公園の東屋にある温度計
8時半頃にはすでに30度を超えていました(^-^;
右側はギックリ腰で、左側は坐骨神経痛ですが、歩くことはできます。
ただ、椅子などから立ち上がる時に、痛みがあり辛い。
しばらくしてから歩くことができます。
「きょうも暑い1日 熱中症に警戒」(関西NHK)
「コロナ感染 1日最多の159人」(沖縄 NHK)
10万人あたりの感染者は沖縄が一番高くなっているのだけど
「都道府県ごとの感染者数の推移」(NHK)を見ると
4月30日から60日以上感染ゼロの日が続いていました。
素人の考えですが、一気に感染者が増えた理由は二つあると思います。
「GoTo 感染者拡大キャンペーン」と「米軍関係」
いずれも政府は、感染が広がると危惧されているのに強行したり、
米軍への腰の引けた態度だと思います。
忽那賢志さんが「国内旅行は新型コロナを広げますよ」と仰っています。
「国内旅行は新型コロナ拡大のリスク Go To トラベルを安全に楽しむには」(忽那賢志 8月2日 Yahoo!ニュース)
昨日の番組NHK映像ファイル あの人に会いたい「アンコール 林京子(作家)」
NHK映像ファイル あの人に会いたい「アンコール 林京子(作家)」
林京子さんは長崎県立高等女学校3年(14歳)の時に被爆しました。
学徒動員先に兵器工場(三菱兵器大橋工場)は爆心地から1.4キロ。
しかし、爆風で、机の下に飛ばされ奇跡的に助かりました。
林京子:
急降下か急上昇の飛行機のものすごい爆音を聞いて、その次の瞬間はもう気が付いたときは真っ暗な状態で
バラックの木造の工場だったんですけれど、下敷きになって潰れてしまいまして
材木が上にたくさん重なっているということはわかった。
それを一つ一つとって出たんですけれど
髪の毛、皆あのとき女学生、編んでいましたので
この分け目にガラスがずっと刺さっていましたね。
それで抜きながらずっと逃げていって
工場から出ました広場のところで
子どもたちが防空ごうを掘っていた
その子たちが皆やけどしましてね
抱き合って声にならない声ですね
おーおーというような感じで泣いているのか
何かわかりませんけれどしゃがみこんでいる
そういうのを見ながら、けがをしているところを自分の手に
その子が手にけがをしていると、私も手をなでてみて何もない
顔をやけどしていると顔をなでてみて何もない
一つ一つ確かめてずっと山まで逃げていった
ですからあのとき程自分の命を一つ一つ
こう丁寧に拾って逃げたという意識はいまだかってない
被爆直後は、生き残った喜びを素直に感じた林さんでしたが、
それは間もなく恐れへと変わります。
止まらない嘔吐(おうと)や、抜けていく髪。
急性の原爆症でした。
生き延びた学友も10月の始業式までに次々と亡くなりました。
学校全体で170名以上が犠牲になったのです。
林京子:
追悼会から2学期が始まった。
そのときに周囲にぐるっと亡くなった方の父兄たちがいらしてて
生き残った私たちが真ん中でその追悼会をした。
すすり泣きがずーっと中心に向かって、こう責めてくるような感じで
生きているのが当たり前としてずっと生きてきたけれど
8月9日以後はそれが逆転しまして
生は当たり前じゃなくて、死が当たり前になってきた。
(20年後位にやっと原爆と向きあえるようになり)
原爆が生んだ苦しみを伝えたい。
生き残った者としてカルテのように書き残すべきではないか。
林さんの実体験をもとしにした小説『祭りの場』(芥川賞受賞)です。
まるで記録を残すように書きつづります。
肉の脂がしたたって、
はちゅう類のように光った。
小刻みに震えながら、
いたかねえ、いたかねえ、
とおたがいに訴えあっている。
「祭りの場」より
書いていって、皆、余計な言葉に思えるんです。感傷に思えるんです。
ですからどんどん削っていきます。
(8月)6日9日はずっと歴史の中に残っていきますけれど
少女とか先生がこういう状況でこうして死んでいったということは忘れられるだろうと
それは私には耐えられなかった。
(核がもたらす)大きな死、人為的な死。
それに対して私は、ノーと言いたい。
ダイジェストが「あの人に会いたい 林京子」
8月9日
イタイイタイ病裁判で原告が全面勝訴した。 1972(昭和47)年
