年越し寒波のニュースを見ていると、今からゾクゾクする(^-^;
最近の気候は、急激に変化するように思うのは年のせいかな?
「年越し寒波が日本列島を直撃 大雪や猛吹雪、厳しい寒さに警戒を」(ウエザーニュース 12月27日)Eテレの地球ドラマチック「小さなバイオリニストたち~弦が奏でる未来への輝き~」
番組の中で、マリーロール・パラディさんの指導で子どもたちの表情が変わっていくのを見ていると素敵だなと思いました。
教師のアナイ・アヤチさんが語っていたのは
異なる文化を持った子どもたちに対して、
学校は、その文化を否定することなく、正しい価値を理解させる手助けをしなければなりません。
一番大変なのは、子どもが学校や社会のシステムと相いれないときです。
そうした子どもたちは、多くの場合、心ない言葉に傷ついています。
「お前の家族はダメだ。
お前の文化も考え方も、全て、ダメだ。
代わりに、学校が、知識や文化を授けよう」
そんな心ない言葉です。
小さい子どもにとって、大変な葛藤です。
自分が属しているのは、家族が学校か。
自分は、何者なのか。
音楽、そして、あらゆる芸術は、全てを超越するものだと思います。
それは、言葉も超越しています。
私たちが、どんな言語を話そうと、音楽は、世界共通です。
その意味で、バイオリンは、互いの違いを乗り越えるための強力なツールなんです。
今のところ再放送がないようです、残念…
平野敬一郎さんのTwitterに
前政権から現政権に至るまで、どうしても許せないことの一つは、彼らが「日本語」自体をメチャクチャに破壊し続けていること。
その深刻な影響が社会に蔓延している。
〝「虚偽答弁に定義なし」 加藤官房長官〟(毎日新聞 12月25日)
12月27日
将軍徳川家茂(いえもち)が軍艦翔鶴丸(しょうかくまる)に乗り大坂に向かった。 1863(文久3)年
この日、まだ十代の若い将軍であった家茂は、勝海舟(かつかいしゅう)が指揮する軍艦翔鶴丸にのりこみ、翌日大坂にむけて出帆した。
家茂はこの年の2月にも、3千人の軍勢をひきつれて初めて京都に出かけているが、その時は陸路で3週間もかかった。
しかしこの時は大しけにもかかわらず、十日余りで大坂に着いている。
荒れる航海のため、陸路に変えようとする声があがったが、家茂は「海上では軍艦奉行(ぶぎょう)の海舟に従え」と命じ、海舟は大得意であった。
将軍が京都に出かけるのは、家光(いえみつ)以来229年ぶりで、それだけ江戸幕府の力は弱まってきたのである。
家茂は、1865年に、長州藩との二度目の戦争を指揮するために三度大坂に出かけるが、翌年7月に脚気(かっけ)で死んだ。
まだ21歳であった。
現職の将軍が江戸をはなれて死んだのは、これが初めで最後のことである。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)
『幕末維新人物事典』より「徳川家茂」を転記しますφ(..)
この本、名前だけ知っている人物を調べると、さらに知りたくなる。
そして今の政治家と覚悟の違いを痛感します。
維新側にしろ幕府側にしろ命がけで役目を全うしようとしている。
確か、維新を名乗る大阪の知事も「命がけ」ということを言っていたけど…
命がけで働いているのは、医療従事者の皆さんです。
知事のTwitterに対して
盛田隆二さんのTwitterに(12月7日)
「維新は命がけで都構想をやって大将の首をとられた」
吉村知事、何言ってんだ?
橋下氏は市長時代「公立病院の看護師給与は高い」と批判し、二重行政のムダだと公的医療を縮小し続け、大阪の医療を崩壊の危機に招いた。
さらに「命がけで憲法9条の改正をやってくれ」?
コロナ禍に何血迷ってるんだ。
徳川家茂――とくがわ・いえもち
1846~1866(弘化3~慶応2)
■出身地=江戸(東京) ■徳川斉順 ■母=松平六郎右衛門晋の女
■幼名=菊千代 ■諱(いみな)=慶福 ■墓=東京都港区・増上寺
崩壊寸前の幕府で奮闘した十四代将軍
徳川家茂は弘化(こうか)3年(1846)閏(うるう)5月24日、紀州藩主・斉順(なりより)の長男として江戸・赤坂にあった紀州藩邸で生れた。
嘉永(かえい)2年(1849)数え年4歳で紀州55万石の藩主となり、2年ほど経(た)つと一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)に対抗する将軍継嗣(けいし)候補に引っぱり出された。
(『幕末維新人物事典』泉秀樹 講談社+α文庫 1997年)
安政(あんせい)5年(1858)6月、井伊直弼(いいなおすけ)の独裁的な決定によって、将軍後継者として江戸城に入り、13代将軍・家定(いえさだ)が死ぬと、同年10月25日には14代将軍に就任することになった。
わずか13歳であり、この少年将軍は日本が多事多難であった時代を懸命に生きようとした。
そして、条約調印と将軍継嗣問題の強引な処理に関して朝幕(ちょうばく)間に対立が生まれてきたため、これを融和(ゆうわ)する手立てとして公武合体(こうぶがったい)策が打ち上げられ、その一方策として幕府は孝明(こうめい)天皇の異母妹・和宮(かずのみや)を家茂夫人に降嫁(こうか)させてほしいと奏請(そうせい)し、曲折(きょくせつ)があったものの、文久(ぶんきゅう)2年(1862)には結婚が成立した。
いかにも政略結婚らしい政略結婚であったが、二人の仲はきわめて睦(むつ)まじかった。
