午前中は、雨が降らなかったけど…
「通天閣てっぺんの青色に注意 24日は傘を忘れずに」(えりの気象日記 12月23日)しむさんのTwitterに素敵な話が(*´▽`*)
息子と療育園のバスを待ってたら声をかけてくださったおばあちゃんがいて、
息子が何も言葉を返さないからいつものように「おしゃべりができないんです」と説明したら、
「ちゃんとおめめでお返事くれたよね。」
と言われ泣きかけた。
1953年(昭和28年)12月24日に奄美群島返還日米協定が調印され、
翌25日に奄美群島が日本復帰しました。
「奄美大島 本土復帰へ」(NHKアーカイブス 1953年)
実は、私が生まれた年です。
父に、沖縄の母とどうやって出会ったのか聞いたことがあります。
父は、奄美が米国の統治下にあったので、沖縄に仕事を探しに行ったと話していました。
米国の統治下でなかったら本土に仕事を探しに行っていたそうです。
『奄美諸島の昔話 日本の昔話7』(絶版)よりいくつか紹介します。 十二支の由来
「運命をくれなければ(与えなければ)ならないから、動物たちはみんな、神様の前に集れ」といったら、十二日のうちにくるようにとのことだったので、牛は一番のろいので、早くからうっ立って(出発して)いないと、間に合わないと思って、くらを掛けて準備をしていた。
(『奄美諸島の昔話 日本の昔話7』監修:稲田浩二、編者:田畑英勝 日本放送出版協会 昭和49年)
そしたら、ねずみがきて、
「うし、うし、うらぁ、だーはち(牛、牛、君は、どちらへ)」とたずねた。
「わんな(私は)神様が、運命をくれるから、十二日のうちにこいとのことだったから、私のようにおそいのは早くいかないと、十二日までにはいき着かないから今からうっ立ってゆくところだ」といった。ねずみは、牛の家の屋根にあがって待っていて、牛が門口(じよぐち) を出る時に、牛のくらに飛び乗り、くらぞこに伏せていた。
牛は運命をもらいにと、神様の前にいって、
「ごめんください」といったら、門番が、
「はい、いらっしゃい」といったらすぐにねずみが、
「はい、わが一番じゃ」といって、牛のくらぞこから飛び出していったそうな。
それで、ね、うし、とらと、ねずみが一番先に呼ばれるようになったという。
(日本昔話集成・12「十二支の由来」)
語り手・大島本島・大島郡字宇検村屋鈍 東八次郎
猫の年のない理由
猫(まや)がねずみに、
「神様から運命をもらう日はいつだったかね」ときいたら、
「十三日まで」と教えた。
一日おくらせて教えたので、猫は、十三日に天の神様のところに行って、
「ごめんください、ごめんください」といったら、門番が、
「いらっしゃい」といって、門を開けてくれた。
「きょう、私は神様から運命をもらいにきました」といったら、門番が、
「馬鹿むんぬ(馬鹿者が)、昨日までで運命はみなくれてしまってもうないよ。顔でも洗っておけ」といわれたので、猫は年ももらえずいつも顔ばかり洗っているのだそうな。
そうして、ねずみにだまされたといって、それからねずみをとって食べるようになったそうな。
(日本昔話集成・12「十二支の由来」)
語り手・大島本島・大島郡宇検村屋鈍 東八次郎 年の夜の神様
ある若い青年があった。
目もよく見えない両親もあまり元気でなかったので、からだの具合のいい時には働き、からだの具合の悪い時にはあちこち家々を回って物をもらって暮していた。
米はもらい、おかずは家近い川ばたのあんにゃ(草の名)という草をとってきて、それをおかずにして食べていた。ある日、いつものようにあんにゃをとっていたら、きれいな女の人が後からきて、
「兄さん、何をしているのですか」というので、
「わしはこのうじゅる(あんにゃ)をとっている」というと、
「それは何をするのです」とたずねるので、
「これは食べるのよう」というと、
「では、私もとってみよう」といって女もいっしょにそのあんにゃをとって、その日は家に帰り、次の日またいくと、またその女がきて、
「兄さん、私は天からきたか、地からわいたか、この世にだれも身寄りのない一人者ですが、二人夫婦になりましょう」といった。
