そのつもりで出かけると、北風が吹かなかったので途中で、一枚脱ぎました。
「8日は近畿北部 すっきりしない天気」(えりの気象日記 12月7日)「シリーズ戦後75年 マルレ 秘密特攻隊 出動せよ」(NNNドキュメント)
小型艇で特攻をしたのは知っていましたが、その実態を番組で初めて知りました。
そして、原爆投下直後に救助に向かい、被爆していること。
陸軍の戦死者
㋹(マルレ) 1793人(戦友会誌『㋹の戦史』)
航空特攻隊 1438人(特攻隊戦没者慰霊顕彰会)
番組の最後に第45戦隊元特攻兵の小島六雄さん(97歳)が語っていたのは
戦争によって事を解決しようというのは、人間として最低ですよ。
どんなことがあっても避けなければならない。
どんなことがあっても。
いつも思う、計画し、命令した人間は、のうのうと生き残っている。
1941(昭和16)年12月8日 太平洋戦争が始まった。
「太平洋戦争」(中学・高校)
『天皇の歴史8 昭和天皇と戦争の世紀』より「どのような戦争であったのか」を転記しますφ(..)
著者の加藤陽子さんは、任命拒否されましたが、加藤さんほどわかりやすく語ってくれる方はいません。
政府が穏健的な学者を狙って気に入らない学者を排除したことは、次に何を狙っているのか
中国政府の弾圧を真似ようとしているし
戦前、憲法学者の美濃部達吉や刑法学者の瀧川幸辰への攻撃・排除を思い出します。
〝美濃部達吉の手紙見つかる 「天皇機関説問題」で迫害 愛媛〟(NHK 11月14日)
第4章 大陸と太平洋を敵として
3 太平洋戦争とその特質
どのような戦争であったのか
「物質的にも道徳的にも、実際にいつまでも戦争を続けることができる」とマックス・ヴェーバーに言わしめた国、アメリカ、このような国と日本はなぜ戦うことになったのだろうか。
1940年(昭和15)9月27日、日独伊三国軍事同盟を締結する頃の日本とドイツは、海洋におけるそれまでの英米優位に対し、初めて脅威を与えうる存在となっていた。
それまで日本陸軍は中国、そしてドイツ陸軍は、41年6月からソ連に対して戦うこととなるが、中国軍とソ連軍は、ともに退却に適した広大な大陸後背地をもっていた。
(『天皇の歴史8 昭和天皇と戦争の世紀』加藤陽子 講談社学術文庫 2018年)
中国とソ連を支える英米にとって死活的に重要であったのは、物資を運ぶ生命線をいかに維持するが、という点であった。
ドイツの軍事史家ザンダー=ナガシマ氏が的確に表現したように、海洋での支配をめぐる日独と英米との争いこそが、世界大戦の帰趨を決める要因であった。
「いつまでも戦争を続けることができる国」であったも、二つの大陸への補給を滞りなく進めるのは、困難をともなったことだろう。
実際、米陸軍公刊戦史のうち「中国・ビルマ・インド地域での戦闘」の章を読めば、43年末段階で英米を困却させていた問題が中国軍の軍事的劣勢ではなく、月に2万トンを要する中国への補給確保の点にあったとわかる。
中国軍を北ビルマで戦わせるには、アメリカもまた補給という点で苦労を重ねていた。
ならば、この点、補給の生命線維持のための、石油と船腹(せんぷく)問題の予測と判断こそが、開戦を前にしたとき、最も周到な検討が加えられてしかるべきであったろう。陸軍の戦死者
㋹(マルレ) 1793人(戦友会誌『㋹の戦史』)
航空特攻隊 1438人(特攻隊戦没者慰霊顕彰会)
番組の最後に第45戦隊元特攻兵の小島六雄さん(97歳)が語っていたのは
戦争によって事を解決しようというのは、人間として最低ですよ。
どんなことがあっても避けなければならない。
どんなことがあっても。
いつも思う、計画し、命令した人間は、のうのうと生き残っている。
1941(昭和16)年12月8日 太平洋戦争が始まった。
「太平洋戦争」(中学・高校)
『天皇の歴史8 昭和天皇と戦争の世紀』より「どのような戦争であったのか」を転記しますφ(..)
