今は、駐車場が閉鎖されているのでパークセンターが開く9時に公園に来ています。
今までより1時間以上遅く来園しているので日が高くなって暑い。
母も一緒に公園にきていた時、最初の頃は、母が朝ドラを見てからといっていたので
公園に来るのが9時頃になっていました(当時、朝ドラは8時15分からだった)。出発が遅くなったので今朝の最終回を見ることができました。
妹がはまっていて、始まる時間に間に合うように家のことをしていると話していました。
あさイチの鈴木菜穂子さんが「しんどいけど、楽しい朝ドラでした」とコメントしていましたが
σ(^-^;は、きっと「しんどい」ところに耐えられなかっただろうなぁ。
妹がテルヲにむちゃくちゃ腹を立てていたから…
トータス松本さんが好きなので見なくてよかった(*´▽`*)
(すごい演技だったんだろうなぁ)
番組の最後に春子ちゃんが
やぱり私、看護婦さんになりたい。
…
いや…なります。
医療現場で働く人達へのエールになっているなぁと思いました。
このあとのプレミアムトークに南杏子さんも出演していた。
(島津有里子さんもアナウンサーから医師への道を歩んでおられる)
それにしても毎田暖乃(まいだ のの)さんの演技はすごいなぁ
12日の記事で三島由紀夫が太宰治との出会いについて書いている箇所を転記しましたが、
野原一夫の『回想 太宰治』を読むと、三島の記憶と違いがあるみたいです。 練馬の一夜
これは、ささやかな挿話(そうわ)にすぎない。
太宰さんが三島由紀夫氏と顔を合わせた一夜の想い出である。
といっても私は、こまかい事はほとんど忘れてしまっている。
書かずにすまそうかとも思ったのだが、高名になった三島氏が太宰治の文学と生活を痛烈に批判し、それが文壇の話題となり、今では、その太宰批判の中身が逆に三島文学を解く一つの鍵(かぎ)にもなっているようで、そのためか、太宰治と三島由紀夫のただ一度の邂逅(かいこう)が、日本文壇史の一齣(ひとこま)としていささかの興味を持たれているように思われる。
それなら、おぼろげな記憶をたどりながらでもその一夜の事を書いておくのは、あながち無意味なことでもあるまい。
(『回想 太宰治』野原一夫 新潮文庫 昭和58年)
私の浦和高校時代の友人に出哲史(いでてつし)という男がいた。
「哲学以前」の著者で当時東大哲学科の教授をしていた出隆(いでたかし)氏の長男で、親しい仲間のひとりだった。
浦高から東大の東洋史学科にすすみ、東洋史学科はじまって以来の秀才とさえ噂(うわさ)され、将来を嘱望されていた。
昭和十八年十二月、学徒出陣。
私は海軍に入り、出は陸軍に入ったが、入営の前夜、親しい仲間が集まって別れの宴を張ったとき、出は声をあげて泣いた。
兵隊になるのはいやだ、俺は学問をつづけていきたいんのだ、と叫ぶように言って、子供のように泣きじゃくった。
戦争がおわった次の年の春、板橋の私の安アパートに来客があった。
痩せた長身の、蓬髪(ほうはつ)が肩までかかっているその青年から、出英利(いでひでとし)ですと名乗られても、むかし何度か顔を合わせたことのある童顔の中学生、あの弟だと気付くまでにしばしの時間があった。
昭和二十年八月、ソ満国境で出哲史は戦死した。
そのことを知らせにきてくれたのだった。
国境近くの野戦病院の警備隊長をしていた出は、ソ連軍の侵攻を知るとすぐ患者と看護婦を後方に退避させ、ソ連軍の進撃を遅らせるため僅かの手勢をひきいて抗戦、戦死したという。
看護婦のひとりが非常な困難を経て最近帰国し、その事情が判明したのだという。
出征の前夜のことが思い出され、私は涙がとまらなかった。 それ以来、英利君とは時々顔を合わせていたのだが、たしか二十二年の一月の十日すぎだったか、訪ねてきて、自分たちの文学仲間が太宰治に会いたがっている、仲介をしてもらえないかと言う。
太宰さんの、若い人たちへの、特に若い学生たちへの愛情を、私は信じていた。
「乞食(こじき)学生」「正義と微笑」「みみずく通信」「新郎」「散華」などの小説、また「困惑の弁」「心の王者」「諸君の位置」などのエッセイから、それは明確に読みとれることだが、私は自分自身の貧しい体験からも、その愛情を信じていた。
英利君の申し出を私は快く承知した。
府立五中出身者が中心になっている文学仲間ということで、それなら私の後輩に当る。
先輩としても一肌ぬがねばなるまい。
その用件で太宰さんを訪ねたときは、たしか英利君を同道したのだと思う。
太宰さんは簡単に承知した。
その文学仲間に亀井勝一郎氏と親しくしている者がおり、亀井さんも御一緒でどうかときくと、それは心強い、百万の援軍だと言った。
