2020年12月21日月曜日

冬至

気温が低く、霜が降りていましたし、田んぼには氷がはっていました。 
今日は「冬至
柚子湯に入ると1年間風邪をひかないと言われています。
ユズ
(前略)
  一字名の植物は、たとえば「い」(イグサ)、「お」(アサ)、「え」(エゴマ)、「き」(ネギ)など古代から日本人の生活に結びついたものだといわれている。
千疋屋の先代の主人、斎藤義政氏の遺著『くだもの百科』(婦人画報社)に、日本の果物には、なぜか一字名のものがなく、甚だ不満だとあるが、ユズはわが国では由(ゆ)と一字で呼んでいたもので、「液多く酢し、故に東俗呼て柚(ゆ)の酢と号す」と『本朝食鑑』にある。
和菓子の柚餅子(ゆべし)とか、砂糖煮の柚香煮(ゆこうに)など「ゆ」という呼び名は今も生きている。
(後略)
(『四季の博物誌』荒垣秀雄編 朝日文庫 1988年)
午後から眼科を受診しました(定期通院)。
待ち時間に読んでいたのが今月号の『世界 2021年1月号
前にも呟いたことがあるのですが、大阪市廃止の住民投票が反対多数で否決されたことに驚きました。
でも、お二人の方が寄稿されているのを読んでなるほどと思いました。
最新号なので一部だけ転記しますφ(..)
他にも読み応えのある記事が載っています。
連載134
 片山義博の「日本を診る」
 大阪都騒動から汲み取るべき教訓

(前略)
 このたびの住民投票は、現在最前線で戦っている兵士たちが所属する連隊の再編や部隊を廃止を、戦闘の真っ最中に決めようとするもので、愚行というほかない。
住民投票のスケジュール設定に関わった首長や議員たちには、府政や市政にとって今何が一番大切なのか、分からなかったのだろうか。
その見識が問われてしかるべきである。

(中略)

 ただ筆者は、これまで福祉や教育など、住民にとって身近で重要な施策に人一倍関心を寄せていた公明党のことだから、必ず地方自治を重視するに違いないと考えていた。
ところが大阪都構想をめぐるむき出しの打算を見せつけられるに及んで、それは筆者の勝手な思い込みだったと認識させられた。
まことに残念で失望を禁じ得なかった。
(後略)
(『世界 2021年1月号』岩波書店)
「大阪都構想」の失敗と市民自治 森裕之
(前略)
 今回の住民投票でも「大阪都構想」は再び反対多数によって否決されたが、これは9月時点では予想できない結果であった。
後にもみる公明党の「賛成」への寝返りとコロナ禍における維新の吉村洋文知事の高い露出度によって、賛成派が圧倒的に優位に立っていたからである。

(中略)

 もう一つの賛成理由として多かったのは大阪の「経済成長」であった。
しかし、大阪府知事・市長がともに維新となった2011年度から2017年度の期間をいれば、国の実質経済成長率が年平均1.54%であるのに対して、大阪府のそれは年平均0.53%にすぎない(*)。
そのため、維新が掲げ続けてきた「大阪の成長を止めるな」というスローガンは、きわめて根拠薄弱なものであった。
(後略)

(*)内閣府(2020)「平成30年度国民経済計算年報」および大阪府(2020)「大阪府民経済計算」から計算。
(『世界 2021年 1月号』岩波書店)
 12月21日
 紀貫之(きのつらゆき)が国司(こくし)の任を終えて帰京の途についた。 934(承平<しょうへい>4)年

 「をとこ(男)もすなる日記といふものを、をむな(女)もしてみんとてするなり。それのとし(某年)のしはすのはつかあまりひとひ(師走二十日余一日)のひのいぬのとき(戌刻=今の午後7時―9時)にかどで(門出)す」という『土佐日記(とさにっき)』の冒頭の文が示すように、貫之はこの日、めでたく国司の任を終えて、土佐(とさ)から出港した。
『土佐日記』はそれから翌年2月16日の帰京までを記している。
 これまで女が使うものとされていたひら仮名を男が使い漢字なかなか表わせない心の動きを自由に表現したこの日記は文学史上高い価値をもつばかりでなく、国風文化(こくふうぶんか)のさきがけをなすものであった。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)
土佐日記」(10min.ボックス 古文・漢文)

日本文学史序説(上)』より「土佐日記」について転記しますφ(..)
紀貫之と菅原道真について書かれていますが、主に紀貫之について抜粋します。
 第2章 最初の転換期
 知識人の文学

(前略)