翌文久3年(1863)3月、家茂は3代将軍・家光(いえみつ)の寛永上洛(かんえいじょうらく)以来、はじめて将軍として上洛し、二条城に入った。
家光は幕府政権の確立を内外に知らしめる意図をもって上洛したが、家茂は京都へ呼びつけられて、攘夷(じょうい)をおしつけられたのである。
家茂は攘夷祈願を行う孝明天皇にしたがって、大雨のなか賀茂(かも)神社に向かう途中、三条橋近くの河原の群衆のなかから「征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)!」という声を聞いた。
かたむいている幕府の代表者である家茂に対する野次であり、それは、山県小輔(こすけ<有朋(ありとも)>)や堀真五郎(ほりしんごろう)たちとともに行列を見物していた高杉晋作(たかすぎしんさく)が発した声だった。
天皇護衛の最高責任者として、家茂は馬上でこの声をどううけとめただろう。
幕府役人は声が発せられたほうを苦々しい顔でにらんで通りすぎたというが、おそらく家茂はこのときほど、将軍として無力であることを口惜しく実感した瞬間はなかっただろうと思われる。
また、天皇が祈願しているあいだ、家茂は雨に打たれながら庭に座っていなければならず、その姿を群衆がみつめていた。
朝廷の権威はいやがうえにも高まり、幕府の権威が失墜(しっつい)していることを、誰もが感じとった。
そして、ついには5月10日を攘夷期限とされてしまう結果を招いて、幕府は追いつめられていくことになる。
このあと家茂は京都から大坂へ行き、幕府軍艦順動丸にのって攘夷のために摂津(せっつ)近海を巡視したが、その4月23日に、勝海舟(かつかいしゅう)の意見を聞くことになった。
軍艦奉行並(ぶぎょうなみ<千石>)にとりたてられていた海舟は、順動丸に同乗して神戸沖にさしかかったころ「神戸海軍操練所(そうれんじょ)」の創設を訴えたのである。
海舟は海防のために海軍が大切であることを説(と)き、海軍基地、士官、海兵などを大至急養成しなければならないと具申(ぐしん)したのだ。
将軍近侍(きんじ)はこうした海舟の階級を飛び越えたやり方に反撥(はんぱつ)を示したが、家茂はその話をよく理解して、ただちに諸役(しょやく)に実行せよという命令を出した。
そして、この即断即決に驚いた海舟は「直(ただ)ちに英断あり」(『海舟日記』)と4月23日の日記に書いた。
家茂の英明(えいめい)さに驚いたのである。
海舟はまもなく神戸御操練局、造艦所御取建掛(がかり)ならびに摂津海防禦御用に任じられ、以後も家茂に海防の重要性を説きつづけた。
最終的には海舟は軍艦奉行、作業奉行格、諸大夫(しょだいぶ)である安房守(あわのかみ)に任じられ、3千石、役金250両を給せられることになった。
元治(げんじ)元年(1864)の禁門(きんもん)の変のあと、首謀者である長州藩を討つ第一次征長(せいちょう)の気運が高まったものの、長州は益田右衛門介(ますだうえもんのすけ)、国司信濃(くにししなの)、福原越後(ふくはらえちご)らに腹を切らせて恭順(きょうじゅん)の意をあらわし、ことなきを得た。
しかし、第二次征長の役(えき)となると、家茂は慶応(けいおう)元年(1865)5月に江戸を出発し、京都を経由して大坂城に入った。
そして、翌2年(1866)6月からはじまった長州軍との戦闘では幕軍が敗北し、家茂は苦境に立たされている状況下の慶応2年7月20日、大坂城で急死した。
21歳であったが、咽喉(のど)と胃腸、脚気(かっけ)を病んでいた。
おそらく強度のストレスによるものであっただろう。
昭和33年(1958)から35年にかけて東京・芝の増上寺(ぞうじょうじ)で将軍家の墓が改葬(かいそう)されたが、そのとき和宮の白骨化した遺体の胸の上に、長袴(ながばかま)の直垂(ひたたれ)に立烏帽子(たてえぼし)をかぶった青年の湿板(しっぱん)写真がのせてあった。
家茂の写真であったと思われるが、この映像は土中から掘り出されて新しい空気にふれたため、まもなく急激な酸化によって映像が消えてしまった。
また、三重構造になっている棺からは刀、寒暖計、ロンドン製の懐中(かいちゅう)時計などとともに二束の長い髪が出てきた。
一束は和宮の髪で、皇女であることから勅許(ちょっきょ)なしで髪を切ることができないので、かねてからとってあった抜け毛をたばねたものであり、毛にはすべて毛根がついていた。
またもう一つの髪束は家茂が大坂へ向う前日に、和宮が侍女のなかから選んで家茂に妾として献上(けんじょう)したてふ(ちょう=蝶?)という女のものである。
てふは江戸から大坂へ随従(ずいじゅう)し、家茂の最期をみとったといわれる。
また、家茂は甘いものが大好きで、上下の歯のほとんどが虫歯であったというから、胃腸障害の原因はそこにもあったと考えられる。
江戸開城の前、海舟は命がけで西郷隆盛と交渉を進めたが、みずからを引き立ててくれた家茂へのせめてもの恩返しに和宮(静寛院宮<せいかんいんのみや>)を守ろうとしたのである。
いずれにしても家茂は、誰が将軍になってもどうすることもできない時期に将軍にすえられて誠実にその役割を果たそうとした。
温厚で責任感の強い人物であったという。
(『幕末維新人物事典』泉秀樹 講談社+α文庫 1997年)
「静寛院和宮奉讃法要(せいかんいんかずのみやほうさんほうよう)」(大本山増上寺)