2020年12月14日月曜日

暗くて寒い朝

日ざしがないので少しの風でも冷たく感じます。
明日はさらに冷え込みそうですね…
山崎雅弘さんのTwitterに

野口悠紀雄(一橋大学名誉教授)
「GoTo政策は、一見したところ、観光業や外食業、あるいは娯楽業という『弱者』を助けようとする政策に見える。
しかし、実際には、これらの業種の大企業を助けるだけで、零細企業を助けることにはなっていない」

「コロナ下においても所得が減少しない人々に補助を与える結果にもなっている」
「GoTo政策は、支出の一定率を補助するものだ。したがって、高額のものほど補助額が大きくなる。
だから、人々は、宿泊するなら、安宿に泊まるよりは、豪勢で高価なホテルに泊まろうとする。
外食するなら、安い外食店ではなく、高級レストランや料亭で食事をする」
「一般に、高額のサービスを供給しているのは大企業だ。
したがって、GoTo政策は、大企業を助けることになる。
その半面で、安いサービスを提供する零細企業には、恩恵が及ばない」
「このことは、データで確かめることができる」


「強きを助け、弱きを見捨てる」、これがGoTo政策の本質だ〟(野口悠紀雄 現代ビジネス 12月13日)
14日は、赤穂藩の旧家臣四十七人が吉良邸(きらてい)に打ち入った日(1702<元禄15>年)。
北海道にも「北海道 北の果ての忠臣蔵 囚人たちと四十七士」(NHK みちしる)

KBS京都テレビで「忠臣蔵~討ち入り実行までの1年10ケ月~
見ていると、新撰組と関連がありました(^_-)
来週、再放送があります。
今週の「若冲が愛した錦市場~存続の危機と繁栄の歴史~」には、
株仲間の鑑札と名前帳(江戸時代)」が紹介されていました。
赤穂浪士の人気の秘密を
日本文学史序説(下)』より忠臣蔵に関する部分を転記しますφ(..)
(討入りをしたのは46人なのに、「四十七士」という意味がわかった)
第8章 町人の時代
 忠臣蔵と通俗小説

(前略)

