2021年5月30日日曜日

青空で

いつも定点観測のように飯盛山方面を見ているのですが、
自転車で来ると1時間ほど早いので太陽が写っています。
時々、アソビカメラを忘れたときは携帯で撮るのだけど、
このように空が真中になる撮影だと、自動焦点なので後で見るとボヤケタ画像になっている(^^;
「資本論」への関心高まる コロナ禍で“経済格差”など意識か〟(NHK)

1月の100分de名著「資本論 マルクス」で取り上げられていました。
学生のときに資本論に挑戦したけど数ページも読まないうちに挫折した(^^;
番組で、斎藤幸平さんが現在の格差社会や気候温暖化などの問題と関連づけて分かりやすく解説してくださった。
都知事は、三密を避けるようにいいながら
 〝代々木公園に五輪パブリックビューイング 「密になるのになぜ」〟(毎日新聞 5月29日)

龍谷ミュージアム元館長のつぶやきさん

自粛自粛と言いながら、パブリックビューイングを推し進める東京都。
平和の祭典であるはずのオリンピックが日本人の和を乱しているという愚かな構図。
政治家のみなさんは「和を以て貴しとなす」の聖徳太子の言葉を胸に刻むべきです。
大ビューイングではなく大ブーイング



ロッシェル・カップさんのTwitterをリツートされています。

何故パブリックビューイングの実施にそんなに必死なのか、を知りたいです。
これではまだ分かりません。

#パブリックビューイング反対 

#代々木公園の木々をオリンピックから守りましょう
 斎藤環さんのTwitterに

トップが狂い始める時の三徴候全部揃った。
「精神論」「根拠なき楽観」「自己責任」


オリンピックに前のめりな保守勢力が、この国辱的な上から目線にどう反応するのか興味深く見守っております。

IOC 五輪選手らに“コロナで死亡は自己責任”同意書義務付け、唐突ぶりに不満噴出」(スポニチ 5月29日)

井上達夫さん
当事国である日本のメディアは、外国の報道機関任せにせず、バッハ会長の説明責任、さらに答責任を追及しなければならない。

と仰っていましたが、日本のマスコミの体質について

Martin FacklerさんのTwitterに

私はWSJ紙東京支局の特派員になった時に、日本銀行総裁の記者会見を取材したいと思った。
しかし、日銀広報部から意外な回答が来た。
「記者クラブの許可が必要」
幹事社の記者に連絡したら、いきなり断られた。
私は呆然とした。
記者が同じ記者の取材を妨害するのは初めて


米国人記者が驚いた「日本メディア」の談合体質〟(マーティン・ファクラー PRESIDENT Online 2019年9月12日)
美しき死の岸に 小さな庭」より

  岐阜提灯

 秋の七草をあしらつた淡い模様に、蠟燭の灯はふるへながら呼吸づいてゐた。
ふるへながら、とぼしくなつた 焔は底の方に沈んで行つたが、今にも消えうさせさうになりながら、またぽつと明るくなり、それからヂリヂリと曇つて行くのだつた。
……はじめ岐阜提灯のあかりを悦んでゐた妻はだんだん憂鬱になつて行つた。
あかりが消えてしまふと、宵闇の中にぼんやりと白いものが残つた。
(『定本原民喜全集Ⅱ』編集委員 山本健吉・長光太・佐々木基一 青土社 1978年)
  朝の歌

 雨戸をあけると、待ちかねてゐた箱のカナリアが動きまはつた。
縁側に朝の日がさし、それが露に濡れた青い菜つぱと小鳥の黄色い胸毛に透きとほり、箱の底に敷いてやる新聞紙も清潔だつた。
さうして妻は清々しい朝の姿をうち眺めてゐた。
 いつからともなくカナリアは死に絶えたし、妻は病んで細つて行つたが、それでも病室の雨戸をあけると、やはり朝の歌が縁側にきこえるやうであつた。
それから、ある年、妻はこの世をみまかり、私は栖みなれた家を畳んで漂泊の身となつた。
けれども朝の目ざめに、たまさかは心を苦しめ、心を弾ます一つのイメージがまだすぐそこに残つてゐるやうに思へてならないのだつた。
  鬼灯図

