2020年8月15日土曜日

終戦記念日なんだけど…

 

今日も朝から気温がぐんぐん上がり青空が目に痛いほど…(-_-;)
夜も
大阪も神戸もこの先最低気温が25度を下回る日はなく、熱帯夜が続くことになりそうです」だとか…

まだまだ暑さ続く 熱中症対策しっかりと!」(えりの気象日記 8月14日)

公園で、暑さ対策に重宝しているのが薄荷(マルバハッカ)なんですが…
除草されていて少ししか見当たりません(T_T)
逞しい草なので伸びてくるのを待つことにしました。
最近、ハッカ油を靴や帽子に吹きつけています。
リハビリ散歩は1時間ほどなのですが、その間、足がスース―しています。
足の疲れも軽減しているような気がします。
虫よけスプレーをしても蚊などが寄ってくるので、
試しに帽子に吹きつけてから蚊があまり寄って来なくなったような気がしています。
ただ、ちょっと高いのでズボンには虫よけスプレーを使っています。
ハッカ油について教えてくれたのが、発病前によく登山用品を買いに行っていた「ロッジ 大阪店」です。(2017年8月18日の記事
8月15日
 太平洋戦争終結の天皇の放送がなされた。 1945(昭和20)年

 「ただいまより重大なる放送があります。」
――正午の時報と同時に、ラジオからアナウンサーの緊張した声が流れた。
みな固唾(かたず)をのんでラジオの前に集まっていた。
やがて天皇の独得のイントネーションをもった声が聞えてきた。
国民がはじめてきく天皇の声だった。
雑音がひどくて聞きとりにくかったが、日本が敗けたということだけは理解できた。
張りつめた気持が一挙にゆるんで、みな放心状態だった。
 米英中三国は7月26日にポツダム宣言を発表し、日本に降伏をよびかけた。
これに対し鈴木貫太郎(かんたろう)首相は「われわれはポツダム宣言を黙殺する」と発表したので、連合国は日本が拒否したとうけとり、アメリカは原爆投下、ソ連は対日参戦を実行にうつした。
8月10日、政府はついにポツダム宣言の受諾を決意した。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)
玉音放送」(小学6年 動画)

今日は「終戦記念日」。
「撤退」を「転進」と言い換えたりするのと同じかな?
本当は敗戦記念日なんだけど、降伏した日。
韓国では、「光復節」。

全国戦没者追悼式 令和2年8月15日(土)(日本武道館)」(宮内庁)
天皇陛下は戦後に生まれましたが、
過去を顧み、深い反省の上に立って」とのお言葉。

安田菜津紀さんのTwitter

8月15日。
アウシュビッツでの収容を生き延び、35年間アウシュビッツ・ミュージアムの館長を務めたカジミエシュ・スモレンさんが残した言葉を、改めて思い返してみる。
彼は今を生きる若い世代にこう、語りかけていたそう。
「君たちに戦争責任はない。でも、それを繰り返さない責任はある」。
NHKスペシャル「渡辺恒雄 戦争と政治~戦後日本の自画像~」で

あれだけ人を殺して、何百万人も殺して、日本中を廃墟にした。
その連中の責任を問わなくていい政治ができるわけない。

保守論客として知られる一方で、2005年、79歳の時に
検証・戦争責任」連載(2005~2006年)しています。

戦後75年」(読売新聞)

