昨日の雨が日に照らされて霞になっているようにボヤーッとしていました。
それ以上にボヤーッとしていたのが眼鏡とカメラのファインダー
ピントを合わせようと思っても曇って見えない(-_-;)
見えてもピントが甘いのに(^^ゞ
今朝は途中で一枚脱ぐほどだったけど、明日から寒波がくるという…
急激な気温差は体調管理が難しいです。
「数年に一度の寒波 あす~元日ごろ 日本海側中心に大雪のおそれ」(NHK)
エボラを速攻で治すなんとか持ってきた人に「じゃ、あそこに病棟あるから入って治してください」お願いしたらスタコラ逃げてった。
「コロナは風邪」という人も病棟ノーガードで入ってください。
「風邪」と一緒なのは、治療薬がないということ
風邪も風邪薬はあるけど、発熱には解熱剤、咳には咳止めなどの対処療法。
新型コロナも有効な治療薬がないのが現状。
これまでの風邪も無理をすると肺炎になっていた。
しかし「ただの風邪」ではない。
NHK総合「中村哲の声がきこえる」が素晴らしかったです。
再放送の予定がない(T_T)
冒頭に
U2来日公演(2019年12月5日 さいたまスーパーアリーナ)
追悼の思いを捧げよう
偉大なるテツ・ナカムラに
テツ・ナカムラのために
ペシャワール会 ペシャワール会
一人のボクサーが立っている
打ちのみされても闘い続ける
( 「U2来日公演。ペシャワール会、中村哲医師を追悼」YouTube)
橋本康範さんがアフガニスタンを去る前に中村哲さんが贈った言葉
「柳緑花紅」と書いてあります。
柳は緑、花は紅。
“あるがままに”という意味らしいです。
大越猛さんに贈った言葉は「一隅を照らす」
一隅を照らすというのは、
一つの片隅を照らす
ということですが、
それで良いわけでありまして、
世界がどうだとか、
国際貢献がどうだとかという問題に煩わされてはいけない。
それよりも自分の身の回り、出会った人、出会った出来事の中で
人としての最善を尽くす
ことではないかというふうに思っております。
今振り返ってつくづく思うことは、確かにあそこで困っている人がいて、
なんとかしてあげたいなあ
ということで始めたことが、
次々と大きくなっていったわけですけれど、
それを続けてきたことで
人間が無くしても好いことは何なのか
人間として最後まで大事にしなくちゃいけないものは何なのか、
ということについてヒントを得たような気がするわけです。
(中村哲「医者よ、信念はいならいまず命を救え!」より)
12月29日
山田三川(さんせん)が松前藩に就職した。 1838(天保<てんぽう>)9)年
旅行が大好きだった実学者山田三川は、この日、あこがれの蝦夷地(えぞち)に接する北海道南端の松前藩に就職した。
35歳だった。
三川は伊勢国三重郡の儒者(じゅしゃ)の家にうまれ、22歳の時に江戸に出て、昌平黌(しょうへいこう)で勉強をつづけていた。
松前の地に赴任したのは3年後で、好奇心のつよい三川は、早速北海道やエトロフ島などをあるきまわっている。
しかし当時の松前藩主は気まぐれで藩の政治は乱れ、これをたしなめた三川は、藩主に刀できりつけられたりした。
こうして1848年に三川はむりやりやめさせられ、やがて上州安中(じょうしゅうあんなか)藩に再就職した。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)
「山田三川について資料はあるか」(レファレンス協同データベース)
『アイヌ文化で読み解く「ゴールデンカムイ」』より「戦争と支配」を転記しますφ(..)
松前藩、そして商人がアイヌの人々に行なったことは、沖縄、朝鮮への抑圧へと受け継がれ
現在でも外国人技能実習生への待遇・差別に繋がっていると思います。
例えば
平山亜理さんのTwitterに
ベトナムに帰れないベトナム人の実習生や留学生が、まだ増え続けていて、支援して来たお寺も、限界に近づいているそうです。
「外国人技能実習生 妊娠出産めぐるトラブル相次ぐ 国は注意喚起」(NHK 12月28日)
そして韓国でも
〝「小さな幽霊」不法出稼ぎタイ人、韓国で数百人が死亡〟(Newsweek 12月24日)
昨日、最終回だった『アイヌ文化で読み解く「ゴールデンカムイ」』より「戦争と支配」を転記しますφ(..)
松前藩、そして商人がアイヌの人々に行なったことは、沖縄、朝鮮への抑圧へと受け継がれ
現在でも外国人技能実習生への待遇・差別に繋がっていると思います。
例えば
平山亜理さんのTwitterに
ベトナムに帰れないベトナム人の実習生や留学生が、まだ増え続けていて、支援して来たお寺も、限界に近づいているそうです。
「外国人技能実習生 妊娠出産めぐるトラブル相次ぐ 国は注意喚起」(NHK 12月28日)
そして韓国でも
〝「小さな幽霊」不法出稼ぎタイ人、韓国で数百人が死亡〟(Newsweek 12月24日)
100分de名著『ディスタンクシオン』でも
最後になって、全部終わった今、何もかもうまくいかないってことに気づかなくちゃならんのですよ…
あのころは選択肢がなかった。
金持ちでも貧乏でも若者ならだれでも、フランス行きが道だった。
みんな移民してきたのは、フランスが楽園だと思ってたからだろう、
なんて人に言われると、
子ども扱いしてんのかって言いたくなるね!
