2020年12月26日土曜日

朝焼けが見られたので…

朝、家の窓から東の空を見ると朝焼けが見えました。
散歩にくると飛行機雲が消えずにまっすぐのびていた。

科学的にも正しい天気予報『観天望気』「朝霧編,朝焼け編」〟(科学実験データベース)

飛行機雲ができるわけ 天気との関係は?」(ウェザーニュース)

年末は寒波到来 年明けまで影響受けそう」(えりの気象日記 12月25日)
梅が咲いていると思ったらウグイスの鳴くにはまだ早いこの時期に咲いている…
ウグイスカグラ(スイカズラ科)

今日見た夢。
大学で単位が足らなくて留年する夢。
新型コロナが感染拡大しているのに電車に乗るのは嫌だなと思っていた…
いつまで経っても試験や仕事の夢を見るのはトラウマになっているのだろうな(^-^;

今村顕史さんのTwitterに

英国で急増した変異株。
難易度はさておき、しっかりと解説している3人の記事をまとめてご紹介。
ボリュームもあるので、週末のステイホームでお読みください。
まずは忽那先生

イギリスの新型コロナ変異ウイルスは何が問題なのか

次に岩田先生
新型コロナのウイルス変異 英国はなぜ強力な対策を取ったのか

そして峰先生です
英国で検出された新型コロナの変異株 日本への影響は?どの程度恐れるべき?
 安田菜津紀さんのTwitterに

一人5000円という金額は不自然ではないか、という指摘に対して、
「信用されている顧客かどうかで違う」と嘲笑するような態度で安倍元首相が答えていたのが、しっかり映像で残っている。
しかも金額はホテル側が設定したことになっている。


Choose Life ProjectのTwitterに動画が載っています。

本日12月25日の議運委員会で「桜」疑惑に関する安倍前総理の答弁が行われていますが、過去の答弁をまとめましたので、併せてご覧ください。
 平川克美さんのTwitterに

嘘をつく人は、問い返されるたびに、嘘が見破られまいとして補強のための微妙な変化を加える。
注意深く聞いていれば、その微妙な変化は誰にでも読み取れる。
本当のことにはそのような変化は起きないからだ。

岩田健太郎さんのTwitterには

いざというとき平気で他人を切り捨てて保身に走る人を上司に持たない方が良いよ
12月26日
 藤原純友(すみとも)が瀬戸内海で叛乱(はんらん)をおこし天慶(てんぎょう)の乱が始まった。 939(天慶2)年

 藤原純友は伊予掾(いよのじょう)となって赴任したが、海賊と手を握り、不法を重ね、この日、その部下が備前介(びぜんのすけ)藤原子高(さねたか)をとりこにした。
純友はその後、讃岐(さぬき)・阿波(あわ)・土佐(とさ)・九州などで広く活躍。
朝廷では940年になって、小野好古(よしふる)・源経基(つねもと)を追捕使(ついぶし)として下したが、容易に鎮圧できず、941(天慶4)年6月になって、純友を討ちとった。
 これにやや先んじて、東国では平将門(まさかど)が叛乱をおこし、この939年12月には、下野(しもつけ)の国衙(こくが)を占領した。
この東西で同時に起こった二つの叛乱は、武士の勃興(ぼっこう)のさきがけとなった。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)
1976年の大河ドラマ「風と雲と虹と」では平将門と藤原純友が登場していました。

平将門の乱」(中学・高校)

武士の成長と院政 日本の歴史07』より将門と純友の共通点と相違点を転記しますφ(..)
第2章 武士たちの英雄時代
 4 天慶の乱の歴史的位置
 二つの乱の共通点


