雲が浮かんでいないのが淋しいなぁ…
外出自粛の土曜日、先週に比べて来園者が少ないように思いました。
「土日 日中は比較的暖かい」(えりの気象日記 12月4日)
伐採されたことが分からないほどアキニレ切株からひこばえがはえています。ひこばえ・胴吹きの意味
(前略)
切り株から、枝葉(ひこばえ)が伸びている木を見たことがありますか?
木は伐採されても、完全に枯れたわけではありません。
生きている根や樹皮があれば、そこから新しい枝葉を出して、また一から始められるのです。
ただ、若木の方が芽を出しやすく、年を取るほど出しにくくなります。
昔は根元から木を切って、ひこばえを出して育て(萌芽更新 <ほうがこうしん>)、薪や炭の材料にしていました。
主に若い広葉樹で行われていました。
針葉樹はひこばえが出ないものが多く、根元で切ると枯れてしまいます。
(『散歩が楽しくなる 樹の手帳』岩谷美苗 東京書籍 2017年)
望月衣塑子さんのTwitterに
本当に酷い。
菅首相、学術会議問題の反発「かなり大きくなると思っていた」と笑み浮かべ回答
学術会議の任命拒否問題について、菅首相は、反発を予想していたかについて記者から問われると「かなりなるんではないかと思っていた」とやや笑みを浮かべて答えた。
菅首相、学術会議問題の反発「かなり大きくなると思っていた」と笑み浮かべ回答(東京新聞 12月5日) 岩波書店のTwitterに
「偉そうなもの、一くくりにして考えを押しつけてくるものが嫌い。
だから2人とも主流から外れたし、境界に生きたと思います」
12/5朝日新聞「著者に会いたい」で、『ミンネのかけら ムーミン谷へとつづく道』の冨原眞弓さんが紹介されました。
冨原眞弓さんの笑顔は素敵です。
首相のうす笑いと大違い。
12月5日
日本軍が激戦のすえ、二〇三高地を占領した。 1904(明治37)年
遼東(りょうとう)半島の南端にあった旅順(りょじゅん)港を見おろす二〇三高地(海抜が203メートルあった)の攻防戦は日露戦争のヤマ場であった。
バルチック艦隊が到着しなうちに旅順を制圧することが、戦略上絶対に必要と見た日本軍は、四ヵ月にわたって攻撃をくりかえしたが、この堅塁を抜くことができなかった。
しかしこの日、あらゆる犠牲もかえりみずに強行した攻撃によって、日本軍は遂(つい)にこれをおとしいれた。
司令官は乃木希典(のぎまれすけ)。
日本側の死傷者は1万6935人に及んだ。
乃木はその苦闘を、「野戦攻城屍(しかばね)山を作(な)す。愧(は)ず我れ何の顔(かんばせ)あって父老(ふろ)に看(まみ)えん」と詠んだ。
ロシア軍の戦死者も6739人と伝えられる。
二百三高地の奪取によって、日本軍はただちに砲撃を開始、旅順港内のロシア艦船を次々に撃沈、翌年1月1日には旅順も開城となった。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二 1979年)
9月5日の記事に転記しましたが1905(明治38)年 9月5日に日露講和反対の日比谷焼打ち事件が起きています。
当時、国民は、マスコミの報道に煽られ、日本の状況を知ることができずにいたと思います。
『日本の近代とは何であったか―問題史的考察』より当時、日本がどれだけ借金を抱えていたかを転記したいと思いますφ(..)第2章 なぜ日本に資本主義が形成されたのか
5 日露戦争と国際的資本主義への決定的転化
漱石の見た借金国日本
日露戦争が1904(明治37)年2月10日に開戦されると、2月17日の閣議において2000万ポンドを限度とする戦費調達のための外債発行方針が決定されました。
そして、当時、日本銀行副総裁であった高橋是清が募債交渉と契約締結のために、ニューヨークとロンドンに派遣されます。
高橋は翌年2月、職務遂行のために新設された帝国政府特派財政委員に任命されました。