著者の加藤陽子さんは、任命拒否されましたが、加藤さんほどわかりやすく語ってくれる方はいません。
政府が穏健的な学者を狙って気に入らない学者を排除したことは、次に何を狙っているのか
中国政府の弾圧を真似ようとしているし
戦前、憲法学者の美濃部達吉や刑法学者の瀧川幸辰への攻撃・排除を思い出します。
〝美濃部達吉の手紙見つかる 「天皇機関説問題」で迫害 愛媛〟(NHK 11月14日)
第4章 大陸と太平洋を敵として
3 太平洋戦争とその特質
どのような戦争であったのか
「物質的にも道徳的にも、実際にいつまでも戦争を続けることができる」とマックス・ヴェーバーに言わしめた国、アメリカ、このような国と日本はなぜ戦うことになったのだろうか。
1940年(昭和15)9月27日、日独伊三国軍事同盟を締結する頃の日本とドイツは、海洋におけるそれまでの英米優位に対し、初めて脅威を与えうる存在となっていた。
それまで日本陸軍は中国、そしてドイツ陸軍は、41年6月からソ連に対して戦うこととなるが、中国軍とソ連軍は、ともに退却に適した広大な大陸後背地をもっていた。
(『天皇の歴史8 昭和天皇と戦争の世紀』加藤陽子 講談社学術文庫 2018年)
中国とソ連を支える英米にとって死活的に重要であったのは、物資を運ぶ生命線をいかに維持するが、という点であった。
ドイツの軍事史家ザンダー=ナガシマ氏が的確に表現したように、海洋での支配をめぐる日独と英米との争いこそが、世界大戦の帰趨を決める要因であった。
「いつまでも戦争を続けることができる国」であったも、二つの大陸への補給を滞りなく進めるのは、困難をともなったことだろう。
実際、米陸軍公刊戦史のうち「中国・ビルマ・インド地域での戦闘」の章を読めば、43年末段階で英米を困却させていた問題が中国軍の軍事的劣勢ではなく、月に2万トンを要する中国への補給確保の点にあったとわかる。
中国軍を北ビルマで戦わせるには、アメリカもまた補給という点で苦労を重ねていた。
アメリカ合衆国戦略爆撃調査団・石油・化学部報告などが明らかにしているように、41年段階で日本の油田は約194万バーレルの原油を産出したが、同時期のアメリカは約14億378万バーレル〔1バーレルは約159リットル〕、すなわち日本の712倍を産していた。
山田朗氏が算定した他の指標もここで挙げておけば、41年の時点で、国民総生産でアメリカは日本の11.83倍、工業生産力の目安となる粗鋼生産力で12.11倍、自動車保有台数では160.80倍あった。
このような石油資源のあまりにも大きな格差を前提に考えてしまうと、アメリカにとっての弱点もまた石油と船腹にあった、との原点に気づきにくい。
だが当時にあって、アメリカをもってしても、石油と船腹は依然として問題であるはずだと気づいていた人間はいた。
その一人に、国際石油資本の動向についての研究がある東大経済学部教授脇村義太郎(わきむらよしたろう)がいる。
陸軍の秋丸次朗(あきまるじろう)機関の要請で脇村は、有沢広巳(ありさわひろみ)教授などとともに、戦争の経済的側面にちての研究調査に協力し、41年7月2日、参謀総長杉山元(すぎやまげん)の前でなされた報告「英米合作経済抗戦力調査」の作成に従事していた。
脇村は、「私はアメリカの弱点はやはり石油と船にあったと思うのです」と戦後に回想する。
脇村は「そこで問題は、生産された軍需品を東洋戦線、ヨーロッパ戦線へ送られるかどうかということに関わるわけですが、これは結局、〔アメリカにおける〕船の生産がどれくらい出来るかという一点にかかる」と核心を衝いていた。
「英米合作経済抗戦力調査」で、英米の造船予想について担当したのは、後に日本郵船の社長となる市原章則であり、そこで市原は、イギリス船舶を月平均50万トン以上撃沈すれば、アメリカの対英援助を無効にできる、なぜなら、英米を合せた造船能力は43年において年600万トンを超えることはあるまい、との判断を下していた。
開戦前夜、学者や斯界(しかい)の専門家を動員し、機密のデーターも提供し、率直かつ正確な数値を予測したとされる秋丸機関による見通した判断でさえ、このような数値予測をおこなっていた。