フランスが楽園じゃないことぐらい百も承知だった。
ある面では地獄だってこともわかってた。
私らはすべてを否認した。
自分自身、先祖、出身、宗教。
私らは棄教したんですよ。
(移民労働者のインタビューより『世界の悲惨』全3分冊)第2章 アイヌの先祖はどこから来たか?
戦争と支配
江戸時代に入るまでは、北海道のアイヌと和人は交易相手としてほぼ対等な存在だったと思われます。
それが変わってきたのは、1604年に松前藩が徳川家康から黒印状を受けて、正式に松前藩が確立してからです。
当時北海道では米はとれませんでしたので、松前藩は俸禄(ほうろく)の代わりにアイヌとの交易権を藩士の給与として分け与えました。
これを商場知行制(あきないばちぎょうせい)と言います。
つまり藩士何某(なにがし)がアイヌ何某と独占的に交易をする権利を与えたのですが、これはアイヌ側からしたらそれまでの自由貿易ができなくなったわけで、松前藩士の言い値で取引しなければならない土壌ができあがってしまいました。
そこへもってきて、特にキリシタン禁教令によって逃れてきた本州からの移民が、アイヌの居住地へどっと入ってくるという状況が生まれました。
そのおもな理由が砂金掘りです。
「ゴールデンカムイ」という物語の背景は、その300年前から準備されていたのです。
(『アイヌ文化で読み解く「ゴールデンカムイ」』中川裕 集英社新書 2019年)
そのようにして和人への不満が募っていた中で、1669年にシャクシャイン戦争という、歴史上最大のアイヌ対和人の戦争が起こります。
この当時、北海道のアイヌは日本語で「惣大将(そうたいしょう)」と呼ばれるリーダーのもと、大きく五つぐらいのグループに分かれていました。
そのうち、現在の日高地方の静内(しずない)川を境にして、シャクシャインをリーダーとするメナスンクル「東の人」という東側のグループとオニビシをリーダーとするスムンクル「西の人」という西側のグループが対立しており、争いの末、シャクシャインがオニビシを殺してしまいました。
スムンクルは比較的松前藩と近い関係にあったので、援助を求めて松前藩に使者を送りました。
しかし、松前藩としては、その申し出を受けたらメンンスクルと対決することになってしまいますから、協力を拒否して使者を追い返しましたが、その帰り道で使者が亡くなってしまいます。
それが松前藩に暗殺されたという噂(うわさ)になって伝わり、それまで敵対していたスムンクルとメナスンクルが一転して手を組み、松前藩に攻撃をしかけていきました。
他の三つのグループはそれぞれのスタンスで戦況を見守り、戦闘には参加しませんでした。
これがシャクシャイン戦争です。
結果的にシャクシャインは和議といつわった酒宴の席でだまし討ちにあって殺され、アイヌ側の敗北となりました。
これを機に松前藩はアイヌへの政治的・経済的支配を強め、享保・元文期(1716~41年)には場所請負制という体制を確立しました。
それまで藩士が直接アイヌと取引をしていたのですが、それをやめて、商人に運上金を納めさせ、その代わりに各「場所」(アイヌとの交易地域)の経営を商人に請け負わせるという制度です。
利益を上げるために、商人たちは交易などというまどろっこしい方法はとりませんでした。
アイヌの成人男女を漁場労働にかり出して、ニシン漁やイワシ漁などに従事させたのです。
そのニシンやイワシからは〆粕(しめかす)が作られ、日本海を通り、若狭湾から瀬戸内海に運ばれて、綿花の良質な肥料として中国地方の綿花栽培に重要な役割を果たしました。
すなわち江戸時代の木綿の着物というのは、アイヌの労働力によって支えられていたのです。
商人たちはそれによって巨大な富を築きましたが、アイヌの村落では、冬のための保存食料を蓄えるべき時期に、働き盛りの大人たちはみな漁場に取られ、老人と子供ばかりで細々と生活せざるをえない状況が生まれました。
大人たちが帰ってきても、持って帰ってくるのはわずかな報酬でしかなく、時には戻ってこない人たちもいました。
そうやって村は疲弊し、荒廃していったのです。 そんな中、1789年に国後島と目梨(めなし)地方(現在の標津町<しべつちょう>周辺)を中心とした地域で、クナシリ・メナシ蜂起という戦いが起きました。
きっかけはニシン漁場の番人が、労働で疲労困憊(こんぱい)しているアイヌ女性に、「働かないとお前も〆粕にするぞ」と脅したことだと言われています。
この戦いで多くの血が流れ、投降した蜂起の首謀者37人は、全員牢内(ろうない)に閉じ込められたまま、惨殺されました。
これがアイヌと和人の最後の戦争となったのです。
このように、アイヌと和人はいつのまにか平和裏に仲良く暮らすようになったわけではありません。
15世紀から18世紀末にかけての幾多の戦いの果てに、和人側がアイヌ側を完全に武力制圧し、経済的な支配下に置いたことで、明治時代にアイヌが日本という国に組み込まれる基盤が作り上げらたのです。
(『アイヌ文化で読み解く「ゴールデンカムイ」』中川裕 集英社新書 2019年)今朝の父の一枚です(^^)v
オナガモを写していました。
尾が長いのではみ出しています(^_-)