昨日、土砂降りになったから涼しくなるかなと思ったけど、
曇り空なのに湿度が高くて蒸し暑かった…(^^;
#大坂なおみさんを支持します
大会側と思いを共有できたことが大きいと思います。
そして山崎雅弘さんのTwitterにあるように
黒人への理不尽な構造的差別に抗議する大坂なおみ選手を叩く日本人は、
黒人を差別する白人至上主義者の味方をしているが、
その白人至上主義者は日本人を含むアジア人も蔑視し差別しているという滑稽さ。
彼らは「今後も日本で差別し続けたい」という心理が論理に勝っている。
(引用している記事)
日テレNEWS / 日本テレビのニュース・速報
【衝撃 アメリカで広がる差別と分断 日本人にも“暴言”】8月28日
近江の大名浅井長政(ながまさ)が織田信長に敗れ自刃(じじん)した。 1573(天正元)年
朝倉義景(よしかげ)を滅ぼして越前(えちぜん)を平定した信長は、国の支配方針を定めたうえで、ただちに近江にひき返した。
26日には虎御前山(とらごぜんやま)に陣をしいてふたたび小谷(おだに)城攻撃にとりかかった。
27日夜羽柴秀吉(はしばひでよし)は小谷城のうち京極丸(きょうごくつぶら)というところに攻め上って浅井久政(ひさまさ)と長政父子との間を分断し、まず久政のたてこもる曲輪(くるわ)を攻略してこれを自殺させた。
ついで翌28日には長政を猛攻してこれも自殺させた。
信長はこの父子の首を京都に送り獄門(ごくもん)にかけたばかりでなく、10歳の嫡男(ちゃくなん)もさがし出して磔(はりつけ)にし、積年の恨みを晴らしたという。
長政と結婚していた信長の妹小谷(おだに)の方(かた)は娘とともに信長にひきとられた。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)「浅井長政 姉川の戦い後も信長にとって脅威か 書簡見つかる」(関西 NHK 8月21日)
『日本の歴史12 天下一統』より「小谷落城」を転記しますφ(..)安土の天主
小谷落城
天正元年(1573)8月、信長はいよいよ宿敵である浅井・朝倉両氏の討伐をめざして近江に入った。
朝倉義景は長政をたすけるため近江の木之本・田部山(たべやま)に出陣したが、信長はその援路をたって陣を山田山に移し、ついで大嶽(おおだけ)を攻略し、丁野山(ちょうのやま)をおとしいれたので、義景も陣を撤して越前にはしった。
信長はいっきょにこれを追撃して敦賀(つるが)にいたり、さらに府中竜門寺(ふちゅうりゅうもんじ)に兵をすすめ、一乗(いちじょう)ヶ谷(たに)に放火させ、平泉寺(へいせんじ)にむかった。
平泉寺宗徒はまた信長に応じてこれを導き、一族景鏡(かげあきら)の叛心によって義景は山田荘賢松寺(やまだのしょうけんしょうじ)に包囲され、ここで自殺した。
41歳であった。
(『日本の歴史12 天下一統』林屋辰三郎 中公文庫 2005年)
朝倉氏はその祖広景(ひろかげ)の入国してより11代230年、敏景(としかげ)が斯波(しば)氏の守護代となってついに一国の領有に成功し、文明3年(1471)、越前守護に任ぜられてからまさに1世紀、その間、「朝倉敏景十七箇条」など領国支配にすぐれた実績をのこしながら、ここに滅亡したのである。 朝倉氏をたおした信長は、引き返して虎御前山に陣し、さらに浅井久政(ひさまさ)・長政父子を小谷城に攻めた。
この時期には信玄の陣没、義昭の出奔などにより、浅井氏の内部にも信長に内心するものがあらわれ、父子の館の真中に位置する京極郭(きょうごくつぶら)がまず秀吉の手におち、父子の居所の連絡をたたれ、父久政の自決をきいて、翌日、本城の長政もまたこれにしたがった。 小谷城は山深く天嶮(てんけん)をもって知られていたが、当初から朝倉と同盟関係をむすび、頑固な父久政と、信長の妹お市(いち)の方(かた)を妻として三女をもうけている穏和な子長政とが並び立つという人間関係に、大きな苦悩をはらんでいた。
長政との婚姻関係は、さすがに信長の鉾先をにぶらせていた。
執拗な城下の放火はそれを示し、また降伏の勧告をも意味していたともいえよう。
しかしそれらはすべて逆効果で、久政は最後まで初志をかえず、長政もこれにしたがい、ついに妻子は秀吉の手によって信長に送還するという処置をとった。
