2020年8月23日日曜日

熱帯夜だったけど…

 

今まで30度前後が続いていたので
熱帯夜にはかわらないのだけど、26度前後だったので、5時前に戸をあけると少し涼しかったです。

日本の記者会見が何故、緊張感がないのかがわかるし、S紙が中国のように政府の広報誌になっているのがよくわかる。

Toshi Ogata (尾形聡彦)さんのTwitterに

質問は記者の仕事で、指摘は的外れだと思います。
私が2011年の東日本大震災当日にオバマ氏に答えてもらったのも、会見終了時のシャウト質問。
トランプ氏のPool取材も多くは呼びかけ質問です。
日本の官邸で多くの記者が事前に質問内容を教えていることこそが恥ずべき行為です。


記者会見の「首相追及」手法に批判の声 「逃げる印象与える狙い」〟(産経新聞2020.8.21)

8月23日
 時宗の開祖一遍が51歳で死去した。 1289(正応2)年

 死を悟った一遍は、もっていた経や書籍の一部を書写山(しょしゃざん<姫路市>)の僧に与え、他の一切を焼きすてた。
そして「葬儀をしてはならない、遺体は野にすててけだものに施せ」という遺言を残して、23日の午前8時ころ兵庫の観音堂(かんのんどう)で死んだ。
一遍は浄土宗を学んだのち旅に出たが、熊野権現(くまのごんげん)から「一切の人々の往生は遠い昔に決定しているのだから、誰にでも無条件に極楽往生を約束する念仏札を配ればよい」という霊示(れいじ)を受けた。
こうして念仏を唱え、踊り、札を配り歩く民衆的な宗派が生まれた。
一遍のまわりには殺生(せっしょう)を仕事にする人、乞食、癩病者など社会の底辺の人々が群がっていた。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二 1979年)

柳宗悦の『南無阿弥陀仏』より一遍について転記しますφ(..)
なお、この本はそれまでに法然、親鸞について書かれています。

 「17 僧と非僧と捨聖」より

(前略)

 だが同じく教信(きょうしん)を慕って、その故地印南野(いなみの)のほとりで臨終を希(ねが)った一遍上人は、どんな一生を送ったのであろうか。
彼もまた、僧としての出発をした法然や親鸞と同じであった。
しかし悟入に達するまでには幾多の紆余(うよ)曲折があったように思える。
彼の一生を叙した『六条縁起』に「あるいは俗塵にまじはりて恩愛をかへりみ」など記されているのは、この消息を伝えるものではないであろうか。
だが彼が37歳の時、熊野の証誠殿(しょうせいでん)に詣で、霊感を受け、一遍と名を改めてついに衆生に念仏を勧めんがために果てしない遍歴の旅に立つに至って、彼の生活は全くその様態を改めるに至った。
彼が足跡は日本の全土に及んだのである。
(みち)とても整っていなかった鎌倉時代に、どうしてこんな大きな旅を成し遂げ得たのであろうか。
(『南無阿弥陀仏』柳宗悦 岩波文庫 1986年)

(「熊野本宮大社 第三殿(証誠殿)」文化遺産オンライン)

 彼は一定の寺に長く住むことがなかったので、僧としての一生を送ったのではない。
さりとて俗に下りて家を持ったのではない。
実に住むべき一切の場所を棄てて三界無庵(さんがいむあん)の身として、死すまでその長い遍路の旅を続けたのである。
かかる世捨人を、人々は「捨聖(すてひじり)」と呼んだ。
つまり家を捨て寺にも留らず旅から旅へと遍歴する者を指していうのである。
一遍上人は「一遍聖(ひじり)」として、その一生を送ったのである。
かかる遍歴をまた遊行(ゆうぎょう)と呼んだ。
智真一遍が世に「遊行上人」といわれる所以である。
彼は鎌倉時代の幾人かの宗祖のうち最も短命であって、寿(よわい)わずか51歳であった。
この早世は、おそらく当時の難儀の多い遍歴が、体を痛めさいなんだためであろう。
しばしば野辺に伏し、雪に埋(うず)もれ、糧もなく幾日かを送ることさえあったのである。
その足跡は北は奥州(おうしゅう)から南は薩州(さつしゅう)にも及んだ。

 彼は何故、僧にも止まらず、俗にも還(かえ)らず、世捨人として、聖(ひじり)の道を選んだのであろうか。
もとより賦算(ふさん)して衆生を名号に結縁(けちえん)せしめるためでもあった。
賦算は六字の名号を刷った札を遍(あまね)くくばることである。
だがそれよりも『法華経勧持品(かんじぼん)』に説くように「我れ身命を愛せず、ただ無上道を惜(おし)む」心に活きるためである。
『法語集』に忘れ難い句がある。

  「念仏の機に三品あり、上根(じょうこん)は妻子を帯し家に在りながら、著(ぢやく)せずして往生す。中根は妻子を棄つるといへども、住処と衣食とを帯して、著せずして往生す。下根は万事を捨棄して往生す。我らは下根の者なれば、一切を捨てずば定めて臨終に諸事に著して往生し損ずるべきなりと思ふ故に、かくの如く行ずるなり。よくよく心に思量すべし」と。
   ここにある人問ひて曰く、「大経の三輩は、上輩を「捨家棄欲」と説けり、今の御義には相違せり、何如」。
   答へてのたまはく「一切の仏法は心品を沙汰す、外相をいはず。心品の捨家棄欲して無著なることを上輩と説けり」。

