昨日、奈良県で初霜が観測されたそうです。
例年より28日遅い観測だそうです。
来週は、冷え込みそうですので大阪でも霜が降りるかな?
「11日も晴れ間見られる」(えりの気象日記 12月10日)顔見知りのご夫婦と出会ったので、メジロなどが水浴びに来ますよと手水を教えてあげると
たまにしか出会えないのに、メジロがやって来ました(^^)v
ご夫婦とそのお友達が喜んで見ておられました。今朝のあさイチ「プレミアムトーク 室井滋」を録画して見ていると
映画「大コメ騒動」が紹介されていました。
来年1月8日から上映のようです。
新型コロナがなければ見に行きたいけどなぁ(T_T) 高須力弥さんのTwitterで知ったのだけど
「吉村洋文知事が医療崩壊、自衛隊派遣の責任問われまたゴマカシ詐術! 今度はありもしない自衛隊批判をでっちあげる卑劣」 (LITERA 12月10日)より
知事で検索するとこんなTwitterがヒットしました
関西の昼のワイドショーなどを見ていないので知らなかったのだけど
み――こさんのTwitter
吉村知事
「重症病床は215床まで増やす」
夏にはこんなこと言ってたんや…。
テレビの発言も言いっぱなしで検証されないから楽よね。
(テレビの画像)
このニュースも気になりますね!
まだまだ当初の見積もりより増えていくと思う!
「大阪・関西万博 会場建設費 最大1850億円 見込みより600億円増」(NHK)
12月11日
山城国一揆(やましろのくにいっき)が畠山(はたけやま)氏の勢力を退けた。 1485(文明<ぶんめい>17)年
応仁(おうにん)の乱の原因の一つとなった畠山政長(まさなが)と義就(よしなり)の争いは、いぜんやまず、南山城(みなみやましろ)方面で激しい戦いを続けていた。
寺社や民家が焼き払われ、人々の苦しみはたえがたかった。
この日宇治(うじ)川の南の綴喜(つづき)・相楽(そうらく)の二郡を中心とした国人(こくじん)が集会をもち、農民たちも別に独自の集会を開き、両畠山軍の国内からの退去を要求し、それを実現した。
国人は三十六人衆を中心とする国一揆を結成し、翌年2月の宇治の平等院で会合を開き、南山城を一つの「国」として、自治をおこなうための掟法(じょうほう)を定め、農民の要求を一部認めつつ8年間も支配を続けた。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)
応仁の乱はどうも分かりずらいのですが、『応仁の乱』より「山城国一揆の蜂起」を転記しますφ(..)
ちなみにこの本も難しいのですが、こうして転記することで少し、頭に残ります(^^ゞ
第7章 乱後の室町幕府
2 細川政元と山城国一揆
山城国一揆の蜂起
文明17年(1485)7月、畠山義就(よしひろ)の命を受けて南山城に駐留していた斎藤彦次郎(ひこじろう)が突如離反し、政長方に転じた(「大乗院寺社雑事記(だいじょういんじしゃぞうじき)」「後法興院記(ごほうこういんき)」)。
この突然の造反劇の原因は不明だが、川岡勉氏が指摘するように、南山城の支配をめぐって畠山義就と斎藤彦次郎との間で対立があったと推測される。
(『応仁の乱』呉座勇一 中公新書 2016年)
当初、侵略者として山城国に進攻した畠山義就であったが、南山城を制圧すると、地元の支持を得るため、占領行政に意を払うようになった。
義就は寺社本所領の保護を謳(うた)い、3人の奉行を任命した。
だがこの政策は、現地荘園からの収奪によって戦費を賄ってきた斎藤彦次郎には容認できるものではなかった。
幕府は彦次郎の帰参に対し、義就方が押さえている南山城の寺社本所領を給付するという措置で報いている。
