昨日と違うのは綿菓子がちぎれたような雲が浮かんでいました(巻雲)。
「2日は近畿北部も含めて晴れ間見られる」(えりの気象日記 12月1日)
藪の中を飛び回っていてハッキリと写せなかったのですが
地鳴きはチャッチャッという舌打ちのような声で「笹鳴き」と呼ばれる。
(『鳥のおもしろ私生活』ピッキオ編著 主婦と生活社 1997年)
「野鳥の鳴き声を楽しもう No2【ウグイス】」(日本野鳥の会 埼玉)
今朝の浮世絵EDO-LIFE
「こいつのおかげで大騒ぎ!“生捕りました三度の大地震”」
鯰絵が紹介されていました。
鹿島大明神に生け捕りにされた鯰を助けようとする男たちがいます。
何故、男たちは鯰を助けようとしたのか(*´▽`*)
「生捕りました三度の大地震」(兵庫県立人と自然の博物館)
「鯰絵コレクション」(国際日本文化研究センター)
岩波書店のTwitterに
【今日の名言】
たとい政治家が時と場所とをわきまえずに施政したために、いく千万の人間が禍いをこうむったとしても、その跡を吟味した学者は、きっとこう言うでしょう。
あれは、ああならざるを得ぬ理由があって、ああなったのだ、と。
――中江兆民『三酔人経綸問答』
Agnes Chow 周庭さんのTwitterに
Admin: 周庭判決 懲役10ヶ月 即時収監 上告申立て期間の保釈不可
法治国家なら無罪です。
12月2日
赤松遺臣が南朝末裔(まつえい)の手に落ちた神璽(しんじ)の奪回を計った。 1457(長禄<ちょうろく>元)年
南北朝の合体が行なわれてから50年もたった1443年、南朝の遺臣が皇居に侵入して、神璽(八坂瓊曲玉<やさかにのまがたま>)と宝剣を奪って逃げるという事件が起こった。
このとき剣はすぐ取りもどされたが、神璽はそれきりになって行方(ゆくえ)がわからなくなった。
それからまた14年も経ったこの日、嘉吉(かきつ)の乱で滅ぼされた赤松氏の遺臣中村貞友らが、吉野山中にひそんでいた南朝の皇孫を襲って神璽をとりもどした。
かれらはその手柄によって主家の再興をはかろうとしたのである。
ところが中村らは、すぐまた吉野の郷民(ごうみん)たちに逆襲されて殺され、神璽も奪回されてしまった。
南北朝後日談(ごじつだん)のこの事件は、両朝問題がいまだに政治的に利用されていたこと、また世の中が動揺していればいるほど、神璽のシンボル性が大きな意味をもっていたことを示している。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)
『日本の歴史11 太平記の時代』より「後南朝と王権の物語」を転記しますφ(..)
後南朝の影を幕末、明治、大正、昭和へとひきずることになります。
終章 南朝の行方――物語の場としての歴史
後南朝と王権の物語
南朝は北朝に吸収され、わずかに残っていた延臣たちのほとんどもその跡を消してしまった。
足利義満(あしかがよしみつ)の死後は公家の政務は天皇家の側に回収され、天皇の位が持明院統(じみょういんとう)に継承されることは、もはや自明の事実として京都の成り立ちに組み込まれた。
とはいえ、南朝の痕跡(こんせき)が全く失せてしまったわけではない。
中世後期には、京都を中心とする秩序への対抗の拠(よ)りどころとして、「南方末裔(まつえい)」がしばしば呼び出され、抵抗の旗印として掲げられることがあった。
研究者はそれを「後南朝(ごなんちょう)」と呼ぶ。
(『日本の歴史11 太平記の時代』新田一郎 講談社学術文庫 2009年)
後南朝の動きが表面化するのは、義満の死後、後亀山(ごかめやま)法皇が吉野に出奔している間の応永(おうえい)19年(1412)に、後小松(ごこまつ)天皇が皇子躬仁(みひと<称光(しょうこう)天皇>)に譲位してからのことである。
大覚寺統(だいかくじとう)の上皇の不在のうちに南北朝合一の際の条件を公然と反古(ほご)にして行なわれた新帝践祚(せんそ)に対して、旧南朝方であった伊勢国司(いせこくし)北畠満雅(きたばたけみつまさ)が応永21年に挙兵して抵抗の旗を掲げたのが、後南朝の活動の早い例である。
