2020年12月13日日曜日

暗い空…

今朝は、昨日と逆で、来たときは日ざしがあったのに
しだいに暗い空になりました。
そして帰る時には予報通り晴れになった…
信じられないニュースです。
 
望月衣塑子さんのTwitterに

信じられない。辺野古の埋め立てに戦没者の遺骨がある南部戦跡の土を掘り起こして使うとは。
「人の心を失っている」辺野古新基地に戦没者の遺骨が混じる恐れ 石灰岩と遺骨、判別困難
「多くの住民や兵隊が血を流した土地の石を基地建設に使うなんて、あってはならない」


「人の心を失っている」辺野古新基地に戦没者の遺骨が混じる恐れ 石灰岩と遺骨、判別困難〟(沖縄タイムス 10月12日)

城の石垣に墓石や地蔵を利用したことや、戦時中、寺の鐘などが供出されたことは知っているけど
遺骨が含まれている土を使おうとしているのは、どんな神経なんだろう…
いまだシベリアやアジア・太平洋などで戦死した兵士や
戦闘に巻き込まれた女性や子どもたちなどの非戦闘員の遺骨を探す人々がいるというのに…
 Eテレこころの時代~宗教・人生~ 「裏も表も我が人生
親しみを込めて「ゴッちゃん」と呼ばれている後藤文雄神父。
カトリック吉祥寺教会

番組を見ながら目が霞みました。
後藤神父の戦争体験、カンボジア難民やカンボジアへの救援(学校建設)が紹介されていました。

映画『father』 戦争に翻弄され家族を失った神父と故郷を失った「子ども」〝巡礼〟の記録 」(KiriShin 2018年3月21日)

マスクを頭に被っている姿に親しみを覚えました(*´▽`*)

フランクルの『夜と霧【新版】』が紹介されていて
フランクルが自分の人生に与えられている意味と使命を見つけるための手がかりとして唱えた「三つの価値」
・物事をつくりだす「創造価値
・他者と深くつながり合う体験によって実現される「体験価値
・与えられた運命を前向きに受け止める「態度価値

ゴッちゃんがクリスマスのメッセージに「態度価値」の実現が語られていました。
「創造価値」も「経験(体験)価値」も何も実現できなくなってしまった人間が
取りうる最高の価値実現として
つまり自分の現実をそのまま受け入れて受容して
どうにもならないその現実を受容することによって実現する価値
フランクルはアウシュビッツとダッハウの経験がある
その極限の状態の中に置かれた人間にもかかわらず
その中で何もできなくなってしまった人間が最高の行為をする
例えばマキシミリアノ・コルベ神父みたいなこととか
自分がもらったたったひと切れのパンを
他に人に分けてしまったとかそういう行為ですね
それが「態度価値の実現」と言われていて
今、僕にとってできることはもう「創造価値」の力もないし
それから「経験(体験)価値」の力もないし
あるがままの自分の惨めな姿を受け入れながら
しかも実現していく何か価値があるに違いない
ただそれが自分にとって今、何であるかわからない
それを探し求めていくことじゃないかなと
そんなふうに思っています。
12月13日
 天保改革で株仲間解散令が出された。 1841(天保12)年

 徳川幕府はこの日、江戸の十組問屋(とくみどんや)にたいして、株仲間の解散を命じ、問屋とか仲間とか組合とかよぶことまで禁じた。
 江戸や大坂をはじめ、全国の商人や職人たちは、仲間や組合を作って、仕事やもうけを独占してきた。
幕府もこれを利用して、商人らを支配してきたが、「仲間のものが不正をするので物価があがるのだ」として、水野忠邦(ただくに)らの手で解散を命じ、翌年3月には、これは全国におよぶ法令であると確認したのである。
 このため京都の織屋(おりや)などでは仕事をうしない、首をくくったり、捨子(すてご)をするものがでて大さわぎとなった。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)
株仲間は10年後の嘉永4年(1851年)に再興されます。
株仲間解散のことを調べていたら田沼意次について書かれているのを見つけました。
田沼意次は、時代劇で悪役になっていて、そういうイメージが刷り込まれてしまっているのですがσ(^-^;
文明としての江戸システム 日本歴史19』より「『近代日本の先駆者』――田沼意次」を転記しますφ(..)
第6章 生活を支えた経済システム
 「近代日本の先駆者」――田沼意次