 なぜか私は鬼灯の姿にひきつけられて暮してゐた。
どこか幼い時の記憶にありさうな、夢の隙間がその狭い庭にありさうで……。
初夏の青い陽(かげ)さす青鬼灯のやさしい蕾。
暗澹たる雷雨の中に朱く熟れた鬼灯の実。
夏もすがれ秋はさりげなく蝕まれて残る鬼灯の茎。
かぼそく白い網のやうな繊維の袋のなかに照り映えてゐる真冬の真珠玉。
そして春陽四月、土くれのあちこちからあはただしく萌え出る魔法の芽。
……いく年かわたしはその庭の鬼灯の姿に魅せられて暮してゐたのだが、さて、その庭のまはりを今も静かに睡つてただよつてゐるのは、妻の幻。
  秋

 窓の下にすきとほつた靄が、葉の散りしだいた並木はうすれ、固い靴の音がしていくたりも通りすぎてゆく乙女の姿が、しづかにねむり入つたおんみの窓の下に。
  鏡のやうなもの

 鏡のやうなものを、なんでも浮かび出し、なんでも細かにうつる、底しれないものを、こちらからながめ、むかふにつきぬけてゆき。
  夜

 わたしがおまへの病室の扉を締めて、廊下に出てゆくと、長いすべすべした廊下にもう夕ぐれの気配がしのび込んでゐる。
どこよりも早く夕ぐれの訪れて来るらしいそこの廊下や階段をいくまがりして、建物の外へ出ると澄みわたつた空に茜雲が明るい。
それから病室の坂路を下つてゆくにつれて、次第にひつそりしたものが附纏つて来る。
坂下の橋のところまで来ると街はもうかなり薄暗い。
灯をつけてゐる書店の軒をすぎ電車の駅のところまで来ると、とつぷり日が沈んでしまふ。
混み合ふ電車に揺られ次の駅で降りると、もうあたりは真暗。
私は袋路の方へとぼとぼ歩いて行き、家の玄関をまたぎ大急ぎで電燈を捻る。
すると、私にははじめて夜が訪れて来るのだつた、おまへの居ない家のわびしい夜が。
   頌

 沢山の姿の中からキリキリと浮び上つて来る、あの幼な姿の立派さ。
私はもう選択を誤らないであらう。
嘗ておまへがそのやうに生きてゐたといふことだけで、私は既に報いられてゐるのだつた。
  かけかへのないもの

 かけかへのないもの、そのさけび、木の枝にある空、空のあなたに消えたいのち。
 はてしないもの、そのなげき、木の枝にかへつてくるいのち、かすかにうづく星。
  病室

 おまへの声はもう細つてゐたのに、咳ばかりは思ひきり大きかつた。
どこにそんな力が潜んでゐるのか、咳は真夜中を選んでは現れた。
それはかたはらにゐて聴いてゐても堪えがたいのに、まるでおまへを揉みくちやにするやうな発作であつた。
嵐がすぎて夜の静寂が立ちもどつても、病室の嘆きはうつろはなかつた。
嘆きはあつた、……そして、じつと祈つてゐるおまへのけはひも。
  春

 不安定な温度のなかに茫として過ぎて行つた時間よ。
あんな麗しいものが梢の青空にかかり、――それを眺める瞳は、おまへであつたのか、わたしであつたのか――土のおもてに満ちあふれた草花。
(光よ、ふりそそげ)かつてはおまへの瞳をとほして眺められた土地へ。
          1944-45年

(『定本原民喜全集Ⅱ』編集委員 山本健吉・長光太・佐々木基一 青土社 1978年)