同じころに大和(やまと)・河内(かわち)方面では楠木(くすのき)某(正成<まさしげ>の一族であろう)が蜂起(ほうき)するなど、不穏な動きが各地に広がる兆しを警戒した幕府は、満雅と和睦(わぼく)する一方で、後亀山法皇の所領の回復を約束してその帰還を要請し、反乱の芽を摘み取ろうとした。
応永23年(1416)9月に後亀山法皇の帰還が実現したことによって事態はいったん鎮静するが、この後、ことあるごとに反幕府勢力の背後に後南朝の影がちらつき、幕府にとって悩みの種となるのである。
後亀山法皇の帰還直後の応永23年10月、関東では前関東管領(かんとうかんれい)上杉氏憲(うじのり<禅秀(ぜんしゅう)>)が鎌倉公方(かまくらくぼう)足利持氏(あしかがもちうじ)に叛旗(はんき)を翻した(上杉禅秀の乱)。
これはかって義満の寵愛(ちょうあい)を受けながら義満の急死の後は疎外されていた義嗣(よしつぐ)が関与しており、また後南朝勢力との連携も噂(うわさ)された。
義嗣はほどなく捕らえられて出家幽閉の後、殺害され、関東の乱もやがて鎮定されたが、禅秀方に加担した武士の処置などをめぐって今度は鎌倉公方持氏と幕府との間に疎隔を生じ、応永30年頃には持氏が満雅と組み「南方宮」を戴(いただ)いて挙兵する、との報が流れている。
病弱の称光天皇に皇子なく、弟の小川宮(おがわのみや)が急死したことによって持明院統の嫡系が断絶する可能性が高まっていた応永末年、武家方でも将軍義量(よしかず<義持(よしもち)の子>)が若年で死去し、後継将軍不在のまま前将軍義持が幕政を執っていたが、公家武家いずれも継嗣問題を抱えたこの時期、後南朝の活動がとみに活発になる。
応永32年(1425)7月に称光天皇が倒れた際には南朝方から皇位について「御所望(ごしょもう)」が示されたというが取り合われず、正長(しょうちょう)元年(1428)7月に称光天皇が没すると、後嗣には崇光(すこう)天皇の曾孫である伏見宮彦仁(ふしみのみやひこひと)王が立てられた(後花園<ごはなぞの>天皇)。
しかし、称光天皇の死の直前には、後亀山法皇の孫小倉宮聖承(せいしょう)が出奔し、これを伊勢に迎えた北畠満雅が挙兵しており、幕府の後嗣の座を窺(うかが)う足利持氏と連携が伝えられ、また在京の大名(たいめい)のうちにも応じる者ありと噂された。
称光天皇が没する半年ほど前には足利義持が後継者を定めずに死去し、後嗣には青蓮院(しょうれんいん)に入室していた弟の義円(ぎえん)が籤(くじ)で選ばれ、還俗(げんぞく)して義宣(よしのぶ)名乗った(後に義教<よしのり>と改名)。
京都の政情は一時的にきわめて不安定な状況にあったのである。
やや後の永享(えいきょう)9年(1437)に、大覚寺門主義昭(ぎしょう<義教の弟>)が逐電(ちくでん)した際にも、後南朝との連絡が噂され、さらに義教没後の嘉吉(かきつ)3年(1443)には「後鳥羽院後胤(こういん)」という源尊秀(みなもとのそんしゅう)と「南方護聖院宮(ごしょういんのみや)ノ子」である金蔵主(こんぞうす)・通蔵主(つうぞうす)兄弟、それに日野有光(ひのありみつ)・資親(すけちか)父子らが皇居に乱入し、神剣・神璽(しんじ)を奪取するという事件が起こった(禁闕<きんけつ>の変<へん>)。
比叡山に逃げ込もうとした一味は討たれ、神剣は奪還されたものの、神璽は14年後の長禄(ちょうろく)元年(1457)まで「南方」の手にとどめられる。
その間、文安(ぶんあん)元(1444)・同4年に紀伊(きい)国での「南方宮方」の挙兵が伝えられている。
また、応仁(おうにん)元年(1467)の応仁の乱の際には、山名持豊(やまなもちとよ<宗全(そうぜん)>)に率いられ足利義視(あしかがよしみ)を戴く西軍が、将軍足利義政(よしまさ)に加えて後土御門(ごつちみかど)天皇と後花園上皇を擁する細川勝元(ほそかわかつもと)の東軍に対抗するために、「南帝」(小倉宮の末裔)の擁立を構想している。
もちろん、これらの行動において、「南朝への忠節」は、抵抗の旗印として用いられたに過ぎない場合もあろう。