 この時代が生んだ人形浄瑠璃のなかで、最高の作品は、以上に引用した若干の例をはるかに超えて、「仮名手本忠臣蔵」(竹本座初演、1748)である。
作者は、竹田出雲・三好松洛・並木千柳。
11段から成り、赤穂浪士による吉良上津介義央(よしなか)殺害のことを、史実に適当な粉飾を加えて語る。
菅原道真も、源義経も、早くから伝説化されて、大衆に人気のあった人物である。
赤穂浪士の一団も、事件当時から忽ち人気を得て、18世紀前半の劇場を通して伝説化された。
その伝説に決定的な形式をあたえたのが、「仮名手本忠臣蔵」であって、初演から成功し、200年後の最近まで、不入りの劇場はこの外題によって甦るとさえいわれてきた。
日本の演劇史に、「忠臣蔵」以上に長い間広汎な大衆をひきつけてきた芝居はない。
(『日本文学史序説(下)』加藤周一 ちくま学芸文庫 1999年)
 実際の事件は、1701年3月、赤穂城主浅野内匠頭長矩(5万3千石)が、勅使接待の役で、江戸城中に、将軍の側近儀典係りの吉良上野介義央(4千2百石)を斬ろうとしたことにはじまる。
浅野がなぜ吉良を恨んだか、その理由はあきらかでない(ただし3年まえ、1698年にも、浅野と同じように接待役であった津和野藩主亀井玆親<これちか>が、吉良を討とうとして、果たさなかったことがある。儀典係りの吉良には、勅使接待係の大名を怒らせる趣味があったのかもしれない)。
その結果、吉良は生きのび、浅野は切腹、江戸屋敷と赤穂城は召しあげられた。
これは幕府側の処置として、当然期待されるものであった。
浅野の家老大石内蔵助良雄(千5百石)は浪人し、同じく赤穂浪士45名(大石自身を加え、総勢もと47人、一人脱落して46人)と共に、1702年12月に、雪の早朝に吉良邸を襲って主人公を殺し、その首を提げて泉岳寺に到り、浅野の墓前に供えた。
大石以下浪士たちの襲撃は、周到な準備のもとになされ、その後の行動も整然としていたという。
これに対する幕府の処置は、46人を分けて4家に預け、後に切腹させることであった。
切腹は1703年2月4日。
  この事件の知らせが伝わるや、儒家の間では、意見が分かれた。
浪士の批判者(たとえば荻生徂徠や太宰春台)は、私怨によって法や破った点を非難し、讃美者(たとえば室鳩巣や伊藤東涯)は、命がけで主人の敵を討った「忠義」を評価した。
大衆の人気は、はじめから圧倒的に大石以下浪士の側にあったらしい。
1703年2月16日には、早くも曾我夜討に託して江戸の中村座が芝居をして、三日で禁じられたという。
その後この題材を扱った現存の芝居のもっとも古いもの、近松門左衛門の浄瑠璃、「基盤太平記」(竹本座、1706)があらわれ、さらに大坂の歌舞伎(「鬼鹿毛武蔵鐙」1710)、豊竹座の同名の浄瑠璃(紀海音作、1713)、同じ豊竹座の並木宗助等新作の浄瑠璃(「忠臣金短冊」1732)、京都の中村座の歌舞伎(「大矢数四十七本」1747)などが続き、遂に「仮名手本忠臣蔵」(1748)が出て、翌年(1749)には歌舞伎化され、三都の五座が競演した。
「仮名手本忠臣蔵」(以下略して「忠臣蔵」とする)は、「基盤太平記」にならって、時代を14世紀に移し、主人公の実名を変え(吉良を高師直、浅野を塩谷判官、大石を大星由良之助とする)、場所を鎌倉に変える。
話は殿中刃傷にはじまり、討入りに終るが、史実を離れるところが多い。
浅野が吉良を恨む理由は、芝居では吉良が浅野を侮辱する場面があり、「短気」の浅野の性格が加わって、あきらかである。
芝居は脱落者に触れないから、泉岳寺に引き上げた46人は「四十七士」とされる(「いろは四十七字」とかけて「仮名手本」である)。 
「四十七士」のなかで、大石が吉良襲撃をかくすための遊蕩、「勘平」といわれる人物の悲恋(お軽勘平)、大石の息子の恋の挿話(小浪力弥、また小浪の親、本蔵夫婦)、また襲撃の武具の調達をひきうける堺の町人の忠義(天河屋の義平)などは、作者の発明で、浅野の事件と討入りとの間に挿入され、芝居の大部分を占める。
それぞれの話が独立して、吉良襲撃の準備の進展とは必ずしも深く係らない。
ゆるやかに結びつけられた短い劇の連続という意味でも「忠臣蔵」は典型的なものである。
 これらの本すじと関係のない挿話には、武士の世界のこととしながら、町人の価値観があきらかにあらわれている。
「花に遊ばゝ祇園あたりの色揃へ」ではじまる大石の遊興の場面(第7段)は長い。
