今月に入って大阪では雨が1ミリも降っていないとか…
乾燥が続いているので火の用心ですし、
新型コロナやインフルエンザなどのウイルスは、空気が乾燥すると飛散しやすいです。
「近畿北部 9日天気回復 各地で晴れ間見られる」(えりの気象日記 12月8日) 坂本史衣さんのTwitterに
報道では新型コロナの医療に関わる人を「医師ら」とか「医師や看護師」と表現することが多くて、
時間や文字数やわかりやすさの観点から仕方ないとは思うのだけど、
呼吸管理に関わる臨床工学技士、
早期離床に関わる理学療法士、
検査を行う臨床検査技師、薬剤療法に関わる薬剤師、
CT検査に関わる放射線技師、
食事に関わる管理栄養士、
空調管理等に関わる施設職員、
施設の清掃や消毒に関わる清掃担当者、
保健所や他施設との受け入れ調整を行う医療連携担当、
自治体への報告や病床の調整をする事務部門、
職員の健康管理部門、患者サービ部門、環境整備を行う看護補助者、
外来や入院の受付部門、
PPEなどの物流を確保する部門、
患者情報を抽出する医療情報部門、
会議録の作成や会議の調整を行う事務部門、広報部門などなど、
本当に数多くの部門の関係者が携わっていることは時々強調したい。
介護施設や保健所も。
岩波書店のTwitterに
今日は #漱石忌 。
1916年12月9日、早稲田の漱石山房にて夏目漱石が息を引き取りました。
49歳。『明暗』が絶筆となりました。
小社とは縁も深く、岩波書店の看板の文字は漱石の筆によるもの。
3月に完結した『定本 漱石全集』題字も漱石の筆。
12月9日
平治(へいじ)の乱がおこった。 1159(平治元)年
平治元年12月4日、平清盛は重盛(しげもり)をはじめ一門の人々をひきつれて熊野詣(くまのもうで)に出発した。
その隙(すき)をついて、12月9日の夜半、藤原信頼(のぶより)は清盛の権勢を不満をもつ源義朝(よしとも)を誘い、ライバルの藤原通憲(みちのり<信西(しんぜい)>)を倒すために兵をおこした。
信頼・義朝は信西を庇護(ひご)する後白河上皇の(ごしらかわじょうこう)の三条殿に火を放ち、上皇を内裏(だいり)に幽閉(ゆうへい)してから信西を襲った。
信西は逃げたがやがて発見されて殺された。
しかし、急をきいた清盛は、熊野路(くまのじ)からとって返し、たちまちのうちに信頼方を破った。
信頼は斬(き)られ、義朝も東国に逃れる途中で殺された。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)
「平治の乱」(中学・高校)
『カレンダー日本史』を読むと、すぐに平清盛が信頼や義朝に反撃したように思ってしまうのですが
『武士の成長と院政 日本の歴史07』より清盛が熊野参詣の途中から六波羅館に戻ってからの行動を転記しますφ(..)
そして平治の乱の首謀者(?)について『天皇の歴史4 天皇と中世の武家』より紹介しますφ(..)