天皇の歴史8 昭和天皇と戦争の世紀』より「聖断と玉音」を転記しますφ(..)
第四章 大陸と太平洋を敵として
 4 天皇と戦争
   聖断と玉音


 昭和天皇が即位して以来、教育と軍事にかかわる領域で勅語が積極的に出されたこと、また、それらの勅語が儀式空間において奉読されたこと、さらに、文部官僚や軍部官僚が「奉体方(ほうたいがた)」や「謹解(きんかい)」という名で勅語の解釈を作り上げ、その解釈が教育者や指揮官などを通じ、青少年層に広く流布されていったことについては、すでに第三章第4節で述べた。
(『天皇の歴史8 昭和天皇と戦争の世紀』加藤陽子 講談社学術文庫 2018年)
 例をあげれば、1939年(昭和14)9月、教育総監部発行の『軍人勅諭謹解』は、挙育総監部の香村茂富(こうむらしげとみ)が書いた、軍人勅諭の読方・語句・大意・附記を載せていた。
また、陸軍省情報部が『支那事変下に再び陸軍記念日を迎えて』と題して39年2月に発刊したパンフレットには「遼東還付(かんぷ)の詔勅」(1895年5月10日)、「日露講和の詔勅」(同年10月16日)とともに、「関東軍に下し給える勅語」(32年1月8日)、「事変一周年に際し陸海軍に賜わりたる勅語」(38年7月7日)等が載せられていた。
日清戦争後の三国干渉に際しては、天皇の詔という形で、還付しなければならない理由が説明されていたが、そのような還付の論理や、日露戦争の栄光等がこのパンフレットにはうまく引照されていた。
種々の儀式において、これらの勅語は関連づけられ、音読されたことだろう。
ことに、三国干渉に屈した際の論理、「治平(ちへい)の回復を遅滞せしめ、以て民生の疾苦(しっく)を醸(かも)し、国運の伸張を沮(はば)むは、真に朕が意に非ず」という明治天皇の詔の文言については、ご記憶願いたい。
 昭和天皇自身、戦果があげられた際の勅語発出に無関心であるはずはなかった。
41年12月9にち、侍従武官長蓮沼蕃(はすぬましげる)に対し「今次の戦争に陸海軍が挙げた戦果に対し、その都度、適宜、勅語又はお言葉を賜わる旨」を伝えている。
また、42年12月当時、参謀本部作戦課長であった真田穣一郎(さなだじょういちろう)の日記には、参謀総長杉山元(すぎやまげん)が奏上した折の同年12月31日の記事として「実はガ〔ガダルカナル〕島がとれたら勅語をやろうと思って居たがどーか。今日迄随分苦戦奮闘したのだから、勅語を下してはどーだろうーか。やるとしたら何時が良いか」との天皇の発言がある。
ただ、この発言の背景に、ガダルカナルをめぐる陸海軍の現在の対応が不十分であるとの天皇の考えがあったことは、史料批判として知っておきたい。
 45年8月10日午前零時3分から開催された、ポツダム宣言受諾の是非をめぐる御前会議で、東郷外相らの主張する「国体護持」1条件での受諾論と、阿南陸相らの主張する4条件(「国体護持」、「自主的撤兵」、「戦争責任者の日本側による処理」、「保障占領をしない」)の受諾論が対立し膠着(こうちゃく)したことは先にも述べた。
同日午前6時過ぎ、鈴木首相は天皇の判断を仰ぎたいと発言し、その結果、天皇は外相の1条件案支持を表明。
こうして、「天皇の国家統治の大権を変更するの要求を包合し居らざることの了解の下に」ポツダム宣言を受諾する旨の回答文発出が決定された。
鈴木多聞氏の『「終戦」の政治史 1943-1945』によれば、天皇の8月10日の御前会議での発言は、次のようであった。
出典は「最高戦争指導会議に関する綴(其の二)」(防衛省防衛研究所戦史部図書館蔵)。
  陸海軍統帥部の計画は常に錯誤し時機を失す。
  〔中略〕空襲は激化しあり。
  之以上国民を塗炭(とたん)の苦しみに陥れ、文化を破壊し、世界人類の不幸を招くは私の欲せざる処なり。