担ぎ出された「南方末裔」が本物か否かも、問題となる場合もあるだろう。
しかし、天皇・将軍を戴く京都の政権に対する抵抗が、しばしば後南朝という看板を掲げて試みられたことは確かである。
現に在る中心に対して抵抗の旗を掲げようとするときに、その拠りどころを求めて後南朝が呼び出されるという、いわば抵抗の作法の形成は、抵抗の旗印が天皇の周辺へと収斂(しゅうれん)してゆくことに結びついてゆく。
一方で、政治権力の中枢に在る室町幕府にとっても、抵抗を排して自らの正統性を根拠づけるうえで、天皇の存在が有用と認識されるようになる。
鎌倉公方足利持氏が幕府に叛した永享10年(1438)の永享の乱に際して、将軍足利義教は後花園天皇に綸旨(りんじ)の発給を求め、持氏を「朝敵」と名指しすることによって、追討の正統性を根拠づけようとした。
その義教が嘉吉元年(1441)に赤松満祐(あかまつみつすけ)の謀殺されて将軍不在となった際(嘉吉の乱)には、管領(かんれい)細川持之(ほそかわもちゆき)に充てて満祐の追討を命ずる綸旨が発給されている。
いずれの場合も、後南朝の影のさす中で求心力を維持すべく、政治行動を意味づけ荘厳(しょうごん)する物語が天皇に求められたのである。
かくして、天皇をめぐる物語の大きな構図が共有され、そのもとで歴史が展開してゆくことになる。
そこでは、「南朝対北朝」という対抗軸を持ち、人々の争いを「君ト君トノ御争(おんあらそい)ニナス」ことによって大義名分を掲げるという『太平記』の世界の構図が繰り返し再生され、歴史を形づくってゆく。
未然の可能性に終わった南朝の残影は、北朝を戴く現体制に影のようにつきまとい、その存立を映す鏡の役割を果たすことになる。
「王権」という言葉は、しばしば多様な意味に用いられ、ともすれば誤解曲解を招きかねない、まことに危うさを持った言葉だが、ここに生み出された、物語をまとった天皇の政治的な作用を捉えて「王権」と表現することは、誘惑的である。鯰絵が紹介されていました。
鹿島大明神に生け捕りにされた鯰を助けようとする男たちがいます。
何故、男たちは鯰を助けようとしたのか(*´▽`*)
「生捕りました三度の大地震」(兵庫県立人と自然の博物館)
「鯰絵コレクション」(国際日本文化研究センター)
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【今日の名言】
たとい政治家が時と場所とをわきまえずに施政したために、いく千万の人間が禍いをこうむったとしても、その跡を吟味した学者は、きっとこう言うでしょう。
あれは、ああならざるを得ぬ理由があって、ああなったのだ、と。
――中江兆民『三酔人経綸問答』
Agnes Chow 周庭さんのTwitterに
Admin: 周庭判決 懲役10ヶ月 即時収監 上告申立て期間の保釈不可
法治国家なら無罪です。
12月2日
赤松遺臣が南朝末裔(まつえい)の手に落ちた神璽(しんじ)の奪回を計った。 1457(長禄<ちょうろく>元)年
南北朝の合体が行なわれてから50年もたった1443年、南朝の遺臣が皇居に侵入して、神璽(八坂瓊曲玉<やさかにのまがたま>)と宝剣を奪って逃げるという事件が起こった。
このとき剣はすぐ取りもどされたが、神璽はそれきりになって行方(ゆくえ)がわからなくなった。
それからまた14年も経ったこの日、嘉吉(かきつ)の乱で滅ぼされた赤松氏の遺臣中村貞友らが、吉野山中にひそんでいた南朝の皇孫を襲って神璽をとりもどした。
かれらはその手柄によって主家の再興をはかろうとしたのである。
ところが中村らは、すぐまた吉野の郷民(ごうみん)たちに逆襲されて殺され、神璽も奪回されてしまった。
南北朝後日談(ごじつだん)のこの事件は、両朝問題がいまだに政治的に利用されていたこと、また世の中が動揺していればいるほど、神璽のシンボル性が大きな意味をもっていたことを示している。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)
『日本の歴史11 太平記の時代』より「後南朝と王権の物語」を転記しますφ(..)