第六章 武家政権に向って
平治の乱
(前略)
一方、熊野参詣の途上にあった清盛は、10日早朝クーデターを田辺で知り、急遽引き返して17日、六波羅館(ろくはらやかた)に入る。
事件を知った伊勢・伊賀の家人も続々と六波羅に押し掛けた。
東国の郎等を召集していない無勢の義朝は、多勢を擁する六波羅に手が出せなかった。
とはいえ、院・天皇は信頼の掌中にあったので、清盛も迂闊(うかつ)に動けなかった。
両者睨(にら)み合い状態で、時は過ぎていた。
その間、経宗(つねむね)・惟方(これかた)は秘かに清盛と接触し、清盛は経宗に、御所近く火事を起こしてその隙(すき)をついて天皇を女房車で救出する策を示すとともに、信頼を油断させるために名簿(みょうぶ)を奉呈して臣従の意を示した。
(『武士の成長と院政 日本の歴史07』下向井龍彦 講談社学術文庫 2009年)
25日深夜、天皇は清盛の指示どおりに御所を脱出し、六波羅館に遷った。
後白河院は、供奉(ぐぶ)する公卿も護衛の武士もないまま馬に乗って仁和寺(にんなじ)に脱出した。
この時点で清盛が推戴(すいたい)しようとしたのは天皇であり、院ではなかった。
「朝敵」となりたくなければ六波羅に馳せ参れと清盛が布告すると、前関白忠通・関白基実以下、公卿・殿上人のほとんどが六波羅に参入した。
後白河院・美福門院も入った。
内裏では、天皇・院を奪われて狼狽する信頼に、義朝は「日本一の間抜け者に同心してバカなことをしてしまった」と罵倒したという(『愚管抄』)。
(後略)
(『武士の成長と院政 日本の歴史07』下向井龍彦 講談社学術文庫 2009年)
第一章 平安時代の朝廷とその動揺
4 平治の乱から後白河院制へ
公教の反後白河運動
信西の死に様を見せつけられた一人の公卿が、これは朝廷の屋台骨を揺るがす大事件であるという強い危機感を懐いた。
その公卿とは内大臣藤原公教(きんのり)である。
公教は閑院(かんいん)流三条家の祖である。
閑院流は白河・鳥羽・後白河の外戚となって上流貴族に昇り、摂関家につぐ高い家格を得た。
この頃、公教は朝廷の運営を担う働き盛りであったが、信西と同様に、かつては鳥羽の側近であり、近衛没後の皇位継承問題の審議にも参加した。
ともに故鳥羽路線の遵奉者として、信西とはきわめて近い関係にあったとみられる。
(『天皇の歴史4 天皇と中世の武家』河内祥輔、新田一郎 講談社学術文庫 2018年)
公教は密かに反信頼派を結集する工作活動を始めた。
まず、二条天皇の外戚(藤原経宗<つねむね>)や側近(藤原惟方<これかた>)を説得し、二条の同意を取り付け、次に、公卿の大多数を味方に引き入れて、二条を担ぐ貴族集団を作った。
ここで重要なのは、この活動が後白河には極秘裏に行なわれたことである。
つまり、後白河は敵側とみなされていた。
さらに公教は、抗争を一挙に決着させるために、意想外な作戦を企てた。
それは二条を内裏(だいり)から脱出させるという奇策である。
そして、公教がこの計画の実行役に起用したのが、平清盛(たいらのきよもり)である。
清盛はここではじめて、この事件に関わることになった。
なぜ二条を内裏から脱出させるのか。
その理由は、この時、後白河と二条が大内裏(だいだいり)の中で隣り合わせに住んでいたからである。
そこに事件の真相を解く鍵があるように思われる。
二条は即位以来、大内(おおうち<大内裏の中の内裏>)に居住していた。
しかるに、後白河は、九日事件で御所が焼けた後、よりによってその大内の東隣の一本御書所(いっぽんごしょどころ)という建物に引っ越してきた(保元の乱・平治の乱関係地図<35頁>参照。 地図は省略)。
上皇は内裏に隣接して住まないという原則があり、また、大内裏の中に住まないという原則もある。
後白河のやり方は二重の原則違反であり、すこぶる異常といわねばならない。