  〔中略〕今日は明治天皇の三国干渉の心を心とすべきなり。
 先に、遼東還付の際の詔勅の文言を見たが、その文言と昭和天皇の発言中の文言に呼応する部分が多いことにご注意いただきたい。
「民生の疾苦」と「国民の塗炭の苦しみ」、「国運の伸張を沮むは、真に朕が意に非ず」と「文化を破壊し、世界人類の不幸を招くは私の欲せざる処なり」は偶然の一致とは考えられない。
まさに、昭和天皇自身、明治天皇の「三国干渉の心」を心とすべきと述べて、呼応関係に参加者の注意を促していたとおりである。
 8月10日の日本側回答は、トルーマン大統領のもと、国務長官バーンズ、陸軍長官スチムソン、海軍長官フォレスタル、統合参謀本部議長リーヒによって協議された。
スチムソンとリーヒは日本側申し入れを了承したが、バーンズは反対し、英中ソの同意を得たうえで、8月11日、連合国回答文を発出。
これは日本側の申し入れには直接答えることなく、
①降伏時より天皇と日本政府の国家統治の権限は連合軍最高司令官の権限下、制限の下に置かれる、
②天皇は政府・大本営に降伏文書への署名を命じ、軍隊を武装解除する、
③連合国捕虜・抑留者の移送、
④最終的な日本国の政府の形態はポツダム宣言に遵(したが)い、日本国国民の自由に表明する意志により決定される、
⑤連合国軍隊による保障占領、の五項目からなっていた。
 8月13日、本回答文への対応を協議すべく最高戦争指導会議と閣議が開かれたが、再照会すべきであるという軍側の主張は強く、結論は容易に得られなかった。
日本側の逡巡(しゅんじゅん)を見越した米軍は13日夕刻、日本政府が条件付きでポツダム宣言を受諾したこと、それへの連合国回答全文を載せたビラを散布した。
14日朝、事態を国民の前に隠していた政府は驚愕し、ことに昭和天皇は『昭和天皇独白録』でも語ったように陸軍内のクーデター必至と判断し、参謀総長・軍司令部総長の了解をとらないまま、天皇の名で御前会議召集に踏み切った。
 14日午前11時2分に開かれた御前会議での天皇の言葉は、声涙(せいるい)ともに下るものであった。
侍従武官尾形健一大佐日記から引く。
「〔前略〕国体護持に関しては、先方は之を認めて居るものと信じ、不安を有せず。
〔中略〕此の際、涙を呑み、忍び難きを忍び、明治天皇の遼東還付の御心を偲(しの)びつつ、此に戦争を終結に導き、我国体を保持し、万民を塗炭の苦より救い度(た)しとの決心せる次第。
皆も残念であろうが、自分の気持ちを察して其様(そのよう)に運んで貰い度(たし)
国民には、速に夫(そ)れに関し詔書を出す様に、又陸海軍にも勅語を出す様取計って貰い度。
要すれば自ら放送しても良いと思う」。
 重要なポイントは、二度の聖断において二度とも遼東還付の詔勅への言及がなされていた点である。
また、天皇が、国民全体へは詔書によって、陸海軍軍人に向けては勅語によって、敗戦に立ち至った経緯と理由を伝えようとしていた点も重要だろう。
迅速かつ広範に戦争終結を知らせるためのラジオの利用も、御前会議の席上で天皇から発意されている点も見逃せない。
儀礼空間で音声によって読み上げられる詔書と勅語の重さと、それゆえの怖さを知り尽くし、教育と軍事の領域における要諦(ようたい)を最もよく理解していた天皇が、木戸内大臣、鈴木首相などと周到に準備を整えて臨んだ施策といえるだろう。
天皇の意思は、詔書と勅語と玉音放送で国民並びに陸海軍軍人に伝えられた。
この年、天皇が詠んだ御製二首。

  爆撃に倒れゆく民の上をおもひ いくさとめけり身はいかならむとも

  国がらをただにまもらむといばら道 すすみゆくともいくさとめけり

(『天皇の歴史8 昭和天皇と戦争の世紀』加藤陽子 講談社学術文庫 2018年)