 将門と純友。
二人は9世紀末から10世紀初頭の体制転換期に生まれた。
公卿・殿上人からなる宮廷貴族社会が形成され、五位への叙爵(じょしゃく)ルートが固定していたこの時期、父親の早世は子孫の昇進に大きな打撃であり、宮廷貴族社会からの脱落していく要因となる。
(『武士の成長と院政 日本の歴史07』下向井龍彦 講談社学術文庫 2009年)
 平高望(たいらのたかもち)の父高見王(たかみおう)は無位のまま早世し、高見王の兄高棟(たかむね)王流平氏(公家平氏)が代々公卿になったのとは対照的に、子孫は宮廷貴族社会から転落した。
将門自身も、父の死により宮仕えをやめて無位のまま帰郷した。
純友も、父良範(よしのり)の従兄の推挙で伊予掾になっていることからみえて、父は早く死去したのであろう。
彼もまた宮廷社会から締め出されたのである。
それでも二人はその境遇のなかで、貴族社会に地歩を得る努力を怠ってはいなかった。
彼らは兵衛尉(ひょうえのじょう)や衛門尉(えもんのじょう)を経て五位に叙され、受領の道を歩む人生を夢みていたにちがいない。
チャンスは限られていたが、その一つに勲功賞による叙爵があった。
二人が海賊追補や紛争調停に全力で取り組んだのは、勲功賞を期待してのことであった。
しかし、その期待がくじかれ、憤懣(ふんまん)が沸点に達したとき、反逆に立ち上がらざるをえなかったのである。
 二人は、ともに比肩する者なき武名をもつ英雄であった。
忠平宛て書状のなかで「将門、天の与へたる所すでに武芸にあり。思ひ惟(はか)るに、等輩(とうはい)誰か将門に比せん」と述べているように、将門には「武芸」への強烈な自負があった。
その武名は坂東・京畿内に響きわたり、坂東諸国受領も将門の治安維持能力に頼っていた。
一方、純友は承平南海賊を無血一斉投降させた最高殊勲者であり、平定後、伊予守紀淑人(きのよしひと)から国内治安維持を任され、瀬戸内諸国の紛争調停者としての役割が期待されていた。
讃岐や大宰府の電撃的占領にみる果敢さは、彼の卓抜した武勇を示している。
 二人は、彼らに対する政府の評価と処遇に満足していなかった。
将門は忠平にはっきりと抗議している。
「朝廷から褒賞(ほうしょう)されないばかりか、逆にしばしば譴責(けんせき)されてきたことは、恥辱であり面目を失うものである」と。
この「恥」と「面目」こそ、将門決起の内面的動機であった。
純友も承平南海賊平定の最高殊勲者でありながら、勲功申請を黙殺される。
純友が盟友文元(ふみもと)の救援を決断したのは、年来の怒りの爆発であり、据え置かれたままの恩賞を要求する抗議行動であった。
 しかし純友にしても将門にしても、大きな錯覚があった。
それは将門の発言に示される、自己の武芸に対するあまりの過信であった。
それは生まれたばかりの武士が描いた誇大な自己評価であった。
彼らは、自らの武芸で世界が動くと信じていた。
その点で、彼らは紛れもない英雄であった。
しかし彼らは、自己の武芸が本当に威力を発揮するのが、追捕官符を賜与され国家の軍事指揮官として戦っている時だけであるという冷厳な事実に、気がついていなかった。
将門も純友も、追捕官符が約束する勲功賞に群がる政府軍に敗れ去ったのである。
 将門反乱軍の指導者・幹部は、将門兄弟ら、延喜勲功者子孫であり、純友反乱軍の指導者は純友・文元・三辰(みつとし)ら承平勲功者自身であった。
また将門・純友のもとには、受領に反発する田堵(たと)負名(ふみょう)層にとって、旱魃・飢饉にあえぐなかで、徴税事務をマヒさせ、国衙と負名との間にある支配関係を一時的に破棄する国衙占領・受領追放は、歓迎すべき面であったのである。
将門や純友も一面では負名であった。
将門・純友の乱には、登場まもない王朝国家の受領支配に対する田堵負名層の闘争という側面があり、その後の反受領蜂起(凶党蜂起)の先駆でもあった。
 一方、政府軍の主力は、将門の乱では坂東諸国押領使(おうりょうし)に任じられた、秀郷(ひでさと)・貞盛(さだもり)・公雅(きんまさ)・遠保(とおやす)ら延喜勲功者子孫であり、純友の乱では、現役の下級武官や東国から転戦した延喜勲功者子孫が、追捕山陽南海道使小野好古(よしふる)指揮下の幕領や諸国警固使になっていた。
また動員された諸国の兵力は田堵負名層であった。
階層的には、反乱軍も政府軍も同一であった。
武士・田堵負名層のうち、ある者は受領の収奪に反発する立場から将門や純友に身を託し、ある者は勲功賞による出世を夢見て政府軍に身を投じたのである。
政府軍に寝返り讃岐・伊予での政府軍の勝利をもたらした藤原恒利(つねとし)や、文元をだまし討ちにした賀茂貞行(かものさだゆき)などは、勲功賞にかける地方武士の姿を典型的に示している。
 武士たちは、将門や純友の悲運を目の当たりにして軍事的抗議の無意味さを悟り、政府も武士たちへの冷遇が大規模な反乱を招くことを知った。
天慶の乱の後ほぼ百年間、武士の大規模反乱は起こらない。
武士たちは、勲功賞をステップに位階・官職の昇進を目指す、王朝国家の戦士として歩み始めるのである。
  二つの乱の相違点