爾来3年間にわたる高橋の海外活動において外債発行回数は6回、外債総額は1億3000万ポンド(13億円)に及びます。
これら外債の累積によって、日本の外債依存度は質量ともに日露戦争前に比べて、飛躍的に増大したのです。
(『日本の近代とは何であったか―問題史的考察』三谷太一郎 岩波新書 2017年)
そのことの意味について、夏目漱石は1909(明治2)年に『東京朝日新聞』に連載中の小説「それから」の中で、主人公の長井代助に次のように言わせています。 日本ほど借金を拵(こし)らえて、貧乏震いをしている国はありゃしない。
この借金が君、何時になったら返せると思うか。
そりゃ外債位は返せるだろう。
けれどもそればかりが借金じゃありゃしない。
日本は西洋から借金でもしなければ、到底立ち行かない国だ。
それでいて、一等国を以て任じている。
そうして、無理にも一等国の仲間入をしようとする。
だから、あらゆる方向に向って奥行を削って一等国だけの間口を張っちまった。
なまじい張れるから、なお悲惨なものだ。
牛と競争する蛙と同じ事で、もう君腹が裂けるよ。
(『東京朝日新聞』明治42年7月29日、『朝日新聞』2015年5月18日再掲載)
国際的資本主義の様相
これが当時夏目漱石の眼に映った日本の国際的資本主義の現実でした。
第一に外債は量的に6倍以上に膨張したのみならず、既発の外債はその借替え必要から新たな外債を呼ぶ誘因となり、日本の財政と経済における外債依存の必要をますます強めることになりました。
そのことは日本が国際金融網やそれと密着した国際政治網に包摂されることを必然にしたのです。 また第二に日露戦争前は英国にのみ限られていた募債の対象が、日露戦争を画期として拡大し、英国のみならず米独仏三国にも及ぶにいたります。
1904年5月の第1回六分利付公債発行に際して、米国銀行団がクーン・レーブ商会( Kuhn Loeb & Co. )の主宰者でドイツ系ユダヤ人であるJ.H.シフ( Jacob H.Schiff )のイニシアティヴによってこれに協力して以来、米国銀行団は爾後4回の発行引受を行います。
さらに1905年7月の第2回四分半利公債発行引受に際しては、英米とともにドイツ銀行団がこれに加わりました。
これはシフの縁戚に当たるハンブルグの銀行家M.ワールブルグ( Max M.Warburg )のイニシアティヴによるものでした。
また日露戦争終了後の1905年11月発行の四分利付公債では、英米独とならんでロシアの同盟国フランスの銀行団もまたこれに参加しました。
さらに1907年3月には、1905年の第1回および第2回六分利付公債1200万ポンドの借換えのために、五分利付公債2300万ポンドが発行され、フランス銀行団は英国銀行団と均等にこれに参加しました。
これは同年6月に成立した日仏協商、それから7月に成立した日露協商と密接な因果関係をもっていました。
既成の露仏同盟と日英同盟とを結びつける英露協商実現への布石として日露および日仏協商実現を期したフランスは、当時難航していた日露交渉を促進するために、その妥結を公債発行引受の条件とし、その見通しが得られたところでフランス政府はフランス銀行団による日本の公債発行引受を承認したわけです。 日露戦争を画期として日本の外債依存度は量的および質的に増大していくわけですが、その過程において、またその結果として、高橋是清をはじめとする国際金融家を登場させました。
すでに述べたように、高橋は大久保利通が先導し不平等条約下の自立的資本主義の胎内で育てられた経済専門家であり、その価値観と思考様式を深く内面に定着させていました。
したがって、資本の国際的な自由移動に積極的な自由貿易論者であるというよりも、それに対して消極的な保護貿易論者であり、外債についても本来は否定的でした。