畠山政長はこの機を逃さず、大攻勢に転じた。
政長方として逼塞(ひっそく)していた筒井順尊(じゅんそん)ら大和の牢人衆も南山城の出陣し、10月14日に光明山(こうみょうせん<現在の京都府木津川市山城町綺田に所在)の辺りに布陣した。
斎藤彦次郎もこれに呼応して宇治から南下し、義就方の城を攻め始めた。
義就方の古市氏も全軍を挙げて出陣した。
当主の古市澄胤(ちょういん)のみならず隠居の胤栄(いんえい)も出陣すると聞いた尋尊(じんそん)は、奈良防衛が手薄になることを心配して慰留したが、古市氏はこれを振り切って出陣した。
政長方の斎藤・筒井・十市らの軍勢1500に対し、義就の重臣である誉田正康(こんだまさやす)率いる河内勢が700、古市勢が300と、義就方は劣勢であった。
そこで誉田・古市は越智に援軍を要請し、越智家栄(いえひで)の息子である家令(いえのり)が出陣した(「大乗院寺社雑事記」)。
両軍は久世・綴喜の郡境を挟んで対陣した。
双方が総力を結集したため、互いに迂闊(うかつ)に動けず、睨(にら)み合いが続いた。
京都での応仁の乱を彷彿(ほうふつ)とさせる。
古市澄胤が春日社の神事を勤めるため大和に帰ろうとしたところ、戦力低下を恐れた誉田に引き止められたという。
これを耳にした尋尊は「いずれ神罰が下さるだろう」と憤慨している。
決定的な勝機を見いだせないまま、両軍は無為に滞陣を続けた。
両軍があちこちに関所を立てて検問を行うので京都と奈良の交通は遮断され、両軍による荘園侵略(人夫・物資の徴発)も激化した。
尋尊は「細川政元が山城守護に任命された」という噂を書き留めているが、そこには尋尊の期待も含まれていただろう。
最大の軍事力を擁し山城にも強い影響力を持つ政元が事態を収拾するという解決策は、最も現実的な選択肢だった。 しかし局面を打開したのは、細川政元ではなく、南山城の国人(地元武士)たちだった。
12月、彼らは「国一揆」を結成し、両畠山軍に撤退要求を突きつけた。
要求を受け入れない側を攻撃すると国一揆が圧力をかけたため、両軍はやむなく撤兵に応じた(「後法興院記」)。
有名な「山城国一揆」である。
たとえるならば、スイスの「武装中立」のようなものだろうか。 両軍の長陣は南山城に荘園を持つ興福寺・石清水八幡宮などの荘園領主だけでなく、山城の国人たちにとっても甚だ迷惑なことであった。
彼らは両畠山の進駐により否応なく合戦に巻き込まれたのであり、積極的に戦う意思はなかった。
両軍の主力は河内・大和・伊賀など他国の武士であり、自分たちの所領が他国勢に踏み荒らされていく状況を苦々しく見ていた。
狛(こま)氏や水主(みずし)氏など、自らの居城を奪われた山城国人も少なくなかった。
国一揆が掲げた主な政策は、
①両畠山軍の山城再侵略の禁止、
②寺社本所領の回復、
③新関(新しい関所)設置の禁止、
の3点であった。
尋尊の後継者である政覚(せいかく)は②を聞いて喜んでいる(「政覚大僧正記」)。
尋尊も基本的には歓迎したが、南山城の国人たちが一揆を結んで両畠山を追い出すという「下剋上」については複雑な思いで見つめていた。
身分秩序を重んじる尋尊にとって、手放しで支持できる結果ではなかったのである。
実際、国一揆が寺社本所領の復活を宣言したのは、寺社本所のめを思ってのことではかった。
彼ら山城国人の言う寺社本所領の回復とは、具体的には大和の衆徒・国民など「他国輩(ともがら)」を荘園の代官に任命しない、ということであった(「狛野荘加地子(かじし)方納帳(のうちょう)」)。
両畠山軍が南山城の進出さいた際、彼らは諸荘園の代官を力ずくで就任し、年貢などを〝合法的に〟徴収した。