そこには遊里の愉しみを最高の価値の一つとする町人の世界があり、その意味で、たとえば西鶴の小説にも通じるものがある。
他方「お軽」の恋は激しく、父親の死を聞き、行きちがいから切腹した「勘平」の死を知ると、父の方は「非業の死でもお年の上」、「勘平」の方は三十になるかならぬかで死ぬのは、「さぞ悲しかろ口惜から、逢ひたかつで有ふのに」と嘆く。
そこには命がけの恋を讃美する近松の道行の歌が響いている。
「天河屋の義平」の方は、追手(実は彼を試すために仕くまれた狂言)にかこまれ、愛児を人質にとられ、武具調達を白状しろと迫られて、「天河屋の義平は男でござる」といって突撥ねる。
その後に大石が出て、「人有(ある)中にも人無(なし)と申せども、町家の中にもあれば有もの」といい、「一国の政道、お預け申た迚(とて)惜しからぬ御器量」という(第10段)。
これは町人観客が聞きたかった科白にちがいない。
町人と武士とは役割がちがうだけで、町人が町人だからという理由で他人に劣るのではないことを、力説してやまなかった石田梅岩と「心学」の精神は、ここにも反映していたといえるだろう。
西鶴的・近松笛・梅岩的なるもの、すなわち町人的価値の体系は、実際の赤穂浪士とは関係なく、芝居の「忠臣蔵」を支えて、その町人の間における人気を保証していたのである。
 しかしそれだけではない。
町人の世界が崩れ去っても、明治以後のこの国で、「忠臣蔵」の人気は去らなかった。
またそもそも芝居以前に、赤穂浪士の人気は高かった。
200年に及ぶ人気の秘密は、どこにあったのか。
浅野が吉良を恨んだのは、私怨であり、相手を殺し損なった無念の情は私的感情である。
「四十七士」がその遺志を貫いて吉良を殺したのは、公的な秩序(法)を破るものである。
この事件に対して、大衆は、何よりも、私的感情の公的秩序(吉良に代表される武士官僚に人格化されたところの)に対する挑戦を支持したのであろう。
そのかぎりでは、心中に同じ。
しかし心中の場合には「義理」即公的秩序であって、「人情」を正当化するのは、「道行」の歌、言葉と音楽の他にはなかった。
「四十七士」乃至一般に敵打の場合には、「主人に対する忠義」ということが公的な価値体系の一部分であって、その価値の変更ではなく、徹底をもとめることによって、――それだけが体制の全体を変えることに望みをもたぬ大衆にできることである――、私的感情を正当化することができる。
「四十七士」の人気は、おそらく「忠義」ではない。
「忠義」の話は、――実例ではないとしても、他にも数限りなくあった。大衆は私的なるものの公的なるものへの挑戦が、「忠義」の名において、すなわちあたえられた世界の構造の枠組のなかで、行われたからこそ、「四十七士」を支持したにちがいない。
しかもそれは一般の敵打とはちがって、実際の大石、芝居の由良之助の個人的な行為ではなく、「四十七士」が団結した行動であった。
平時には恋があり、遊蕩があり、親子の情その他がある。
しかし危機にはそのすべてを超えて団結する。
あるいはむしろ潜在的に強固な団結としてあらわれ得る集団に、「四十七士」のそれぞれが属していたということ。
問題は、その所属感のすばらしさ・魅力であって、団結した集団が追求する目標の下らなさではなかった。
目標は、本来一人の男の私怨と短気に出たことで、相手方17人を殺し(吉良も含めて)、さらに自分たち46人が死ぬことである。
しかし誰もその目標を問わないということ。
 「四十七士」の人気は、日本人が目的を問わず団結し得る能力を備えているかぎり、無限につづくはずであろう。
偉大な人形劇、「忠臣蔵」が画期的であったのは、それが「忠義」の劇あったからでは決してなく、団結の、集団所属感の、つまるところ日本社会の基本的構造の、見事に集中的な表現でそれがあったからである。
(後略) 
(『日本文学史序説(下)』加藤周一 ちくま学芸文庫 1999年)
今朝の父の一枚です(^^)v
カモメ(ユリカモメ?)が群れて飛んでいました。
父は土、日は人が大勢来園するということで散歩を控えていました。
鳥インフルエンザ 農水省が全国の養鶏場に対策徹底求める方針」(NHK 12月13日)
ウイルスは養鶏場のように密の状態だとすぐに感染が拡大します。

昨日の公園では催しがあって、開場1時間程前から待つ人の長い列…
感染の高止まりはまだまだ続きそうです。
さらに増えなければいいのですが…