今朝は、青空に雲が浮かんでいました。
一方、北日本や東日本は大雪でさまざまな影響が出ています。
「日本海側中心に雪 北日本 東日本 今夜にかけて大雪のおそれ」(NHK)「感染高水準続く 帰省など自粛を」(関西NHK)
今日も公園ではイベントが開催されていて駐車場もいっぱいで、他府県ナンバーも…
父は昨日、来園者が多いので散歩を諦めました。
前から不思議だなと思っていたのが、観光客が多く訪れる京都の感染確認者が大阪に比べて少ないです。
「関西の感染まとめ(19日)」(関西NHK)
そのことについて
「京都のコロナ感染者、なぜ少ない? 混み合う観光地、府民は避けた?考えられる理由は…」(京都新聞 12月4日)
人混みを避けることが大事だと思います。
「コロナ ロンドンなど外出制限へ “変異ウイルスで感染急拡大”」(NHK)
「アメリカ コロナワクチン接種後 6人に激しいアレルギー症状」(NHK)
ワクチンができたといっても分からないことが多いです。
また、萬田緑平さんのTwitterに
風邪のワクチンはウイルスがどんどん変異するから作れないと以前からわかってる。
いったい何をターゲットとするワクチンを作ろうとしてるのだろう?
「怖い」と洗脳しておき、「新型コロナのワクチン」と名前をつければ莫大な利益が生まれる。
私には「詐欺」にしか見えない。
副反応以前の問題だ。
日本呼吸器学会のHPには、
かぜ症状群の原因微生物は、80~90%がウイルスといわれています。
主な原因ウイルスとしては、ライノウイルス、コロナウイルスが多く、RSウイルス、パラインフルエンザウイルス、アデノウイルスなどが続きます。
ウイルス以外では、一般細菌、肺炎マイコプラズマ、肺炎クラミドフィラなど特殊な細菌も原因となります。
(「感染性呼吸器疾患 かぜ症候群」日本呼吸器学会)
現在の「新型コロナウイルス」とかぜ症候群の「コロナウイルス」との違いはまだ分からないことが多いと思います。
1970年の今日
「沖縄 米兵の交通事故で焼き打ち騒動」(NHKアーカイブス 1970年)
私が高校生の時に起きた。
故郷から遠く離れた大阪でニュースをみていました。
50年前の12月20日は、今日と同じ日曜日でした。
ETV特集「沖縄が燃えた夜~コザ騒動50年後の告白~」の番組の中で
アメリカのジェームス・ランパート高等弁務官が
「沖縄で起きたこのようなことは、ジャングルの世界のことだ。文明社会ではあり得ない」
と語っていましたが、法治国家で飲酒運転で人身事故を起した人間を無罪にするようなことはない。
当時、ベトナム戦争から戻ってきた米兵がどのような無法を働いていたか。
佐藤栄作氏は沖縄返還によってノーベル平和賞を受賞しますが
アメリカと密約を隠しての受賞でした。
「佐藤栄作元首相 ノーベル平和賞受賞」(NHKアーカイブス 1974年)
「NHKスペシャル 密使 若泉敬 沖縄返還の代償」(NHK 2010年)
「沖縄密約・外務省機密漏えい事件」(NHKアーカイブス 1972年)
『戦後と高度成長の終焉 日本の歴史24』より
〝沖縄返還交渉の核心――「核抜き・本土並み」の意味〟を転記しますφ(..)