 18世紀の市場経済の展開は、二人のリアリスト、あるいは「近代日本の先駆者」(アメリカ人歴史学者ジョン・ホール氏の表現)を生んだ。
一人は田沼意次、もう一人は豊後国東(ぶんごくにさき)半島の哲学者、三浦梅園(みうらばいえん)である。
江戸時代の経済的達成の到達点と限界を考えるうえで、最後にこの二人に注目しておこう。
 田沼意次は、紀州家から8代将軍となった吉宗に従って江戸に移り、旗本となった父意行(もとゆき)の長男として、享保4年(1719)に誕生した。
享保19年(1734)世子家重(いえしげ)の西丸(にしのまる)小姓となり、栄達の糸口をつかむことになる。
父の死去により、翌年、家督を相続する(6百石)。
その後、9代将軍となった家重のもとで昇進と加増を重ねて、宝暦8年(1758)には1万石、遠州相良(さがら)藩主となった。
「田沼時代」の始まりである。
同10年(1760)に家治(いえはる)が10代将軍となってからも、さらに栄進を重ねる。
明和6年(1769)に老中格・2万5千石、同9年(1772)老中・3万石、そして最終的に天明5年(1785)には5万7千石まで上りつめたのである。
(『文明としての江戸システム 日本歴史19』鬼頭宏 講談社学術文庫 2010年)
 しかし転落も急転直下であった。
天明6年(1786)に家治が死去すると、ただちに老中を免ぜられ、11代将軍に家斉(いえなり)が就任すると、屋敷と領地2万石が没収される。
翌7年松平定信が老中首座になると、意次は蟄居(ちっきょ)を命ぜられて、所領と相良城が没収となり、家督は孫の意明(おきあき)が相続、奥州下村(しもむら)へと移封させられる。
のちに寛政改革と呼ばれることになる一連の改革が本格化するなか、翌8年早々に相良城は取り壊され、意次はその年、失意のうちに死去するのである。
 では、いわゆる田沼時代にとられた経済政策とはどのようなものであったか。
ひとことでいえば、市場経済を指向した経済・金融政策、非農業生産を重視した産業政策、貿易推進政策と土地開発計画に特徴を認めることができるだろう。
それは、吉宗後期の政策を受け継ぎながら、新機軸を付け加えたものであったが、吉宗のそれに比べ、意次の政策は相互に脈絡をもち、矛盾が少ないという点で、その革新的な性格が評価されている。
 幕府の財政収支は元文改鋳以後、順調に推移して大幅な黒字を出していたが、家重が将軍になった頃をピークに急速に悪化して、1760年代中頃には赤字を出すようになった。
したがって意次の政策も第一に財政収入増大をめざすことにあった。
その一つとしてなされた印旛沼(いんばぬま)干拓計画は、享保期にも一度は画策されたものであったが、これを再び取り上げて天明2年(1782)、実施を決定し、町人資金を導入して着工したが、洪水によって中断しなければならなかったことはすでに触れた(第四章2節)。
 もう一つ、重要な開発政策に、蝦夷地の開拓がある。
徳川家康以来、蝦夷地は松前氏による支配が認められてきた。
蝦夷地の交易権は松前氏の独占を認め、他国から渡って直接にアイヌと取引することは禁じられたのである。
またアイヌに対しては「非分の申し懸け」をしてはならないこと、アイヌは自分の意思でどこに行こうと自由であることも、慶長9年(1604)家康黒印状(こくいんじょう)に付記されている。
しかし、和人の進出はアイヌ社会に影響を与え、アイヌ内部の対立を生んだ。
それがきっかけとなって寛文9年(1669)、和人に対するシャクシャインの反乱が起きたのであるが、これが押さえ込まれてからはアイヌの松前藩に対する服従が徹底されていた。
 18世紀に入ると、ロシアが日本近辺に接近して来る。
仙台藩の医師工藤平助(くどうへいすけ)は天明初年に北方問題の重要性を説く『赤蝦夷風説考(あかえぞふうせつこう)』を著した。