1907年3月、外債発行の最後の任務を終えた後、同年冬に清国を訪れた高橋は、かつて外資導入による鉄道敷設等に主導的役割を果たした湖広総督張之洞(ちょうしどう)と会見します。
その際に、グラントが明治天皇に与えた忠告を援引して、「外国に対して決して借款し給ふな」と忠告しました(高橋是清『随想録』千倉書房、1936年)。
自立的資本主義の基本原則を信条としてきた松方や高橋が、日清・日露量戦争がもたらした国際政治経済状況の変化に適応する形で、自立的資本主義の転換を先導したのです。
特に自己の本来の信条に反して、率先して日本の外債依存度を空前のレベルに高めた高橋は、期せずして自立的資本主義から国際的資本主義への類型的発展を導いた過渡期の経済リーダーであったといえるでしょう。
(『日本の近代とは何であったか―問題史的考察』三谷太一郎 岩波新書 2017年)
日本軍が激戦のすえ、二〇三高地を占領した。 1904(明治37)年
遼東(りょうとう)半島の南端にあった旅順(りょじゅん)港を見おろす二〇三高地(海抜が203メートルあった)の攻防戦は日露戦争のヤマ場であった。
バルチック艦隊が到着しなうちに旅順を制圧することが、戦略上絶対に必要と見た日本軍は、四ヵ月にわたって攻撃をくりかえしたが、この堅塁を抜くことができなかった。
しかしこの日、あらゆる犠牲もかえりみずに強行した攻撃によって、日本軍は遂(つい)にこれをおとしいれた。
司令官は乃木希典(のぎまれすけ)。
日本側の死傷者は1万6935人に及んだ。
乃木はその苦闘を、「野戦攻城屍(しかばね)山を作(な)す。愧(は)ず我れ何の顔(かんばせ)あって父老(ふろ)に看(まみ)えん」と詠んだ。
ロシア軍の戦死者も6739人と伝えられる。
二百三高地の奪取によって、日本軍はただちに砲撃を開始、旅順港内のロシア艦船を次々に撃沈、翌年1月1日には旅順も開城となった。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二 1979年)
9月5日の記事に転記しましたが1905(明治38)年 9月5日に日露講和反対の日比谷焼打ち事件が起きています。
当時、国民は、マスコミの報道に煽られ、日本の状況を知ることができずにいたと思います。
『日本の近代とは何であったか―問題史的考察』より当時、日本がどれだけ借金を抱えていたかを転記したいと思いますφ(..)第2章 なぜ日本に資本主義が形成されたのか
5 日露戦争と国際的資本主義への決定的転化
漱石の見た借金国日本
日露戦争が1904(明治37)年2月10日に開戦されると、2月17日の閣議において2000万ポンドを限度とする戦費調達のための外債発行方針が決定されました。
そして、当時、日本銀行副総裁であった高橋是清が募債交渉と契約締結のために、ニューヨークとロンドンに派遣されます。
高橋は翌年2月、職務遂行のために新設された帝国政府特派財政委員に任命されました。
爾来3年間にわたる高橋の海外活動において外債発行回数は6回、外債総額は1億3000万ポンド(13億円)に及びます。
これら外債の累積によって、日本の外債依存度は質量ともに日露戦争前に比べて、飛躍的に増大したのです。
(『日本の近代とは何であったか―問題史的考察』三谷太一郎 岩波新書 2017年)
そのことの意味について、夏目漱石は1909(明治2)年に『東京朝日新聞』に連載中の小説「それから」の中で、主人公の長井代助に次のように言わせています。 日本ほど借金を拵(こし)らえて、貧乏震いをしている国はありゃしない。
この借金が君、何時になったら返せると思うか。
そりゃ外債位は返せるだろう。
けれどもそればかりが借金じゃありゃしない。
日本は西洋から借金でもしなければ、到底立ち行かない国だ。
それでいて、一等国を以て任じている。
そうして、無理にも一等国の仲間入をしようとする。