こうした侵略者たちを追放して寺社本所の「直務(じきむ)」に戻すというのが国一揆の方針であったが、この時代、直務支配は極めて困難であった。
いったんは直務支配を行なったところで、結局は山城国人たちを代官に任用する形に落ち着くケースが大半であろう。
現に山城国一揆メンバーの狛氏は、翌文明18年には興福寺領狛野荘の代官就任を希望し、直務にこだわる尋尊と衝突している。
だから山城国一揆の寺社本所領回復政策は、足利義政(よしまさ)の寺社本所領返還政策と同じで、自分たちの利権拡大を真の目的としていたのである。
文明18年2月、山城国人は宇治の平等院で会議を開き、「国中掟法(くにじゅうおきて)」を制定した(「大乗院寺社雑事記」)。
以後、南山城の国人たちによる自治が行なわれた。
この自治のための機関は「惣国(そうこく)」と呼ばれた。
これに対し足利義政は伊勢貞陸(さだみち<貞宗の嫡子>)を山城守護に任命し、あくまで幕府による山城直轄支配を進める意思を示した(「大乗院寺社雑事記」)。 だが「惣国」を武力弾圧するという強硬策は採らず、国人たちによる自治を事実上黙認した。
これまで南山城は畠山義就の軍事制圧によって幕府の支配から離脱していたので、義就の撤兵を〝改善〟と判断したのだろう。
南山城「惣国」メンバーの進藤(しんどう)氏は伊勢氏の家臣であり、幕府は進藤氏を通じて南山城「惣国」に働きかけることが可能になった。
また義就軍の南山城撤収が契機となり、同年3月には足利義政・義尚(よしひさ)の両人が畠山義就の赦免を決定した(「大乗院寺社雑事記」「後法興院記」「長興宿禰記(ながおきすくねき)」)。
応仁の乱勃発からおよそ20年、義就はついに罪を許されたのであった。
ここに応仁の乱の戦後処理は完了した。
乱後の幕府は衰退する一方であったと思われがちだが、少なくとも畿内(山城・大和・河内・和泉・摂津)においては、それなりの政治的安定を実現したことを見落としてはならない。
(『応仁の乱』呉座勇一 中公新書 2016年)
今朝の父の一枚です(^^)v
ジョウビタキ♀を私よりもきれいに撮っていました。
父の心配は、故郷のこと。
親戚に電話した時に、詳しいことは分からないのですが、東京からの訪問者が感染していたという話でした。
ここ数日で一気に感染拡大しています。
「徳之島で医療ひっ迫 影響広がる」(鹿児島NHK 12月10日)
高須力弥さんが紹介している記事は、11月25日の記事ですが
まさのここに書かれている状況になっています。
「GoToなど正気の沙汰ではない。GoTo禍という別の災害だ。」(日本経済のこれから)
12月11日
山城国一揆(やましろのくにいっき)が畠山(はたけやま)氏の勢力を退けた。 1485(文明<ぶんめい>17)年
応仁(おうにん)の乱の原因の一つとなった畠山政長(まさなが)と義就(よしなり)の争いは、いぜんやまず、南山城(みなみやましろ)方面で激しい戦いを続けていた。
寺社や民家が焼き払われ、人々の苦しみはたえがたかった。
この日宇治(うじ)川の南の綴喜(つづき)・相楽(そうらく)の二郡を中心とした国人(こくじん)が集会をもち、農民たちも別に独自の集会を開き、両畠山軍の国内からの退去を要求し、それを実現した。
国人は三十六人衆を中心とする国一揆を結成し、翌年2月の宇治の平等院で会合を開き、南山城を一つの「国」として、自治をおこなうための掟法(じょうほう)を定め、農民の要求を一部認めつつ8年間も支配を続けた。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)
応仁の乱はどうも分かりずらいのですが、『応仁の乱』より「山城国一揆の蜂起」を転記しますφ(..)