そこには二条を自分の支配下に置こうとする意図が表れているとみることができよう。
この後白河の行動は、九日事件に彼自身が深く関わっていたことを示している。
二条を内裏から脱出させるのは、二条を後白河の支配から解放するためである。
二条と後白河を引き離し、二条を自立させるためである。
そのようにみれば、公教にとって真の敵は後白河その人であることになろう。
公教は反後白河派を結集しようと運動したのである。
その仕上げが二条の内裏脱出であった。
この二条の内裏脱出は25日夜に決行された。
これについては慈円(じえん)『愚管抄(ぐかんしょう)』に詳しい。
清盛は見事にこの脱出を成功させ、二条を洛東六波羅(ろくはら)の私邸に迎え入れた。
その報せを受けて、公卿は続々と六波羅の清盛邸に駆けつけた。
後白河は一人、大内裏に取り残され、六波羅に結集した二条・貴族集団と対峙する形になった。
二条派は事の成り行きを後白河に通告し、後白河の身の処し方を彼自身の意思に任せた。
後白河には、信頼と結束して二条派と闘うか、二条派に降参するか、一人孤立するか、三つの選択肢があったと思われるが、彼は三番目の道を選び、大内裏を脱け出て、六波羅とは正反対の方角にある仁和寺(にんなじ)に逃げ込んだ。
信頼を見捨てて、自分は局外の場に身を置いたわけである。
翌朝、信頼は空っぽになった大内を見て、呆然と立ち尽くした。
彼は都合が悪くなれば捨て駒にされる役割であった。
平治の乱とは何か
この二十五日事件は公教らによる反後白河運動である。
それが九日事件に端を発しているとなれば、九日事件の張本人も後白河であることになろう。
確かに、信西を謀反人に仕立てて、梟首に処することができるのは、後白河しかいない。
襲撃するはずの場所が後白河の御所であったことも符合する。
信西は後白河に逆らったために、後白河によって抹殺されたとみることができる。
梟首の刑は衆人に対する見せしめであろう。
それは、自分に逆らう者はこのようになるという、後白河の強烈な警告である。
後白河は、信西を殺してでも、何かをやろうとしていたのである。
その問題とは何か。今日は #漱石忌 。
1916年12月9日、早稲田の漱石山房にて夏目漱石が息を引き取りました。
49歳。『明暗』が絶筆となりました。
小社とは縁も深く、岩波書店の看板の文字は漱石の筆によるもの。
3月に完結した『定本 漱石全集』題字も漱石の筆。
12月9日
平治(へいじ)の乱がおこった。 1159(平治元)年
平治元年12月4日、平清盛は重盛(しげもり)をはじめ一門の人々をひきつれて熊野詣(くまのもうで)に出発した。
その隙(すき)をついて、12月9日の夜半、藤原信頼(のぶより)は清盛の権勢を不満をもつ源義朝(よしとも)を誘い、ライバルの藤原通憲(みちのり<信西(しんぜい)>)を倒すために兵をおこした。
信頼・義朝は信西を庇護(ひご)する後白河上皇の(ごしらかわじょうこう)の三条殿に火を放ち、上皇を内裏(だいり)に幽閉(ゆうへい)してから信西を襲った。
信西は逃げたがやがて発見されて殺された。
しかし、急をきいた清盛は、熊野路(くまのじ)からとって返し、たちまちのうちに信頼方を破った。
信頼は斬(き)られ、義朝も東国に逃れる途中で殺された。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)
「平治の乱」(中学・高校)
『カレンダー日本史』を読むと、すぐに平清盛が信頼や義朝に反撃したように思ってしまうのですが
『武士の成長と院政 日本の歴史07』より清盛が熊野参詣の途中から六波羅館に戻ってからの行動を転記しますφ(..)
そして平治の乱の首謀者(?)について『天皇の歴史4 天皇と中世の武家』より紹介しますφ(..)