だから、あらゆる方向に向って奥行を削って一等国だけの間口を張っちまった。
なまじい張れるから、なお悲惨なものだ。
牛と競争する蛙と同じ事で、もう君腹が裂けるよ。
(『東京朝日新聞』明治42年7月29日、『朝日新聞』2015年5月18日再掲載)
国際的資本主義の様相
これが当時夏目漱石の眼に映った日本の国際的資本主義の現実でした。
第一に外債は量的に6倍以上に膨張したのみならず、既発の外債はその借替え必要から新たな外債を呼ぶ誘因となり、日本の財政と経済における外債依存の必要をますます強めることになりました。
そのことは日本が国際金融網やそれと密着した国際政治網に包摂されることを必然にしたのです。 また第二に日露戦争前は英国にのみ限られていた募債の対象が、日露戦争を画期として拡大し、英国のみならず米独仏三国にも及ぶにいたります。
1904年5月の第1回六分利付公債発行に際して、米国銀行団がクーン・レーブ商会( Kuhn Loeb & Co. )の主宰者でドイツ系ユダヤ人であるJ.H.シフ( Jacob H.Schiff )のイニシアティヴによってこれに協力して以来、米国銀行団は爾後4回の発行引受を行います。
さらに1905年7月の第2回四分半利公債発行引受に際しては、英米とともにドイツ銀行団がこれに加わりました。
これはシフの縁戚に当たるハンブルグの銀行家M.ワールブルグ( Max M.Warburg )のイニシアティヴによるものでした。
また日露戦争終了後の1905年11月発行の四分利付公債では、英米独とならんでロシアの同盟国フランスの銀行団もまたこれに参加しました。
さらに1907年3月には、1905年の第1回および第2回六分利付公債1200万ポンドの借換えのために、五分利付公債2300万ポンドが発行され、フランス銀行団は英国銀行団と均等にこれに参加しました。
これは同年6月に成立した日仏協商、それから7月に成立した日露協商と密接な因果関係をもっていました。
既成の露仏同盟と日英同盟とを結びつける英露協商実現への布石として日露および日仏協商実現を期したフランスは、当時難航していた日露交渉を促進するために、その妥結を公債発行引受の条件とし、その見通しが得られたところでフランス政府はフランス銀行団による日本の公債発行引受を承認したわけです。 日露戦争を画期として日本の外債依存度は量的および質的に増大していくわけですが、その過程において、またその結果として、高橋是清をはじめとする国際金融家を登場させました。
すでに述べたように、高橋は大久保利通が先導し不平等条約下の自立的資本主義の胎内で育てられた経済専門家であり、その価値観と思考様式を深く内面に定着させていました。
したがって、資本の国際的な自由移動に積極的な自由貿易論者であるというよりも、それに対して消極的な保護貿易論者であり、外債についても本来は否定的でした。
1907年3月、外債発行の最後の任務を終えた後、同年冬に清国を訪れた高橋は、かつて外資導入による鉄道敷設等に主導的役割を果たした湖広総督張之洞(ちょうしどう)と会見します。
その際に、グラントが明治天皇に与えた忠告を援引して、「外国に対して決して借款し給ふな」と忠告しました(高橋是清『随想録』千倉書房、1936年)。
自立的資本主義の基本原則を信条としてきた松方や高橋が、日清・日露量戦争がもたらした国際政治経済状況の変化に適応する形で、自立的資本主義の転換を先導したのです。
特に自己の本来の信条に反して、率先して日本の外債依存度を空前のレベルに高めた高橋は、期せずして自立的資本主義から国際的資本主義への類型的発展を導いた過渡期の経済リーダーであったといえるでしょう。
(『日本の近代とは何であったか―問題史的考察』三谷太一郎 岩波新書 2017年)
高橋是清は「二・二六事件」で暗殺されます。