学芸を以て官界に地位を築いた菅原氏の場合とは異なり、紀氏は政界に望みを失って学芸に拠って立ったのである。
もし前者を知識人の上昇型と称ぶとすれば、後者は下降型であり、9世紀の知識人社会は、両者の交るところに成立したといえるだろう。
(『日本文学史序説(上)』加藤周一 ちくま学芸文庫 1999年)
 知識人の二つの型を代表していたのは、衆目のみるところ、菅原道真と紀貫之である。
官界に地位を得るための学芸(いわば表芸)は、シナ語の詩文であったから、道真は当然シナ語で書いたし、また書かざるをえなかった。
不遇の貴族、貫之は、おそらく官界に野心がなく、日本語の新しい表記法(かな)を利用して、母国語の抒情性(裏芸)に専念することをためらわなかった。
道真の詩文の内容は、直接に公事に係るか、あるいは少なくとも公事を背景としている。
その『菅家文草』は彼自身が編んで天皇に奉った『菅家三代集』の一部であった。
貫之の歌と文章の内容は、『古今集』の序を除けば、全く私的なものである。
『土佐日記』に到っては、天皇に奉るどころか、その第一行に、仮託して、女の書いたものだと断り(「おとこもすなる日記といふものを、をむなもしてみんとてすなり」)、その最後の行には、早く破りすててしまった方がよかろう(「とまれかうまれ、とくや(破)りてん」)とさえ書いていた。
『土佐日記』のところどころにあらわれる軽い諧謔は、日記そのものに向けられていたのである。
道真は悲劇の主人公であった。
しかし貫之は自分自身を笑って暮すことのできる人物であったらしい。
 しかし道真の世界と貫之および『古今集』の世界との、相触れるところがなかったわけではないし、相通うところがなかったわけではない。
(後略)
 歌人としての貫之については、『古今集』と共に後に触れる。
散文家としての貫之は、すでに述べたとおり、かな書きで『土佐日記』を作った。
すなわち、国司の任を終えて土佐を発ち(934年12月)、海路京都の旧宅へもどる(935年2月)まで、55日間の旅日記である。
風波や海賊の怖れ、同船の人々の言動、任地で死んだ子供への執着、都への憧れなどを誌し、道中の人々が作ったとする歌57首を載せる。
 旅日記には、すでに100年ばかりまえ、慈覚大師円仁が漢文で書いた『入唐求法巡礼行記』(前出)があった。
円仁には、その公的な任務(仏法を求めること)に意識的であり、周囲の社会風俗を描いて冷静且鋭利な観察家であった。
それにくらべると『土佐日記』の内容は、はるかに貧弱である。
土佐守としての経験を全く語らず、道中55日間に、船は多くの港に泊まっていたが、土地の社会や風俗もほとんど全く記述していない。
貫之の関心は、円仁の場合とはちがって、身辺日常の雑事を超えず、観察の範囲は辛うじて同船の舟子やかじとりに及んだにすぎない。
都の旧宅に辿り着いてみると、その家は荒れていた。
「いへにあづけたりつるひとのこゝろも、あれたるなりけり」という次第で、「いつとせのうちに千とせやすぎけん」という感想があって、「このいへにうまれしをんなごのもろともにかへら」ぬことを、あらためて嘆く。
旅日記としては、『入唐求法巡礼行記』の世界のおどろくべき縮小であり、同時代の旅の記念としては、道真の「叙意一百韻」の経験のおどろくべき矮小化である。
 しかし貫之は『土佐日記』によって、円仁や道真の果たさなかったことを行なった。
その第一は、かな書きの散文であり、第二は、作者身辺の私事をそのまま歌といくらかの諧謔を交えて語るという流儀である。
その二点において、『土佐日記』の先駆的意味は大きい。
平安時代に『入唐求法巡礼行記』に匹敵する旅行記は二度と書かれなかったし、「叙意一百韻」の抒情詩の複雑な緊張は繰返されなかった(憶良の後には道真があり、ただ道真のみがあった)。
しかるにかな書きの日記は、10世紀中葉の傑作『かげろふ日記』に発展し、11世紀初には『紫式部日記』『更級日記』、12世紀には『讃岐典侍日記』や日記体の小説『和泉式部日記』(作者・年代不明。かりに今12世紀説による)を生んだ。
しかもそればかりではない。
日記という形式を離れても、作者身辺の私事を描いてそこに歌を混える趣向は、『伊勢物語』(後述)以下のいわゆる平安朝「歌物語」に受けつがれ、軽い諧謔の調子は遠く徳川時代の「俳文」にまで連なった、ということができる。
従来の日本文学史の記述が『入唐求法巡礼行記』や「叙意一百韻」に薄く、『土佐日記』に甚だ厚かったのも、そのためにちがいない。
 (もし『土佐日記』に「俳文」の先駆を認めるとすれば、20世紀前半に流行したいわゆる「自然主義私小説」の世界も、あらかじめ『土佐日記』のなかに予告されていた、といえないこともないだろう。
「自然主義私小説」の原理は、作者の日常的経験を、そのまま記録し、そこに抒情的な「さわり」を設ける、ということであった。
田山花袋の『蒲団』から、徳田秋声の『仮想人物』まで。
これが欧州19世紀末の「自然主義」の方法よりも、はるかに『土佐日記』の方にちかいことは、いうまでもない。)
 外部(社会風俗)の観察者としては遠く円仁に及ばず、内部(自己の生涯の意味)の探究者としてははるかに道真に及ばなかった『土佐日記』の著者は、しかし誰よりも深く土着の世界観に根ざしていた。
日常的経験の世界、その私的性格は、その構造化されない時間的継起。
さればこそ、9世紀の没落貴族の文学は、10世紀以後12世紀末まで、摂関時代のいわゆる「女房」の文化、その日記と歌物語と絵巻物の300年を、予告していたようにみえるのである。
 (後略)
(『日本文学史序説(上)』加藤周一 ちくま学芸文庫 1999年)
今朝の父の一枚です(^^)v
バラが面白いと気に入った写真です。

父もエナガに出会っていたのですが、チョコマカ動き回るので…
私も一応載せていますが、動きについて行けずピンボケです(^^ゞ
この時期、いつも困っているのは、息で眼鏡やファインダーが曇ってしまう。
ただでさえピントを合わせるのが遅いのに
拭いたりしているあいだに何処かへ行ってしまう(T_T)