ちなみにこの本も難しいのですが、こうして転記することで少し、頭に残ります(^^ゞ
第7章 乱後の室町幕府
2 細川政元と山城国一揆
山城国一揆の蜂起
文明17年(1485)7月、畠山義就(よしひろ)の命を受けて南山城に駐留していた斎藤彦次郎(ひこじろう)が突如離反し、政長方に転じた(「大乗院寺社雑事記(だいじょういんじしゃぞうじき)」「後法興院記(ごほうこういんき)」)。
この突然の造反劇の原因は不明だが、川岡勉氏が指摘するように、南山城の支配をめぐって畠山義就と斎藤彦次郎との間で対立があったと推測される。
(『応仁の乱』呉座勇一 中公新書 2016年)
当初、侵略者として山城国に進攻した畠山義就であったが、南山城を制圧すると、地元の支持を得るため、占領行政に意を払うようになった。
義就は寺社本所領の保護を謳(うた)い、3人の奉行を任命した。
だがこの政策は、現地荘園からの収奪によって戦費を賄ってきた斎藤彦次郎には容認できるものではなかった。
幕府は彦次郎の帰参に対し、義就方が押さえている南山城の寺社本所領を給付するという措置で報いている。
畠山政長はこの機を逃さず、大攻勢に転じた。
政長方として逼塞(ひっそく)していた筒井順尊(じゅんそん)ら大和の牢人衆も南山城の出陣し、10月14日に光明山(こうみょうせん<現在の京都府木津川市山城町綺田に所在)の辺りに布陣した。
斎藤彦次郎もこれに呼応して宇治から南下し、義就方の城を攻め始めた。
義就方の古市氏も全軍を挙げて出陣した。
当主の古市澄胤(ちょういん)のみならず隠居の胤栄(いんえい)も出陣すると聞いた尋尊(じんそん)は、奈良防衛が手薄になることを心配して慰留したが、古市氏はこれを振り切って出陣した。
政長方の斎藤・筒井・十市らの軍勢1500に対し、義就の重臣である誉田正康(こんだまさやす)率いる河内勢が700、古市勢が300と、義就方は劣勢であった。
そこで誉田・古市は越智に援軍を要請し、越智家栄(いえひで)の息子である家令(いえのり)が出陣した(「大乗院寺社雑事記」)。
両軍は久世・綴喜の郡境を挟んで対陣した。
双方が総力を結集したため、互いに迂闊(うかつ)に動けず、睨(にら)み合いが続いた。
京都での応仁の乱を彷彿(ほうふつ)とさせる。
古市澄胤が春日社の神事を勤めるため大和に帰ろうとしたところ、戦力低下を恐れた誉田に引き止められたという。
これを耳にした尋尊は「いずれ神罰が下さるだろう」と憤慨している。
決定的な勝機を見いだせないまま、両軍は無為に滞陣を続けた。
両軍があちこちに関所を立てて検問を行うので京都と奈良の交通は遮断され、両軍による荘園侵略(人夫・物資の徴発)も激化した。
尋尊は「細川政元が山城守護に任命された」という噂を書き留めているが、そこには尋尊の期待も含まれていただろう。
最大の軍事力を擁し山城にも強い影響力を持つ政元が事態を収拾するという解決策は、最も現実的な選択肢だった。 しかし局面を打開したのは、細川政元ではなく、南山城の国人(地元武士)たちだった。
12月、彼らは「国一揆」を結成し、両畠山軍に撤退要求を突きつけた。
要求を受け入れない側を攻撃すると国一揆が圧力をかけたため、両軍はやむなく撤兵に応じた(「後法興院記」)。
有名な「山城国一揆」である。
たとえるならば、スイスの「武装中立」のようなものだろうか。 両軍の長陣は南山城に荘園を持つ興福寺・石清水八幡宮などの荘園領主だけでなく、山城の国人たちにとっても甚だ迷惑なことであった。
彼らは両畠山の進駐により否応なく合戦に巻き込まれたのであり、積極的に戦う意思はなかった。
両軍の主力は河内・大和・伊賀など他国の武士であり、自分たちの所領が他国勢に踏み荒らされていく状況を苦々しく見ていた。
