこのような世間全部の文学的熱狂というようなものは、とても考えられない。
読者も当時に比べると、おそろしくクールになったものである。 私も早速目をとおしたが、第一章でつまずいてしまった。
作中の貴族とはもちろん作者の寓意で、リアルな貴族でなくてもよいわけであるが、小説である以上、そこには多少の「まことらしさ」は必要なわけで、言葉づかいといい、生活習慣といい、私の見聞していた戦前の旧華族階級とこれほどちがった描写を見せられては、それだけでイヤ気がさしてしまった。
貴族の娘が、台所を「お勝手」などという、「お母さまのお食事のいただき方」などという。
これは当然、「お母さまの食事の召上り方」でなければならぬ。
その母親自身が、何でも敬語さえつければいいと思って、自分にも敬語をつけ、
「かず子や、お母さまがいま何をなさっているか、あててごらん」
などという。
それがしかも、庭で立小便をしているのである! ――そんなこんなで、私の太宰文学批評があんまりうるくさくなってきたので、友人たちは、私を太宰氏に会わせるのに興味を抱いたらしかった。
矢沢氏やその友人たちは、すでに太宰氏のところへたびたび出入りしていて、私をつれて行くの造作もなかった。 8
太宰氏を訪ねたのは季節の記憶も、今は定かではないけれど、「斜陽」の連載がおわった頃といえば、秋ではなかったかと思われる。
連れて行ってくれた友人はと云うと、矢代静一氏と、その文学仲間でのちに夭折した原田氏ではなかったかと思うが、それもはっきりしない。
私は多分、絣の着物に袴というような恰好で、ふだん和服など着たことがない私がそんな恰好をしたのは、十分太宰氏を意識してのことであり、大袈裟に云えば、懐ろに匕首を呑んで出かけるテロリスト的心境であった。 場所はうなぎ屋のようなところの二階らしく、暗い階段を昇って唐紙をあけると、十二畳ほどの座敷に、暗い電燈の下に大ぜいの人が居並んでいた。
あるいはかなり明るい電燈であったかもしれないのだが、私の記憶の中で、戦後の或る時代の「絶望讃美」の空気を思い浮かべると、それはどうしても、多少笹くれ立った畳であり、暗い電燈でなければならないのだ。 上座に太宰氏と亀井勝一郎氏が並んで坐り、青年たちは、そのまわりから部屋の四周に居流れていた。
私は友人の紹介で挨拶をし、すぐ太宰氏の前の席へ請ぜられ、盃をもらった。
場内の空気は、私には、何かきわめて甘い雰囲気、信じあった司祭と信徒のような、氏の一言一言にみんなが感動し、ひそひそとその感動をわかち合い、又すぐ次の啓示を待つ、という雰囲気のように感じられた。
これには私の悪い先入主もあったろうけれど、ひどく甘ったれた空気が漂っていたことも確かだと思う。
一口に「甘ったれた」と云っても、現在の若い者の甘ったれ方とはまたちがい、あの時代特有の、いかにもパセティックな、一方、自分たちが時代病を代表しているという自負に充ちた、ほの暗く、抒情的な、……つまり、あまりにも「太宰的な」それであった。 私は来る道々、どうしてもそれだけは口に出して言おうと心に決めていた一言を、いつ言ってしまおうかと隙を窺っていた。
それを言わなければ、自分がここへ来た意味もなく、自分の文学上の生き方も、これを限りに見失われるにちがいない。
しかし恥ずかしいことに、それを私は、かなり不得要領な、ニヤニヤしながらの口調で、言ったように思う。
即ち、私は自分のすぐ目の前にいる実物の太宰氏にこう言った。
「僕は太宰さんの文学はきらいなんです」
その瞬間、氏はふっと私の顔を見つめ、軽く身を引き、虚をつかれたような表情をした。
しかしたちまち体を崩すと、半ば亀井氏のほうへ向いて、誰へ言うともなく、
「そんなことを言ったって、こうして来てるんだから、やっぱり好きなんだよな。なあ、やっぱり好きなんだ」 ――これで、私の太宰氏に関する記憶は急に途切れる。
気まずくなって、そのまま匆々に辞去したせいもあるが、太宰氏の顔は、あの戦後の闇の奥から、急に私の目前に近づいて、又たちまち、闇の中へしりぞいてゆく。
その打ちひしがれたような顔、そのキリスト気取りの顔、あらゆる意味で「典型的」であったその顔は、ふたたび、二度と私の前にあらわれずに消えてゆく。
私もそのころの太宰氏と同年配になった今、決して私自身の青年の客気を悔いはせぬが、そのとき、氏が初対面の青年から、
「あなたの文学はきらいです」
と面と向って言われた心持は察しがつく。
私自身も、何度かそういう目に会うようになったからである。 思いがけない場所で、思いがけない時に、一人の未知の青年が近づいてきて、口は微笑に歪め、顔は緊張のために蒼ざめ、自分の誠実さの証明の機会をのがさぬために、突如として、「あなたの文学はきらいです。大きらいです」と言うのに会うことがある。
こういう文学上の刺客に会うのは、文学者の宿命のようなものだ。
もちろん私はこんな青年を愛さない。
こんな青臭さの全部をゆるさない。
私は大人っぽく笑ってすりぬけるか、きこえないふりをするのだろう。
ただ、私と太宰氏のちがいは、ひいては二人の文学のちがいは、私は金輪際、「こうして来てるんだから、好きなんだ」などとは言わないだろうことである。
(『私の遍歴時代』三島由紀夫 ちくま文庫 1995年)今朝の父の一枚です(^_^)v
マガモがグーッと首を伸ばして父の方を見ています。
でも、マガモと言い切れないのが
カモは別種とも恋に落ちる
似た生物を同種とするか別種とするかは、生物を分類する上での永遠のテーマです。
交配が可能なら同種、交配できなければ別種という基準を聞いたことのある人もいるでしょう。
これは生物学的種概念という考え方ですが、実際には、繁殖可能かどうかで分類するのがむずかしい場合が多く、最近ではあまり使われなくなってきました。
現実的には、野外で雑種の個体を見ることは、ほとんどありません。
異種でつがいになれば同種との繁殖機会が減りますし、雑種の子供は、羽毛の色や模様が中途半端となり、異性からあまりモテないでしょう。
野生動物にはそんな不利益な行動する余裕はないのです。
しかし、カモは違います。
冬になると、マガモにコガモにオナガガモ、一つの池に10種ものカモが集ることもあります。
よく探してみると、2種の特徴をもつ個体が見つかることもめずらしくありません。
カモのなかまはなぜか雑種ができやすいのです。
マガモとカルガモの雑種である、通称「マルガモ」をはじめ、さまざまな組み合わせの個体が見られます。
カモのオスは、種によってまったく異なる姿をしています。
しかし、メスはどれも似たような褐色の羽衣で、バードウォッチャーを困らせます。
その姿は、本人たちにとっても見分けづらいのかもしれません。
(『トリノトリビア 鳥類学者がこっそり教える 野鳥のひみつ』川上和人 マツダユカ他 西東社 2018年)