後南朝の影を幕末、明治、大正、昭和へとひきずることになります。
終章 南朝の行方――物語の場としての歴史
後南朝と王権の物語
南朝は北朝に吸収され、わずかに残っていた延臣たちのほとんどもその跡を消してしまった。
足利義満(あしかがよしみつ)の死後は公家の政務は天皇家の側に回収され、天皇の位が持明院統(じみょういんとう)に継承されることは、もはや自明の事実として京都の成り立ちに組み込まれた。
とはいえ、南朝の痕跡(こんせき)が全く失せてしまったわけではない。
中世後期には、京都を中心とする秩序への対抗の拠(よ)りどころとして、「南方末裔(まつえい)」がしばしば呼び出され、抵抗の旗印として掲げられることがあった。
研究者はそれを「後南朝(ごなんちょう)」と呼ぶ。
(『日本の歴史11 太平記の時代』新田一郎 講談社学術文庫 2009年)
後南朝の動きが表面化するのは、義満の死後、後亀山(ごかめやま)法皇が吉野に出奔している間の応永(おうえい)19年(1412)に、後小松(ごこまつ)天皇が皇子躬仁(みひと<称光(しょうこう)天皇>)に譲位してからのことである。
大覚寺統(だいかくじとう)の上皇の不在のうちに南北朝合一の際の条件を公然と反古(ほご)にして行なわれた新帝践祚(せんそ)に対して、旧南朝方であった伊勢国司(いせこくし)北畠満雅(きたばたけみつまさ)が応永21年に挙兵して抵抗の旗を掲げたのが、後南朝の活動の早い例である。
同じころに大和(やまと)・河内(かわち)方面では楠木(くすのき)某(正成<まさしげ>の一族であろう)が蜂起(ほうき)するなど、不穏な動きが各地に広がる兆しを警戒した幕府は、満雅と和睦(わぼく)する一方で、後亀山法皇の所領の回復を約束してその帰還を要請し、反乱の芽を摘み取ろうとした。
応永23年(1416)9月に後亀山法皇の帰還が実現したことによって事態はいったん鎮静するが、この後、ことあるごとに反幕府勢力の背後に後南朝の影がちらつき、幕府にとって悩みの種となるのである。
後亀山法皇の帰還直後の応永23年10月、関東では前関東管領(かんとうかんれい)上杉氏憲(うじのり<禅秀(ぜんしゅう)>)が鎌倉公方(かまくらくぼう)足利持氏(あしかがもちうじ)に叛旗(はんき)を翻した(上杉禅秀の乱)。
これはかって義満の寵愛(ちょうあい)を受けながら義満の急死の後は疎外されていた義嗣(よしつぐ)が関与しており、また後南朝勢力との連携も噂(うわさ)された。
義嗣はほどなく捕らえられて出家幽閉の後、殺害され、関東の乱もやがて鎮定されたが、禅秀方に加担した武士の処置などをめぐって今度は鎌倉公方持氏と幕府との間に疎隔を生じ、応永30年頃には持氏が満雅と組み「南方宮」を戴(いただ)いて挙兵する、との報が流れている。
病弱の称光天皇に皇子なく、弟の小川宮(おがわのみや)が急死したことによって持明院統の嫡系が断絶する可能性が高まっていた応永末年、武家方でも将軍義量(よしかず<義持(よしもち)の子>)が若年で死去し、後継将軍不在のまま前将軍義持が幕政を執っていたが、公家武家いずれも継嗣問題を抱えたこの時期、後南朝の活動がとみに活発になる。
応永32年(1425)7月に称光天皇が倒れた際には南朝方から皇位について「御所望(ごしょもう)」が示されたというが取り合われず、正長(しょうちょう)元年(1428)7月に称光天皇が没すると、後嗣には崇光(すこう)天皇の曾孫である伏見宮彦仁(ふしみのみやひこひと)王が立てられた(後花園<ごはなぞの>天皇)。
しかし、称光天皇の死の直前には、後亀山法皇の孫小倉宮聖承(せいしょう)が出奔し、これを伊勢に迎えた北畠満雅が挙兵しており、幕府の後嗣の座を窺(うかが)う足利持氏と連携が伝えられ、また在京の大名(たいめい)のうちにも応じる者ありと噂された。
称光天皇が没する半年ほど前には足利義持が後継者を定めずに死去し、後嗣には青蓮院(しょうれんいん)に入室していた弟の義円(ぎえん)が籤(くじ)で選ばれ、還俗(げんぞく)して義宣(よしのぶ)名乗った(後に義教<よしのり>と改名)。
京都の政情は一時的にきわめて不安定な状況にあったのである。