狛(こま)氏や水主(みずし)氏など、自らの居城を奪われた山城国人も少なくなかった。
国一揆が掲げた主な政策は、
①両畠山軍の山城再侵略の禁止、
②寺社本所領の回復、
③新関(新しい関所)設置の禁止、
の3点であった。
尋尊の後継者である政覚(せいかく)は②を聞いて喜んでいる(「政覚大僧正記」)。
尋尊も基本的には歓迎したが、南山城の国人たちが一揆を結んで両畠山を追い出すという「下剋上」については複雑な思いで見つめていた。
身分秩序を重んじる尋尊にとって、手放しで支持できる結果ではなかったのである。
実際、国一揆が寺社本所領の復活を宣言したのは、寺社本所のめを思ってのことではかった。
彼ら山城国人の言う寺社本所領の回復とは、具体的には大和の衆徒・国民など「他国輩(ともがら)」を荘園の代官に任命しない、ということであった(「狛野荘加地子(かじし)方納帳(のうちょう)」)。
両畠山軍が南山城の進出さいた際、彼らは諸荘園の代官を力ずくで就任し、年貢などを〝合法的に〟徴収した。
こうした侵略者たちを追放して寺社本所の「直務(じきむ)」に戻すというのが国一揆の方針であったが、この時代、直務支配は極めて困難であった。
いったんは直務支配を行なったところで、結局は山城国人たちを代官に任用する形に落ち着くケースが大半であろう。
現に山城国一揆メンバーの狛氏は、翌文明18年には興福寺領狛野荘の代官就任を希望し、直務にこだわる尋尊と衝突している。
だから山城国一揆の寺社本所領回復政策は、足利義政(よしまさ)の寺社本所領返還政策と同じで、自分たちの利権拡大を真の目的としていたのである。
文明18年2月、山城国人は宇治の平等院で会議を開き、「国中掟法(くにじゅうおきて)」を制定した(「大乗院寺社雑事記」)。
以後、南山城の国人たちによる自治が行なわれた。
この自治のための機関は「惣国(そうこく)」と呼ばれた。
これに対し足利義政は伊勢貞陸(さだみち<貞宗の嫡子>)を山城守護に任命し、あくまで幕府による山城直轄支配を進める意思を示した(「大乗院寺社雑事記」)。 だが「惣国」を武力弾圧するという強硬策は採らず、国人たちによる自治を事実上黙認した。
これまで南山城は畠山義就の軍事制圧によって幕府の支配から離脱していたので、義就の撤兵を〝改善〟と判断したのだろう。
南山城「惣国」メンバーの進藤(しんどう)氏は伊勢氏の家臣であり、幕府は進藤氏を通じて南山城「惣国」に働きかけることが可能になった。
また義就軍の南山城撤収が契機となり、同年3月には足利義政・義尚(よしひさ)の両人が畠山義就の赦免を決定した(「大乗院寺社雑事記」「後法興院記」「長興宿禰記(ながおきすくねき)」)。
応仁の乱勃発からおよそ20年、義就はついに罪を許されたのであった。
ここに応仁の乱の戦後処理は完了した。
乱後の幕府は衰退する一方であったと思われがちだが、少なくとも畿内(山城・大和・河内・和泉・摂津)においては、それなりの政治的安定を実現したことを見落としてはならない。
(『応仁の乱』呉座勇一 中公新書 2016年)
今朝の父の一枚です(^^)v
ジョウビタキ♀を私よりもきれいに撮っていました。
父の心配は、故郷のこと。
親戚に電話した時に、詳しいことは分からないのですが、東京からの訪問者が感染していたという話でした。
ここ数日で一気に感染拡大しています。
「徳之島で医療ひっ迫 影響広がる」(鹿児島NHK 12月10日)
高須力弥さんが紹介している記事は、11月25日の記事ですが
まさのここに書かれている状況になっています。
「GoToなど正気の沙汰ではない。GoTo禍という別の災害だ。」(日本経済のこれから)