 一遍上人の分類を以てすれば、実に上根は親鸞聖人に当る。
妻子を持ち家を持ちなおかつ執着を去って往生し得る如きは、上根の者でなくば出来ない事である。
中根は法然上人に当る。
家を捨て僧として寺に止まり衣食を持って、しかも執着なく往生の出来るのは、決して下根の者には出来ぬ。
一遍の如きは下根の者であるから、妻子などを持ったり、寺に安住して衣食に足りたりしては執着のみあって、往生などは、到底、思いもよらぬ。
そんなことが出来るのは下根でない証拠である。
それ故下根の自分は一切を捨てない限り、往生には会い難いのである。
だから世捨人になって三界無庵の遊行に身を托し、ひとえに往生を希うのである。

 だが家を捨て欲を捨て得る者こそ上輩ではないかとの問いに対して、上人は答えられた。
『大経』に説く上輩は心品の上輩であって、在家(ざいけ)にしてしかも執着を離れる生活をなし得る如き者をいうのである。
自分の如き下輩の者は外相においても棄てねばならぬ。

 かくして彼の一生は、僧を棄て、寺を棄て、俗を棄て、衣を棄て、食を棄て、身を棄て、心を棄て、一切を独一なる名号に捧げつくした。
彼の遊行の生活は、その活きた姿であった。
彼は限りなく自分を謙虚にした故に、非僧非俗の如き位置にすら立つことをつつしんだ。
そんな資格すらないのを省みたのである。
それ故寺僧たることにも堪え得ぬ自分を省みたのである。
一切の捨棄(しゃき)こそ下輩のとるべき路となったのである。
さもなくば煩悩(ぼんのう)の誘惑に潰(つい)える自分を見たのである。
生涯めとらず、寺をも家をも持たなかったのは、自分の弱さを強く省みたからによる。

 おそらく上人在世の頃に編まれたと思われる『一言芳談』にいう、
   「居所の、心にかなはぬは、よき事なり。心にかなひたらんには、われらがごとくの不覚人は、一定執着しつと、おぼえ候なり」。

 同書、敬仏房の言葉にもいう、
   「後世者は、いつも旅にいでたる思ひに住するなり。雲のはて海のはてに行とも、この身のあらんかぎりは、かたのごとく衣食住なくてはかなふべからざれども、執すると執せざるとの、事のほかにかはりたるなり。つねに一夜のやどりにして、始終のすみかにあらずと存ずるには、さはりなく念仏の申さるる也。いたづらに、野外にすつる身を、出離のためにすてて、寒熱にも病患にも、をかさるるは、有がたき一期(いちご)のおもひ出かなと、よろこぶやうなる人の、ありがたきなり」。

 一遍上人の、三界に庵を棄てた長い遍歴の一生、念仏にその命(いのち)を献げた一生、「寒熱にも病患にも犯さ」れながら、悦(よろこ)びを以てその一期を閉じたことは、この敬仏房の言葉そのままの、活きた姿ではなかったか。

 誠に浄土の法門を背負われた三人の上人が、各々異る生活の様式を選ばれことは、意味深く思われてならぬ。
僧から居士(こじ)に、更に聖(ひじり)へと変ることに、やがて三宗の間における教学の推移をも見るではないか。
彼らの相貌(そうぼう)もまた、よくそれを語るように思う。
穏順なる法然、強靭(きょうじん)なる親鸞、鋭利なる一遍、この対蹠(たいしょ)的な三者を持つことは、日本の浄土門をいや栄えしめたといわねばならぬ。

 万人の師表として立つべき僧が、「僧」としての生活を、どこまでも守ることは、最も正常な道といえよう。
だが煩悩の凡夫は、僧にもなりきれぬ在家の身であるだけ、求道(ぐどう)の一念を怠(おこた)ってはならぬ。
「非僧非俗」なる所以である。
だが、六字の名号に一切を捧げんとならば、僧に止まることをも、居士に止まることをも共に捨て切るべきであろう。
遊行の「聖(ひじり)」となる所以である。
第一の道は法然によって示され、第二の道は親鸞によって選ばれ、第三の道は一遍によって現されたのである。
(『南無阿弥陀仏』柳宗悦 岩波文庫 1986年)

教信沙弥(きょうしんしゃみ)

 866年(貞観8)没と伝える。
『日本往生極楽記』などに見える播磨国賀古(兵庫県加古川)の念仏沙弥。
賀古の駅家近くに住み、人に雇用されて妻帯生活をしていたが、常時弥陀の名号を唱えていたので阿弥陀丸(あみだまろ)と呼ばれた。
死期を知るや、勝尾寺の勝(証)如に結縁し、予告通り往生を遂げたという。
念仏者の手本として称讃喧伝され、永観の『往生拾因』、『今昔物語集』、信瑞の『明義進行集』、住信の『私聚百因縁集』などにも取り上げられた。
<不僧不俗の形>といわれ、<非僧非俗>の親鸞の理想像であったといる(改邪鈔)。
なお『峰相記(ぶそうき)』によると、播磨国教信寺はその住庵の後身であり、同地の野口の大念仏は、教信を仰慕した一遍の弟子湛阿がその祥月命日を記念して勧進創始したものという。
(『岩波仏教辞典(旧版)』中村元他編 岩波書店 1989年)