一月二十六日、太宰さんを迎えに三鷹のお宅にうかがうと、どんなことだったのだろう。
奥さんの口ぶりから、家を出にくい事情があるようだった。
しかし、約束だから、と太宰さんは強い口調で言った。
三鷹から国電に乗り、中野駅の南口に出ると、改札口のあたりに、七、八人のはたち前後の青年が集まっていた。太宰さんは簡単に承知した。
その文学仲間に亀井勝一郎氏と親しくしている者がおり、亀井さんも御一緒でどうかときくと、それは心強い、百万の援軍だと言った。
一月二十六日、太宰さんを迎えに三鷹のお宅にうかがうと、どんなことだったのだろう。
奥さんの口ぶりから、家を出にくい事情があるようだった。
しかし、約束だから、と太宰さんは強い口調で言った。
亀井さんはもう来ていて、笑いながら手をあげた。
その青年たちのなかに、紺絣(こんがすり)の和服をきちんと着て襟巻(えりまき)をして、色の青白い目の大きな男がいた。
ほかの学生たちよりもすこし年長のように見えたし、なにか異質な感じがした。
駅前から乗ったバスのなかで、英利君が、三島由紀夫だと教えてくれた。
この新進の学生作家の名前を私は知っていたし、一篇だけ「岬(みさき)にての物語」という短篇を読んでもいたが、ほとんど関心がなかった。
三島は府立五中の出身者ではないはずだし、なぜ来たのか変に思ったが、べつにたずねもしなかった。
さて、ここのところは私の記憶はまことに定かでないのだが、その男が三島由紀夫という新進の学生作家だと私は太宰さんに告げたかどうか。
あるいはほかの誰かから太宰さんが知らされていたかどうか。
また、聞いたとして、太宰さんが三島由紀夫という名前を知っていたかどうか、寄贈されてくる文芸雑誌などあまり眼を通さなかった人だから、おぼろげにその名前くらいは知っていたとしても、作品を読んでいたとはとても思えないのだが。
バスに二十分ほども揺られ、もうあたりは畑と雑木林ばかりになって、練馬区の豊玉というところでバスをおり、雑木林を背にぽつんと建った造作のしっかりした二階屋の、その二階の広い部屋に私たちは通された。
仲間のひとりの高原紀一君が英利君と一緒に下宿していた部屋で、その二階屋はやはり仲間のひとりの清水一男君が父君から譲り受けたものだった。
その当時としては豪勢ともいえるほどの御馳走がならび、お酒も十分に用意されていた。
その酒席での話のやりとりを私はあらかた忘れてしまったのだが、太宰さんは冗談、軽口をまじえた巧みな話術で学生たちをよろこばしていたようだ。あるいはほかの誰かから太宰さんが知らされていたかどうか。
また、聞いたとして、太宰さんが三島由紀夫という名前を知っていたかどうか、寄贈されてくる文芸雑誌などあまり眼を通さなかった人だから、おぼろげにその名前くらいは知っていたとしても、作品を読んでいたとはとても思えないのだが。
バスに二十分ほども揺られ、もうあたりは畑と雑木林ばかりになって、練馬区の豊玉というところでバスをおり、雑木林を背にぽつんと建った造作のしっかりした二階屋の、その二階の広い部屋に私たちは通された。
仲間のひとりの高原紀一君が英利君と一緒に下宿していた部屋で、その二階屋はやはり仲間のひとりの清水一男君が父君から譲り受けたものだった。
その当時としては豪勢ともいえるほどの御馳走がならび、お酒も十分に用意されていた。
酒がまわって、座がにぎやかになってきた頃、酒をのまずひとり神妙な顔をしていた三島氏が、森鴎外の文学について太宰さんに質問したような記憶がある。
太宰さんはまともに答えず、なにかはぐらかすようなことを言った。
高原紀一君の記憶によると、「鷗外もいいが、全集の口絵のあの軍服姿は、どうもねえ。」と太宰さんは顔を横に向けて呟(つぶや)いたそうである。
私の記憶に、これだけは鮮明に残っている三島氏の言葉は、その直後に発せられたのか、すこし時間がたってからだったか。
「ぼくは、太宰さんの文学はきらいなんです。」
まっすぐ太宰さんの顔を見て、にこりともせずに言った。
一瞬、座が静かになった。
「きらいなら、来なけりゃいいじゃねえか。」
吐き捨てるように言って、太宰さんは顔をそむけた。
そのあとのことは記憶が薄れる。
そうだよ、きらいなら来なけりゃいいんだ、と英利君か高原君がどなったような気もするが、白々しい空気が流れたのはわずかの時間で、太宰さんは素早くほかの話題を提供し、みんなを笑わせ、座はまたもとのにぎやかさに戻ったように思う。 遅くまで飲んで、もうバスもなくなり、練馬の豊玉から中野駅までの四キロ近い夜道をがやがや喋(しゃべ)りながら歩いた。
酒の酔いもあって太宰さんはかなりヘバったようで、俺は病身なのだ、病身の俺をこんなに歩かせるとはひどいじゃないか、寝込むようなことがあったらどうしてくれるんだ、と大袈裟(おおげさ)な表情をした。