平助の提案を受け入れた意次は、天明5年(1785)、彼を松前に派遣して、千島(ちしま)と樺太(からふと)の調査をおこなわせる。
また蝦夷地についても、勘定奉行松本秀持(まつもとひでもち)の計画に基づいて、アイヌに農具を与え農耕化を促し、さらに内地からの移民による開発計画を立てたのである。
こうして明治に先駆けて企図された北方への国土拡張政策は、しかし意次の失脚によって中止となってしまう。
 その後、松前藩でおこなわれていた「場所請負制度」の過酷な取引に対して、アイヌによる反乱が起きる。
寛政元年(1789)のクナシリ・メナシの乱である。
これは松前藩によって鎮圧されるが、これを機に、背後にロシアの働きかけがあったと推測した幕府は、蝦夷地開発に対して消極的になり、松平定信のもとで蝦夷地に開発の対象ではなく、北方防備の基地としてのみ位置づけられるのである。
もっとも定信失脚後、再び蝦夷地開発論は復活し、寛政11年(1799)には、幕府は太平洋側の東蝦夷地を松前藩から取り上げて直轄領にする。
しかし蝦夷地開発が本格化するのは、明治になってからのことであった。
 意次の政策は貿易面でも特徴がみられる。
銀の流出を防ぐために、新井白石は貿易高を制限するという消極策をとったのであるが、意次は逆に、銅(棹銅<さおどう>)と、煎海鼠(いりこ)・干鮑・鱶鰭(ふかひれ)など海産物(俵物)を中心に輸出を奨励して、銀の還流を期待した。
俵物の集荷には物産会所をつくり、明礬(みょうばん)・鉄・真鍮・龍脳(りゅうのう<防虫剤・香料に用いられた>)などについては座をつくらせて増産を奨励した。
また種々の株仲間の結成を認め、冥加金を徴収している。
宝暦10年(1760)から天明6年(1786)までに、大坂で冥加金を課せられた会所・仲間は80件に上った。
こうした株仲間公認政策がとくに大坂を中心におこなわれたのは、年貢以外の財源を商工業者に求めて冥加金を徴収すること、大坂周辺の農村の新興商工業者を把握することによって、大坂問屋の集荷独占を強化して、江戸への供給を確保し価格を安定化させることを狙ったものであった。
 しかし、これらもまた意次が失脚すると、寛政改革において整理される。
冥加金・運上の徴収は停止され、幕府による専売を意図して設けられた人参座・鉄座・真鍮座ども廃止された。
 また株仲間は、一部の特権商人を保護するものとみなされ、あるいはカルテル行為により価格操作をおこなっているとして、天保改革の際に解散される(天保12年<1841>)。
しかしその結果、流通に混乱をきたしたために、10年後の嘉永4年(1851)には再興させられる。
 江戸時代の流通は複雑で、生産者から消費者のもとに商品が届くまでに、仲買・問屋・小売と、何段階もの仲介業者を経ており、その間の代金決済は、各種の手形を用いた信用取引が重要な手段となっていた。
ところが幕府は、民間の経済的取引に対して契約励行を保証する強い制度をつくらなかったうえ、旗本・御家人と札差との金銭貸借をめぐつ訴訟を認めず、当事者間の協議に解決をゆだねる相対済令を発した。
このような条件のもとでは、株仲間のような商人組織が協同して、取引停止などの懲罰制度によって代金支払の保証や、品質の保持、数量不足などの不正防止をはかることには大きな意味があったのである(岡崎哲二氏による)。
 貨幣政策もまた、財政の健全化、流通拡大という目的をもつ、意次時代の重要な政策であった。
前述したように、まだ意次が老中になる以前の明和2年(1765)、初めて一定の大きさと重量をもった計数銀貨として、「明和五匁(もんめ)銀」が発行された。
それまでの銀貨は秤量貨幣で重量が一定していなかったから、使用に際して不便であった。
一定の額面をもつ銀貨が鋳造されたことは、まさに革新的であった。