第3章 変貌する戦後
沖縄返還交渉の核心――「核抜き・本土並み」の意味
日韓国交正常化をめぐる国会運営が、自民党にとって厳しいものであったことを考えると、1971年(昭和46)の沖縄国会における政党対立の変容は注目される。
そこでは、多党化現象が外交運営上、大きな意味を持ち始めていた。
そこで、沖縄返還に至る過程を、日米間および政党間の合意形成との関連でたどってみよう。
(『戦後と高度成長の終焉 日本の歴史24』河野康子 講談社学術文庫 2010年)
沖縄の法的地位については、1951年(昭和26)講和条約第3条と、講和会議におけるダレス・アメリカ代表および、ヤンガー・イギリス代表の演説によって確認されていた。
具体的には、沖縄・奄美大島・小笠原諸島など第3条地域に対しアメリカが施政権を行使できるが、この地域の主権は日本に残されていることが認められていたのである。
この第3条の規定は、今後の沖縄の地位に関して、講和条約調印国すべての合意を必要とせず、日米両国間で協議が可能、という点を事実上認めたものとなっていた。
このため日本側は条約調印後、それについての日米間の取り決めが行なわれることを期待した。
しかしアメリカ側は、とりわけ沖縄基地の戦略的重要性を主張する軍部の意向で、この取り決めに応じなかった。 しかし、1961年(昭和36)に発足したJ.F.ケネディ政権が、60年安保のおける日本国内の反米感情に配慮して、E.ライシャワーを大使に任命したことは、沖縄問題の重要性を日米関係の安定化という観点から見直すことにつながった。
ライシャワー大使の沖縄への関心は、ジョンソン政権へ受け継がれる。
その後、国務省と国防省は、沖縄問題に関する特別研究グループを発足させ、国務省のR.スナイダーと国防省のM.ハルペリンが中心となって、軍部に対する説得を試み始めていた。
(1961年4月19日に来日したライシャワー大使のハル夫人は元首相、松方正義の孫) 1964年(昭和39)11月に発足した佐藤内閣は、当初から沖縄問題に対する関心を持っていたとものと思われる。
愛知揆一(あいちきいち)・楠田実(くすだみのる<新聞記者出身の主席秘書官>)らを中心とする佐藤首相のブレーン・グループは、アメリカの沖縄統治が20年に及ぼうとしている点を重視していた。
このグループが「Sオペレーション」といわれる政権構想を練り、そのなかに「沖縄の施政権返還をアメリカに要求する」というものがあった。
これが佐藤内閣発足の際の記者会見で発表され、外務省・報道関係者を驚かせた。
この間の動きがきわめて早かったことをうかがわせるが、佐藤首相が施政権の全面返還への取り組みを明確に意識したのは、おそらく第一次訪米帰国後の1965年8月、戦後の首相として初めて沖縄を訪問した時期ではないかとされている。
この時、佐藤首相は、那覇(なは)空港に到着した際のスピーチで、沖縄が復帰しなければ、「戦後」は終わらない、と述べ、施政権返還への強い意欲を印象づけた。
しかしその後、現地のデモ隊に取り巻かれた佐藤首相は、宿舎に予定していたホテルへ到着できず、米軍基地内に宿泊を余儀なくされる。
佐藤首相は、沖縄の緊迫した状況について身をもって認識したのではないだろうか。
訪沖から帰った直後、佐藤首相は首相直属の沖縄関係閣僚協議会を設置した。
ここで、かねて社会党から出されていた「第三条無効論」に対する政府見解が出され、沖縄に対する日本の主権が残されている点が確認されている。
閣僚協議会はその後目立った動きを見せなかった。
翌1966年(昭和41)、総理府の森清(もりきよし)総務長官が、教育権のみの分離返還構想(森構想)を打ち出すと共に、総務長官の諮問機関として、沖縄問題懇談会(第1次沖懇)を設置する。
その後、第1次佐藤内閣は、共和製糖事件など一連の汚職問題から、「黒い霧」解散に追い込まれ、翌1967年1月に総選挙となった。
佐藤首相は遊説中に、滋賀県大津市で、分離返還構想を否定する発言を行い、あらためて教育権を含む施政権の全面返還を求める立場を明らかにした。
総選挙後、第2次佐藤内閣が発足し、8月に、首相は第1次沖懇を改組した。
こうして首相直属の私的諮問機関として沖縄問題懇談会(新沖懇<しんおきこん>)を設置、議論の場はここに移された。
そして、この新沖懇に沖縄基地問題研究会が設けられ、ここで施政権返還の条件について議論された。