第六章 武家政権に向って
平治の乱
(前略)
一方、熊野参詣の途上にあった清盛は、10日早朝クーデターを田辺で知り、急遽引き返して17日、六波羅館(ろくはらやかた)に入る。
事件を知った伊勢・伊賀の家人も続々と六波羅に押し掛けた。
東国の郎等を召集していない無勢の義朝は、多勢を擁する六波羅に手が出せなかった。
とはいえ、院・天皇は信頼の掌中にあったので、清盛も迂闊(うかつ)に動けなかった。
両者睨(にら)み合い状態で、時は過ぎていた。
その間、経宗(つねむね)・惟方(これかた)は秘かに清盛と接触し、清盛は経宗に、御所近く火事を起こしてその隙(すき)をついて天皇を女房車で救出する策を示すとともに、信頼を油断させるために名簿(みょうぶ)を奉呈して臣従の意を示した。
(『武士の成長と院政 日本の歴史07』下向井龍彦 講談社学術文庫 2009年)
25日深夜、天皇は清盛の指示どおりに御所を脱出し、六波羅館に遷った。
後白河院は、供奉(ぐぶ)する公卿も護衛の武士もないまま馬に乗って仁和寺(にんなじ)に脱出した。
この時点で清盛が推戴(すいたい)しようとしたのは天皇であり、院ではなかった。
「朝敵」となりたくなければ六波羅に馳せ参れと清盛が布告すると、前関白忠通・関白基実以下、公卿・殿上人のほとんどが六波羅に参入した。
後白河院・美福門院も入った。
内裏では、天皇・院を奪われて狼狽する信頼に、義朝は「日本一の間抜け者に同心してバカなことをしてしまった」と罵倒したという(『愚管抄』)。
(後略)
(『武士の成長と院政 日本の歴史07』下向井龍彦 講談社学術文庫 2009年)
第一章 平安時代の朝廷とその動揺
4 平治の乱から後白河院制へ
公教の反後白河運動
信西の死に様を見せつけられた一人の公卿が、これは朝廷の屋台骨を揺るがす大事件であるという強い危機感を懐いた。
その公卿とは内大臣藤原公教(きんのり)である。
公教は閑院(かんいん)流三条家の祖である。
閑院流は白河・鳥羽・後白河の外戚となって上流貴族に昇り、摂関家につぐ高い家格を得た。
この頃、公教は朝廷の運営を担う働き盛りであったが、信西と同様に、かつては鳥羽の側近であり、近衛没後の皇位継承問題の審議にも参加した。
ともに故鳥羽路線の遵奉者として、信西とはきわめて近い関係にあったとみられる。
(『天皇の歴史4 天皇と中世の武家』河内祥輔、新田一郎 講談社学術文庫 2018年)
公教は密かに反信頼派を結集する工作活動を始めた。
まず、二条天皇の外戚(藤原経宗<つねむね>)や側近(藤原惟方<これかた>)を説得し、二条の同意を取り付け、次に、公卿の大多数を味方に引き入れて、二条を担ぐ貴族集団を作った。
ここで重要なのは、この活動が後白河には極秘裏に行なわれたことである。
つまり、後白河は敵側とみなされていた。
さらに公教は、抗争を一挙に決着させるために、意想外な作戦を企てた。
それは二条を内裏(だいり)から脱出させるという奇策である。
そして、公教がこの計画の実行役に起用したのが、平清盛(たいらのきよもり)である。
清盛はここではじめて、この事件に関わることになった。
なぜ二条を内裏から脱出させるのか。
その理由は、この時、後白河と二条が大内裏(だいだいり)の中で隣り合わせに住んでいたからである。
そこに事件の真相を解く鍵があるように思われる。
二条は即位以来、大内(おおうち<大内裏の中の内裏>)に居住していた。
しかるに、後白河は、九日事件で御所が焼けた後、よりによってその大内の東隣の一本御書所(いっぽんごしょどころ)という建物に引っ越してきた(保元の乱・平治の乱関係地図<35頁>参照。 地図は省略)。
上皇は内裏に隣接して住まないという原則があり、また、大内裏の中に住まないという原則もある。
後白河のやり方は二重の原則違反であり、すこぶる異常といわねばならない。
そこには二条を自分の支配下に置こうとする意図が表れているとみることができよう。
この後白河の行動は、九日事件に彼自身が深く関わっていたことを示している。
二条を内裏から脱出させるのは、二条を後白河の支配から解放するためである。