実際はどうだったか。
戦時中にアメリカは、船舶の溶接技術を飛躍的に高め、その造船能力は、一国で1800万トンまで達していたのである。
脇村は当時にあって、日本が石油備蓄を費消しつつ南方油田を占領して石油を日本に運ぶには、最低200万トンのタンカーが必要と試算していた。
しかし、日本海軍は、約60万トンのタンカー船腹のみで開戦に踏み切ってしまった。
軍とて、艦隊に補給するタンカーや占領地域から内地への輸送用タンカーの船腹については想定していたが、拡大するはずの太平洋戦線の諸基地への供給に必要となるはずのタンカーの需要は考慮されていなかった。
海軍は、オランダ領東インドなどの産油地帯と日本を結びつける海域を防衛することで石油供給のバランスは保ちうるとの見通しを持っていた。60万トン分のタンカーといえば一見十分な数値に思えるが、戦前期においてさえ年間3000万バーレル強を輸入していた日本であれば、まさに脇村の試算にあったような多量のタンカーが本来は必要とされた。
日本ができたことは、43年11月までに、タンカーの船腹を83万4000トンまで上げたことだけであった。
開戦前、41年6月5日付の海軍第二委員会作成の「現情勢下に於て帝国海軍の執るべき態度」は、燃料問題について、南方から獲得されるはずの石油量の数値や表を挙げつつ分析を加え「之を要するに、燃料に関しては、作戦上相当の自信を以て対処し得べき結論に達せり」と述べる。
(『天皇の歴史8 昭和天皇と戦争の世紀』加藤陽子 講談社学術文庫 2018年)
「海運用語集 セ(船腹)」(トヨフジ海運)
Agnes Chow周庭さんのTwitterに Admin: 周庭の判決から4日目。 彼女はコロナ対策のために今は2人部屋に収容されています。 下記は、彼女からのメッセージです。 「今日までに、多くの方から関心と激励をいただきました。 多くの方が私に誕生日の祝福と平安と健康を願ってくれたことも聞きました。 皆さんの優しさをいただき、心から感謝しています。 水曜日に高等裁判所で保釈申請の審議があります。 保釈が認められ、自分で皆さんに直接ありがとうと伝えたいです。 判決当日、護送車を見送ってくれた多くの方々の姿を見て、とても感動しました(感動のあまり、隣のお婆さんによりかかって泣いてしまいました)。 護送車の周りで見送る方々が掲げていたサインボードの内容もはっきり見えました。 これまでに受け取った手紙が私を強く力付けてくれました。 外で多くの人が私を応援してくれている、それは私が乗り越えるための大きな力となっています。 いつも裁判を傍聴したり、激励の手紙を書いている皆さんが、刑務所にいる私以外の仲間達にも引き続き関心を持ってくださることを願っています。」 |
加藤陽子さんや他の任命拒否にあった方も同じだと思います。
そして忘れられないのは、ジョンレノンが暗殺された日。
「ジョン・レノン没40年 先進の音楽と男女の関係 先んじて見せた21世紀」(産経新聞 12月3日)
〝「イマジン」響く米国の街 今こそジョン・レノンが必要〟(朝日新聞 12月7日)
9.11テロの時にイマジンは、アメリカで放送自粛になったことを知り、アメリカでさえと思った。
今朝の父の一枚です(^^)v
朝食を食べている時に「戦争が始まった日だな…」
父は徳之島なので米軍の沖縄上陸作戦が始まる二、三日前に
沖縄周辺の海が黒くなっているのが見えたそうです。
大本営発表を信じていたので、帝国海軍の軍艦だと思っていたそうです。
ところがまもくな凄まじい艦砲射撃が始まり、米軍の軍艦だとわかった。
徳之島にも艦載機が来襲してきて機銃掃射などを行ったそうです。
祖母が仏壇の前で拝んでいて、頭を下げた時に機銃掃射の弾丸が仏壇を破壊したそうです。
頭を下げなかったら祖母は頭を打ち砕かれていた。
また、祖母たちが芋を蒸かしていた時に百人ほどの兵士がズラッと並び、芋などを無心したそうです。
将校などは食べ物に困ることはなかったようですが、下級の兵士は食べ物を村人に乞う状況だった。
その時の部隊は、広島の兵隊だったとか。
帰っても親兄弟が死んでいたのだろうなと話してました。