たいへんなサービスをしてもらったと言わねばなるまい。
その夜の出席者のなかに、劇作家になった矢代静一君や、宮沢賢治の研究家で詩人の中村稔君もいたわけだが、もちろんその頃は無名の文学青年にすぎない。
ふたりとも、当時十九歳だった。
三島氏がその夜の会合に出たのは、親しくしていた矢代静一君のすすめによるものらしい。
のちに三島由紀夫氏は、昭和三十八年に書かれた「私の遍歴時代」というエッセイのなかで、そのときのことを書いている。
そのエッセイによると、三島氏が太宰さんと会ったのは、「斜陽」の連載がおわった二十二年の秋ということになっている。
「稀有(けう)の才能は認めるが、最初からこれほど私に生理的反撥を感じさせた作家もめずらしい」その太宰治が、世の青年たちを熱狂させ、「私の周囲の青年たちの間における太宰熱はいよいよ高まり、『斜陽』の発表当時にいたって、絶頂に達した感があった。そこでますます私は依怙地(いこじ)になって、太宰ぎらいを標榜(ひょうぼう)するようになってしまった。」その「斜陽」も三島氏は気に入らなかった。
まず、第一章でつまずいた。
「言葉づかいといい、生活習慣といい、私の見聞していた戦前の旧華族階級とこれほどちがった描写を見せられては、それだけでイヤ気がさしてしまった。」
「――そんなこんなで、私の太宰文学批判があんまりうるさくなってきたので、友人たちは、私は太宰氏に会わせるのに興味を抱いたらしかった。矢代氏やその友人たちは、すでに太宰氏のところへたびたび出入りしていて、私をつれて行くのは造作もなかった。」 そして二十二年の秋に太宰さんと会うことになるのだが、その時日の点で、三島氏は記憶ちがいをしている。
三島氏が太宰さんに会ったのは、津軽から帰ってきてまもなくの二十二年一月であり、「斜陽」はまだ構想の段階にすぎなかった。
「斜陽」が『新潮』に連載されはじめたのはその年の七月からで、だから、それより半年前の一月には、太宰熱はまだ絶頂に達しておらず、三島氏はそれほど依怙地になることもなかったし、また、うるさく太宰文学批判をすることもなかったのである。
矢代君やその友人たちが太宰さんに会ったのはその二十二年一月が最初で、それまで出入りしたことはなく、これは三島氏の勘違いであろう。 さて、三島氏は、そのときのことを、次のように書いている。
「私は来る道々、どうしてもそれだけは口に出して言おうと心に決めていた一言を、いつ言ってしまおうかと隙を窺(うかが)っていた。それを言わなければ、自分がここへ来た意味もなく、自分の文学上の生き方も、これを限りに見失われるにちがいない。
しかし恥ずかしいことに、それを私は、かなり不得要領な、ニヤニヤしながらの口調で、言ったように思う。即(すなわ)ち、私は自分のすぐ目の前にいる実物の太宰氏へこう言った。
『僕は太宰さんの文学はきらいです』
その瞬間、氏はふっと私の顔を見つめ、軽く身を引き、虚をつかれた表情をした。しかしたちまち体を崩すと、半ば亀井氏のほうへ向いて、誰へ言うともなく、
『そんなことを言ったって、こうして来てるんだから、やっぱり好きなんだよな。なあ、やっぱり好きなんだ』
――これで、私の太宰氏に関する記憶は急に途切れる。」
私の記憶と、かなり違うようである。
三島氏は、「かなり不得要領な、ニヤニヤしながらの口調で」その一言を言ったそうだが、私には、そう思えなかった。
私は、そのときの三島氏の顔付きを鮮明に憶(おぼ)えているのだが、三島氏は眉ひとつ動かさず、能面のように無表情だった。
かなり緊張していたのではなかろうか。
その口調は、はっきりしていたが、声に抑揚がなく、棒読みのような感じだったと思う。 そのあとの太宰さんの返答も、私の記憶と三島氏の記憶とではちがうのだが、あるいは、「きらいなら、来なけりゃいいじゃねえか。」そう言ったあとで、三島氏が記憶していたようなことを、太宰さんは言ったかもしれない。
もし言ったとすれば、その場の空気を白けさせないために、太宰さんは無理をしたのである。
(『回想 太宰治』野原一夫 新潮文庫 昭和58年)今朝の父の一枚です(^_^)v
梅雨入りが早まりそうですね。
「令和3年の梅雨入りと梅雨明け(速報値)」(気象庁)
今日もWindowsアップデートに挑戦しましたが、やはりインストールに失敗しました。
昨日、トラブルシューティングをしたのだけど、やはり失敗しました。
失敗した後、トラブルシューティングをすると不具合の修正が実行されました。
これ以上の手立てをするのは、パソコンに詳しくない人間には怖くてできないなぁ…