この研究会は、軍事専門家・国際政治学者などを中心とし、外務省の判断にとらわれずに独自の構想を練ったといわれる。
第2次佐藤・ジョンソン会談で、返還時期の決定に期限をつけたことは、大きな前進であったが、その後、返還が具体化するに従って、問題は安全保障政策の核心に触れるものとなってきた。
また、この会談で小笠原諸島の返還が合意されたことは、返還後の沖縄基地のあり方について、日本側の態度決定を迫るものとなった。
1967年12月11日、臨時国会で佐藤首相は、成田知巳(なりたともみ)社会党全書記長への答弁のなかで、「非核三原則」を打ち出した。
これは、核兵器について「作らず」・「持たず」・「持ち込ませず」を原則とする、というものであった。
ここから、第3の「持ち込ませず」という原則を、返還後の沖縄基地に適用できるかどうかということが、その後の沖縄問題の核心部分となる。
米側、とりわけ基地使用の当事者である軍部の基本的な態度は、施政権返還によって沖縄基地の機能に変化がないことを前提とするものであったから、「非核三原則」が沖縄に適用できるかどうかは微妙な問題であった。
外務省内には、沖縄基地に安保条約の事前協議制を適用せず、特別基地協定を結ぶことが必要となるとの判断があった。 この点については、先にみた国務省・国防省の特別研究グループ(スナイダー・グループ)と軍部との間で論議が重ねられ、施政権返還によって損なわれる基地機能は、核兵器貯蔵とB52の自由発進のみであるとの報告書がまとめられていた。
その中では、これらの基地機能は返還後の日本政府の協力があれば、それによって補うことができるとしており、したがって、施政権の返還は可能という結論を出していたのである。
言い換えれば、沖縄基地の機能を維持することを条件として、返還交渉の見通しが生じてきたのである。 アメリカ政府が大統領レベルで、この問題に対する決定を行うのは、1968年大統領選挙でR.ニクソンが当選し、国会安全保障担当特別補佐官にH.キッシンジャーが就任してからのととなる。 沖縄返還に関してよく言われる、「本土並み」という表現についてみれば、日本国内では基地問題研究会の議論に始まり、1967年頃から広く用いられるようになった。
1968年(昭和43)11月、自民党総裁選に立候補した三木武夫は記者会見で、「本土並み」を求める交渉への見通しを述べている。
この「本土並み」という言葉は、1960年に新たに設けられた事前協議制を含む新安保条約を、そのまま沖縄基地にも適用することを表現したものである。
つまり、沖縄基地を事前協議制の例外とするような特別協定を設けず、本土と同じ安保条約を適用する、という意味での「本土並み」であった。
こうして先の非核三原則と合わせ、「核抜き・本土並み」という考えが、次第に国内世論に浸透することとなった。 1969年(昭和44)年1月のニクソン政権発足後、ただちに開かれた国家安全保障会議(NSC)では、沖縄返還に伴う基地機能の変化について重要な決定が行われた。
同年5月には、返還時期を1972年(昭和47)とし、返還時には沖縄基地の核兵器を撤去、その後は事前協議制を適用するという内容のNSC文書が、大統領のサインを得た。
アメリカ側は沖縄基地使用について、「核抜き・本土並み」以上の条件を付すことは、可能でもなく必要でもないと判断したのである。 ここで見逃せないのは、アメリカ側から日本に対し、韓国・台湾の防衛に対する日本の関心を表明することが求まられたことである。
つまり、緊急時の韓国・台湾防衛にあたっては、安保条約の事前協議制の適用を緩和するという了解を日本から取りつけることが、「核抜き・本土並み」のいわば代償となっていた。 返還の条件は同年11月、第1次佐藤・ニクソン会談で合意された。
共同声明は、「韓国の安全は日本自身の安全にとって緊要」であり、「台湾地域の平和と安全の維持も日本の安全にとってきわめて重要」であることを表明した。
これを補うかたちで行われた佐藤首相のナショナル・プレス・クラブでのスピーチは、「事前協議の際には、イエスもノーもあり得る」となっていた。
これは、従来、事前協議制が日本側からの拒否権に近いものとして解釈されていた点、つまり、もし事前協議があればノーである、という含意があった点を、イエスもノーもあり得るとして、変化の姿勢を示したのである。
(『戦後と高度成長の終焉 日本の歴史24』河野康子 講談社学術文庫 2010年)