「それは、私にもらわれてくれるならありがたいが、私はものもらいをしているので、私といっしょうにはとても暮せないだろうから、もっといい人をみつけて暮すようにするがいい」というと、
「私も『お父さん、お母さん』と呼んでみたいから、ぜひいっしょになってください」という。
「物乞いをしてもかまわないか」
「それでもかまいません」といった。
「では、いっしょに家にいこう」といって、家に連れだって帰って、そのことを親に話すと、親も大変よろこんだ。
それで夫婦になっていっしょに暮していた。ある日、女がひとりで川ばたへいってうじゅるをとっていると、川上から小さなぐち(御器)が流れてきたそうな。
「これは大変きれいなぐちだがどうしようかなあ」といって、それを持って帰って米箱の中に入れて米を計るものにして、下に向けないで上にばかり向けておいてあった。
やがて年の夜になった。
年の夜の御飯はないので、もらってきて食べたが、さあ、元日の御飯はどうしたらよいかと思案しながら米箱の中を見たところが、米箱いっぱいに米ができていた。
いくら食べても食べきれないほどあったので、もらった家々にかえしてきたが、いくらかえしても米箱にはなおいっぱいの米がはいっていて、ゆっくり食べることができるようになったそうな。
だから、年の夜の道具は下に向けないように、上に向けて、物を食べても洗わないようにして、元朝の若水で洗うようにするものだそうな。
語り手・沖永良部島・大島郡和泊町国頭 高石清西 大年の客
年の夜にもれっくゎ(乞食)が、
「宿を貸してくれ」といって回ってきたそうな。
どこへいって頼んでも、
「年の夜の人が」といってだれ一人宿を貸してくれなかったので、貧乏暮しをしている人の家にいって、
「宿を貸してくれ」といったところが、その家の人は、
「かわいそうに、年の夜というのに、もれであってもかまわないからとめて年をとらせてやろう」
といって、
「宿を借りなさい、私がここで年をとらせてあげるから」といってとめたやったら、もれっぐゎは大変喜んで、その夜はそこにとまり、あくる朝、犬と話をして犬にくそをまらせたち(ひらせた)。
その犬ぐゎ(犬ころ)にくそをまらせる時に、
「この家内(やうち)は金持ちになれ」とゆんぐとぅした(呪言をとなえた)ところが、その犬ぐゎがちゃっきり、たっきりとそんな(一切れ、蓋切れと そのようにつぎつぎと)くそをまったところが、それがみんな黄金のくそでもうその宿を貸した家の人は大金持ちになったそうな。
(日本昔話名彙「大年の客」)
語り手・大島本島・大島郡笠利町城間 前田セイチヨ 弘法大師
昔、女が地機(じばた)で布を織っていたら、弘法大師がみすぼらしい姿でいらっしゅって、
「お茶を一杯飲ませてくれないか」というと、
「水の出る所が遠くて汲んでこないとお茶をわかしてあげることができない」と、機からおりるのがおっくうだったのかもしれないが、そういったそうです。
「そうか、そんなに川が遠いのか、それならいい」といって、今度は隣りの家にいってまた、
「茶一杯飲まちくれぃれぃ(飲ませてくれ)」といったところが、
「はい」といって、
「水は遠くまでいかないと汲めないので、そこまでいって水を汲んできて、お茶をいれてあげますからここで休んでいてください」といって、水汲みにいった。
そして汲んできた水でお湯をわかし、お茶を入れてあげて、
「たばく、みしゃれい(たばこを、おのみなさい)」とすすめた。そしたら、みすぼらしいそのじいさんが、
「あなたの一番ほしいのは何か」とたずねたそうです。
「水が遠くて、雨の降る時など一番大変で、もう少し近かったらいいのにと思います」と女がいうと、
「そうか」といって、
「どこに井戸を掘ればいいか」といって、家相をみてから、
「よし、ここに水をこのんであげよう(井戸を設けてあげよう)」といって杖を立てたら、そこから水が吹き出てきたそうです。
語り手・大島本島・大島郡瀬戸内
(加計呂麻島)嘉入 田原ツネ
(『奄美諸島の昔話 日本の昔話7』監修:稲田浩二、編者:田畑英勝 日本放送出版協会 昭和49年)
今朝の父の一枚です(^^)v
ジョウビタキ♀がむこうを向いていたので、
こっちを見なさいというと少しだけ横顔を見せてくれたと話していました(*´▽`*)