こうして小谷の方(お市)と三人の女子は信長のもとにひきとられた。
ここで滅ぶにはお市の方はあまりにも美しすぎたのである。
戦国のさなかでも、日本には美と伝統にたいして政治や戦争を超越した価値をみとめる考え方があり、それを犯し滅ぼしたものは極悪非道として非難され、反対にそれを守り通した話はしばしば佳話(かわ)として伝えられる。
細川幽斎(ゆうさい)が石田三成(みつなり)のため丹後田辺(たんごたなべ)城に包囲されたとき、古今伝授(こきんでんじゅ)の伝統の断絶を惜しんで囲みが解かれたという話題も、同様な考え方であろう。
小谷の方のばあいにも、彼女の意志ではなかったし、むしろきわめて哀切な話話題ではあるが、仇敵として相戦う夫と兄とが、この一点で心を通わせることができたのだともいえよう。
これを愛情というならば、夫にも兄にも真の愛情がなかったのだという結論におちついてしまう。
この夫と兄は、当時の、あるいは四百年後の大衆とともに、ひとりの「美」がまもられたことに安らぎを見出したのであろうか。
信長は、浅井氏の分国を羽柴(はしば)秀吉にあたえた。
その平定にもっとも功労があったことを認めたからであるが、近江の位置からみても信長の信頼のほどがうかがわれるのである。
秀吉はこのころから羽柴の氏をもちいはじめたが、これは信長の部下の丹羽長秀・柴田勝家の二人の姓から一字ずつとったもので、両人をあわせたような武将を理想としたといわれている。
かれ自身の考えというよりも信長の命名であろう。
そして新しく小谷城主として18万石を領するにいたったので筑前守(ちくぜんのかみ)の受領(ずりょう)名をもゆるされ、羽柴筑前守を称することになった。 信長は9月4日、部将佐久間信盛に命じて近江菩提寺(ぼだいじ)城を攻略し、六角承禎(ろっかくしょうてい)を同国石部(いしべ)城にかこむとともに、かれ自身佐和山にいたり、承禎の子義治を鯰江(なまずえ)城に攻めて敗走させた。
かくして信長は軍をめぐらせて岐阜にもどった。 天下一統の信長の日程は、近江でよほど時間をくった。
いわゆる「天下」としての京都は完全に支配下においたものの、最大の強敵は石山本願寺につながる伊勢・越前・加賀の一向一揆の勢力である。
そのため信長は越前を再征せねばならないので、まず9月24日に伊勢の一向一揆を征討して同国西別所(にしべっしょ)・深谷部(ふかやべ)などの一揆をくだし、翌天正2年(1574)7月にも出陣してその諸城を攻略し、ついで大鳥居(おおとりい)を攻めてこれをおとしいれ、拠点願証寺(がんしょうじ)にせまった。
信長がこのように攻勢にでると、顕如(けんにょ)は武田勝頼に長島赴援を請う。
勝頼がこれを諾(だく)して天竜川畔に出陣すると、家康もまたこれに備えるという形で、しだいに大きな波紋がつくられるのである。
しかし伊勢の門徒は8月29日、ついに信長に和を請い、退城したので、信長は北伊勢を滝川一益(たきがわかずます)に宛行った。
つぎの舞台は越前である。
信長の朝倉討伐後、国内の不安がいちじるしく、天正2年正月には一向一揆の蜂起によって、信長は秀吉を敦賀につかわし、これに備えしめねばならぬくらいであったが、顕如は坊官の下間頼清(しもつまよりきよ)をして坂井(さかい)郡豊原寺(とよはらでら)に陣し、一揆軍を督励させることになる。
その間、顕如は4月2日、兵をあげて信長に抗し、三好康長(やすなが)・遊佐信教(ゆさのぶのり)らも河内高屋城に拠ってこれに応じ、信長をしてふたたび出陣せしめた。
しかしこれは一種の陽動作戦で、康長・信教らはまもなく信長に降伏した。
平泉寺に拠って越前一揆と戦っていた朝倉一族の朝倉景鏡は、4月にはついに支えられず自殺し、これにともなって朝倉氏の残党もことごとく降伏して、越前は一向一揆の領国化してしまったのである。
(『日本の歴史12 天下一統』林屋辰三郎 中公文庫 2005年)今朝の父の一枚です(^^)v
今まで使っていたコンデジの調子が悪いので、メモ用に使っているコンデジを使ってもらいました。
ボタンが小さくて、テレビに接続してみる機能がついていないので
後日、使いやすくて、安いコンデジを探しに行こうと思っています。