 二つの乱の相違点を、政治史的な面に限ってみてみよう。
 まず第一に、将門の乱の前提には長期にわたる一族内闘争があったが、純友の乱は純友がいきなり備前の反受領闘争に介入することによって始まった。
第二に、将門の場合、坂東諸国を制圧した段階で、域内に藤原秀郷(ひでさと)・平貞盛(さだもり)ら有力な敵対勢力がいたが、純友の場合、制圧地域内に有力な敵対勢力はいなかった。
第三に、将門の場合、反乱を決意した政治目的が曖昧である。
坂東諸国占領の目的は「暫(しばら)く気色(けしき)を聞く」ためであった。
それに対して純友の場合、政治目的は非常に明確である。
純友は五位叙爵(じょしゃく)とかつての盟友たちへの任官を要求し実現した。
第四に、将門の場合、新皇(しんのう)に即位して坂東諸国受領を任命するなど、自らの支配機構を築こうとしたが、純友の場合、そのような形跡はない。
第五に、将門の乱の鎮圧主体は現地の反将門勢力であったが、純友の乱の鎮圧主体は中央から派遣された鎮圧軍であった。
第六に、将門の乱は坂東制圧後わずか二ヵ月で鎮圧されたが、純友の乱の完全鎮圧まで2年近くかかった。
 こられの違いの根本には、以下のような坂東と瀬戸内地域との王朝国家体制への転換の仕方の違い、反乱状況の違いが横たわっているように思われる。
 坂東では、寛平・延喜の国政改革への暴力的抵抗が、改革と並行して起こった。
その鎮圧過程で武士が登場した。
将門は、東国の乱で活躍した「武士第一号」平高望(たいらのたかもち)から第三世代目である。
将門の叔父・従兄弟ら平氏だけでも、坂東諸国は広く蟠踞(ばんきょ)していた。
第二・第三世代の坂東武士は、国衙(こくが)に対して負名(ふみょう)という立場で共通利害に立っていたが、むしろ競合する面が強かったのである。
将門の乱で一族内闘争が先行し、将門が敵対勢力を一掃できず、反乱目的が不明確にならざるをえなかったのはそのためである。
そのことは、政府が追討官符によって反将門勢力や傍観勢力を結集することを容易にした。
だからこそ将門は坂東占領を継続するために独自の権力形成が必要であったし、政府との本格的な和平交渉を始める以前に、地域内敵対勢力によって鎮圧されたのである。
 一方、瀬戸内諸国では、国政改革は寛平・延喜年間には大きな暴力的抵抗を受けることなく受容され、承平年間まで持ち越された衛府舎人問題が承平南海賊(じょうへいなんかいぞく)平定の勲功体験を共にする土着武士第一世代であり、政府の勲功黙殺に共通の不満を抱いていた。
国衙に対する負名としての立場も共通であり、地域内に敵対勢力が存在せず、受領と反乱勢力との対立は直接的であった。
いきなり国司襲撃から出発し、恩賞要求という明確な政治目的を掲げえたのはそのためである。
純友の乱が長期化したのは、地域内に対抗勢力が形成されていなかったからであり、中央から投入した政府軍によって鎮圧せざるをえなかったのである。
 最後に乱の呼称について。
これまで将門の乱と純友の乱を総称して、「承平・天慶の乱」と呼ばれてきた。
しかし承平年間の坂東での合戦は、将門と叔父たちとの私闘であり、政府・国衙は将門の平和維持活動に期待してさえいた。
将門が国家に敵対することになったのは、常陸国衙を占領した天慶2年(939)11月であった。
純友は、承平南海賊では平定側の立役者であり、彼が反逆するのは、天慶2年12月、備前介(びぜんのすけ)藤原子高(さねたか)を摂津国須岐駅(すきえき<現在の芦屋市>)に襲撃したときであった。
「承平・天慶の乱」の呼称は、承平年間の状況と天慶2年以降の反乱との性格の違いを見えにくくし、承平年間から一貫して将門・純友が反逆者であったかのような印象を与えてしまう。
したがって二つの乱を総称するなら、「天慶の乱」とすべきであろう。
(『武士の成長と院政 日本の歴史07』下向井龍彦 講談社学術文庫 2009年)