やや後の永享(えいきょう)9年(1437)に、大覚寺門主義昭(ぎしょう<義教の弟>)が逐電(ちくでん)した際にも、後南朝との連絡が噂され、さらに義教没後の嘉吉(かきつ)3年(1443)には「後鳥羽院後胤(こういん)」という源尊秀(みなもとのそんしゅう)と「南方護聖院宮(ごしょういんのみや)ノ子」である金蔵主(こんぞうす)・通蔵主(つうぞうす)兄弟、それに日野有光(ひのありみつ)・資親(すけちか)父子らが皇居に乱入し、神剣・神璽(しんじ)を奪取するという事件が起こった(禁闕<きんけつ>の変<へん>)。
比叡山に逃げ込もうとした一味は討たれ、神剣は奪還されたものの、神璽は14年後の長禄(ちょうろく)元年(1457)まで「南方」の手にとどめられる。
その間、文安(ぶんあん)元(1444)・同4年に紀伊(きい)国での「南方宮方」の挙兵が伝えられている。
また、応仁(おうにん)元年(1467)の応仁の乱の際には、山名持豊(やまなもちとよ<宗全(そうぜん)>)に率いられ足利義視(あしかがよしみ)を戴く西軍が、将軍足利義政(よしまさ)に加えて後土御門(ごつちみかど)天皇と後花園上皇を擁する細川勝元(ほそかわかつもと)の東軍に対抗するために、「南帝」(小倉宮の末裔)の擁立を構想している。
もちろん、これらの行動において、「南朝への忠節」は、抵抗の旗印として用いられたに過ぎない場合もあろう。
担ぎ出された「南方末裔」が本物か否かも、問題となる場合もあるだろう。
しかし、天皇・将軍を戴く京都の政権に対する抵抗が、しばしば後南朝という看板を掲げて試みられたことは確かである。
現に在る中心に対して抵抗の旗を掲げようとするときに、その拠りどころを求めて後南朝が呼び出されるという、いわば抵抗の作法の形成は、抵抗の旗印が天皇の周辺へと収斂(しゅうれん)してゆくことに結びついてゆく。
一方で、政治権力の中枢に在る室町幕府にとっても、抵抗を排して自らの正統性を根拠づけるうえで、天皇の存在が有用と認識されるようになる。
鎌倉公方足利持氏が幕府に叛した永享10年(1438)の永享の乱に際して、将軍足利義教は後花園天皇に綸旨(りんじ)の発給を求め、持氏を「朝敵」と名指しすることによって、追討の正統性を根拠づけようとした。
その義教が嘉吉元年(1441)に赤松満祐(あかまつみつすけ)の謀殺されて将軍不在となった際(嘉吉の乱)には、管領(かんれい)細川持之(ほそかわもちゆき)に充てて満祐の追討を命ずる綸旨が発給されている。
いずれの場合も、後南朝の影のさす中で求心力を維持すべく、政治行動を意味づけ荘厳(しょうごん)する物語が天皇に求められたのである。
かくして、天皇をめぐる物語の大きな構図が共有され、そのもとで歴史が展開してゆくことになる。
そこでは、「南朝対北朝」という対抗軸を持ち、人々の争いを「君ト君トノ御争(おんあらそい)ニナス」ことによって大義名分を掲げるという『太平記』の世界の構図が繰り返し再生され、歴史を形づくってゆく。
未然の可能性に終わった南朝の残影は、北朝を戴く現体制に影のようにつきまとい、その存立を映す鏡の役割を果たすことになる。
人々がさまざまな方向から関与し、さまざまな動機からよってたかって支えることによって、人々の間に存立する、それこそが「王権」の「正統」なあり方なのである。
(『日本の歴史11 太平記の時代』新田一郎 講談社学術文庫 2009年)
今朝の父の一枚です(^^)v
ハシブトガラスが群がっていたそうです。
(「3 鳥の観察 †那覇にカラスはいない!」より)
(前略)
那覇の僕の通勤路には、ほとんどスズメが見当らないということもわかりました。
僕が通勤するのにかかる30分という時間を基準にして、上京した折に池袋の街中を歩いて鳥を見てみたら、あたりまえのように、カラスとスズメが目に入りました。
このことからすると、同じ街中といえでも、那覇は特異ということになります。
でも、本当に那覇が「変」で、東京が「普通」なのでしょうか。
カラスの研究者である松原始さんにお会いしたら、世界的にいうと、街中にカラスが普通にいるのは、決して普通ではないということでした。
(後略)
(『身近な自然の観察図鑑』盛口満 ちくま新書 2017年)
午後から心臓リハビリでした。
待っている時間読んでいたのは『改訂・携帯版 日本妖怪大事典』
大事典ですが、文庫本なので荷物になりません(*´▽`*)
パラパラと開いたページの項目を読んでいました。
30分間のトレッドミルで歩いた距離は1.71km、消費カロリーは 110kcalでした。
嬉しかったのは、酸素飽和度が96とか97になっていた(^^)v