二条と後白河を引き離し、二条を自立させるためである。
そのようにみれば、公教にとって真の敵は後白河その人であることになろう。
公教は反後白河派を結集しようと運動したのである。
その仕上げが二条の内裏脱出であった。
この二条の内裏脱出は25日夜に決行された。
これについては慈円(じえん)『愚管抄(ぐかんしょう)』に詳しい。
清盛は見事にこの脱出を成功させ、二条を洛東六波羅(ろくはら)の私邸に迎え入れた。
その報せを受けて、公卿は続々と六波羅の清盛邸に駆けつけた。
後白河は一人、大内裏に取り残され、六波羅に結集した二条・貴族集団と対峙する形になった。
二条派は事の成り行きを後白河に通告し、後白河の身の処し方を彼自身の意思に任せた。
後白河には、信頼と結束して二条派と闘うか、二条派に降参するか、一人孤立するか、三つの選択肢があったと思われるが、彼は三番目の道を選び、大内裏を脱け出て、六波羅とは正反対の方角にある仁和寺(にんなじ)に逃げ込んだ。
信頼を見捨てて、自分は局外の場に身を置いたわけである。
翌朝、信頼は空っぽになった大内を見て、呆然と立ち尽くした。
彼は都合が悪くなれば捨て駒にされる役割であった。
平治の乱とは何か
この二十五日事件は公教らによる反後白河運動である。
それが九日事件に端を発しているとなれば、九日事件の張本人も後白河であることになろう。
確かに、信西を謀反人に仕立てて、梟首に処することができるのは、後白河しかいない。
襲撃するはずの場所が後白河の御所であったことも符合する。
信西は後白河に逆らったために、後白河によって抹殺されたとみることができる。
梟首の刑は衆人に対する見せしめであろう。
それは、自分に逆らう者はこのようになるという、後白河の強烈な警告である。
後白河は、信西を殺してでも、何かをやろうとしていたのである。
それは二十五日事件で明白になったように、後白河と二条の対立関係、即ち、皇位継承問題をめぐる父子の対立でることに間違いなかろう。
「正統」は故鳥羽の決めた二条であろうとする立場と、「正統」は後白河の意思で決まるとする立場と、この二つの路線の相克である。 事件を推測してみよう。
後白河は、自分こそが「正統」であることの証しとして、将来の「正統」を自分の意思で決めようとした。
その第一歩は、自分の選んだ子を立太子させることである。
丁度このとき、後白河の次男(守覚法親王<しゅかくほっしんのう>)が出家への道に入ろう(入室)としていた。
出家をすれば、皇位継承の資格は失われる。
つまり、後白河はこの次男を「正統」候補者に選んだのではないか。
そこで、この次男の出家を阻止し、立太子を実現しようとしたのではなかろうか。
おそらく、信西はこの後白河の計画に反対して殺されたのであろう。
「正統」二条の擁護を信念とする信西を除かなければ、次男の立太子は到底実現しえない。
九日事件は後白河なりのぎりぎりの決断であった。
それに反応したのが公教らの貴族である。
二条擁護派は結束して二十五日事件を起こし、後白河を屈服させた。 以上が事件の本筋である。
本篇はこれで終わったが、しかし、付録が付く。
翌26日、信頼に動員されていた武士の源義朝が武力蜂起に走り、この事件は「乱」になった。
義朝は自分が謀反人の立場になったと知って、死刑を覚悟し、自暴自棄になる。
保元の乱では武士は死刑になり、義朝自身、父為義(ためよし)の死刑を執行したからである。
義朝は清盛に戦いを挑んで敗れ、逃亡の末、尾張(おわり)国で殺された。
また、義朝の子の頼朝は伊豆(いず)国に流罪にされた。 『平治物語』は清盛と義朝の武士同士の対立が事件の原因の一つであるかのように描くが、それは的外れである。
合戦という終わり方はこの事件の本質とは関係がない。
また、信頼については、彼はろくな取り調べも受けずに、27日に死刑にされた。
口封じといえよう。
それは後白河をこれ以上は追及しないという意味である。
公卿の死刑は350年ぶりのことであった。
(『天皇の歴史4 天皇と中世の武家』河内祥輔、新田一郎 講談社学術文庫 2018年)