 さらに明和9年(1772)に「南鐐二朱銀(なんりょうにしゅぎん)」が発行されたことは、江戸時代の貨幣制度における革命であったといってよい。
まず第一に、これを契機にして日本の貨幣体系は金本位へと移行したとみることができることは、すでに述べた。
第二に、南鐐二朱銀の鋳造によって得た改鋳益金により幕府は、財政収支を黒字に転換することができた。
もうひとつは、南鐐銀によって、市中を流通する貨幣在高が安定的に維持されることも重要である。
元文元年(1736)の銀貨の在高は金に換算して千二十万両、文政元年(1818)にそれは千十四万両で、ほとんど変化していない。
しかし、もし文政元年に南鐐銀がなかったそすると八百八十四万両止まりなってしまうと推計される。
つまり、通常の貨幣改鋳ではなく、南鐐銀の鋳造により、交換手段として必要な貨幣数量を維持することで、物価のいっそうの低落を防いだと考えられるのである。
 意次は、貸金会所設立も計画している。
宝暦10年(1760)、大坂町人の出願によって庶民金融機関として銭小貸会所の設立を認め(天明3年廃止)、明和8年(1771)には同じく大坂町人の出願による銀小貸会所の設立を認めた(天明8年廃止)。
いずれも貸金の返済が滞ったり、請負人の不正によって廃止を余儀なくされたが、意次はさらに天明6年(1786)、諸大名への低利融資を目的に貸金会所を計画した。
これは全国の寺社・農民・町人から徴収した御用金と幕府拠出金によって運用する予定であったが、意次の失脚によって計画だけで終わっている。
 このように幕府自身が関与した金融機関は、近代の郵便貯金や公的金融機関の役割に等しいものであった。
ただし主要な資金源が御用金であったから、資金提供者に対する利払いは期待できなかったろう。
しかし、このような先駆的な試みは、貨幣経済の進展と、手形を中心とする信用取引が盛んになっていた時代に、適合する計画であった。
意次失脚直後の寛政2年(1790)には、棄損令によって金融が停滞するのを防ぐための措置として、札差への貸付機関として猿屋町貸金会所が設立され、文政期には馬喰町御用屋敷貸付役所が関東郡代屋敷に設立されて、ともに明治維新期まで機能したことからも、意次の先見性がうかがわれるであろう。
 田沼時代に推進された政策はことごく寛政改革によって否定された、といっても過言ではない。
意次は側用人政治、金権政治の権化とされ、その悪徳をあげつらわれた。
だが、そのような批判は捏造された意次像によるものであることが、大石慎三郎氏らによって明らかにされてきた。
 当時にあっても、政敵による批判と否定がまもなく意味のないものになっていたことは、「白河の清きに魚のすみかねて、もとの濁りの田沼こひしき」とか、「世の中に蚊hどうるさきものはなし、ぶんぶ(文武)といふて夜もねられず」のような寛政改革批判の狂歌からも察せられるであろう。
たかだか意次時代の30年のあいだ、田沼家が城主であった遠州相良の町は、文政6年(1823)に再び、意次の子、意正(おきまさ)を城主として迎え入れることになる。
相良は今でも田沼びいきの町である。
 意次の政策は、経済に限らず、学問・芸術では自由な発展を奨励し、医療では西洋医学を育成し、人事・賞罰においては人材本位、刑罰よりも賞を多くするという方針をとったことからもわかるように、積極的に現実を肯定し、尊重することであった。
たしかに多角的発展をめざした農業政策は、宝暦~天明期という気候寒冷化の極の時代にあっては、食料の安定的な供給にとって適当ではなかったかもしれない。
凶作という外発的ショックを受け止めることができなかったのは、不運であった。
しかし、市場経済化とそれに呼応した農業と諸産業の発展は、歴史的に不可避のものだったのである。
(『文明としての江戸システム 日本歴史19』鬼頭宏 講談社学術文庫 2010年)