この日、名古屋高等裁判所金沢支部の法廷は、水を打ったような静けさが支配していた。
いま、全国の注目を集めて、神通川(じんづうがわ)下流域の農民たち522人が三井金属鉱業を訴えたイタイイタイ病裁判の判決が言い渡されようとしていた。
原告席にはイタイイタイ病で背丈が30センチも縮んだ小松みよさんら3人の患者がならんだ。
裁判長は判決文を読みあげ、会社の主張を退けて農民のいい分を全面的に認めた。
法廷の内外は勝訴の喜びにわきかえった。
農民たちが主張したのは、神岡(かみおか)鉱山から神通川に流されたカドミウムが、農民の体に入り蓄積されて骨を冒(おか)し、しびれや痛みをもたらし、ついには骨をボロボロにしてしまうということだった。
4年間にわたって争われたこの裁判は、新潟・熊本の水俣病、四日市ゼンソクとならんで四大公害裁判と言われる。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)
「四大公害病」(小学5年 動画)
広島、長崎で被爆して助かった人々は「原爆症」に苦しみ、差別されました。
水俣病やイタイイタイ病などは「奇病」として怖れられ差別されました。
現在は、新型コロナに感染した人たちが差別や偏見に苦しんでいると聞きます。
天候が左右した原爆投下
広島に原爆が投下されたのは、1945年8月6日午前8時15分。
B29「エノラ・ゲイ」から投下されたウラン爆弾、通称「リトルボーイ」は、上空約580メートル地点で炸裂、熱線・爆風・放射線という巨大なエネルギーとなって広島の街と人々を襲った。
(『戦中・戦後の暮らしの記録 君と、これから生まれてくる君へ』暮らしの手帖社 2018年)
世界で初めて使用されるその爆弾の効果を、米軍ははっきりと確認したかった。
そのため、天候を確認し、晴天予報のあった6日に実施が決まった。
長崎に投下されたのは、その3日後の8月9日午前11時2分。
B29「ボックス・カー」から投下されたのは、広島に落とされたのとは異なるプルトニウム爆弾、通称「ファットマン」。
上空約500メートル地点で炸裂した。
被害者数や罹災家屋は広島のほうがかなり多いが、爆弾そのものの威力は、長崎に落とされたプルトニウム爆弾のほうが強力だった。
二度目の原爆投下は、当初、8月11日に予定されていた。
しかし10日から天候が崩れるという予報によって、9日に繰り上げられる。
その第一目標地は小倉だった。
だが、上空からの視界が悪かったため、急遽、第二目標地の長崎に変更された。
原爆投下の候補地としては、ほかに京都、新潟などが挙がっていたといわれている。
(『戦中・戦後の暮らしの記録 君と、これから生まれてくる君へ』暮らしの手帖社 2018年)『原爆句抄』より「あとがき」を転記しますφ(..)
松尾あつゆきさんの娘みち子さんも、県立長崎高等女学校3年生でした。
「長崎の原爆俳人・松尾あつゆきさんの日記から(その2)」(高校生1万人署名活動熊本県実行委員会 2017年11月2日)
あとがき
昭和20年8月9日被爆、妻と三児を失い、重傷の長女と共に、矢ノ平の妻の実家に世話になった。
そこは爆心地から遠かったけれども、爆風のため屋根などがかなり傷んでいた。
この年は台風が多く雨漏りがひどかったので、日夜寝たきりの娘のふとんの上にはアンペラをかぶせ、顔には傘をさしかけて置かねばならなかった。
その上、停電が続いたので、皿に種油を入れ、古綿をひねって芯として、暗い灯をともした。
娘の傷は両手両腕のヤケドがひどく、日がたつにつれて皮膚が腐れて、いちめんに緑色のウミがこびりついていた。
肘のところでは白い骨が見えた。
しかし医者も病院も自宅で養生中の者には手が及ばなかったので、手当としては、別居していた祖父が毎日来て、硼酸軟膏を塗ってくれるのを、頼りにするほかはなかった。
それでも、毎日根気よく塗っているうちに、しだいにウミがとまり、傷が乾いてきて、十一月末になると、ようやく肉が固まってきた。
もちろん皮膚は無くなっていて、テカテカ光る肉のまま、固まったのである。
腕がまがらず、手の指は動かなくなっていた。
腕は練習によっていくらか曲り、指は昭和二十二年佐世保の病院で手術して、太腿から手の甲へ皮膚を移植して、やや自由を得たけれども、顔面のケロイドと腕の火傷のあとは永久に消えない。
(『原爆句抄』松尾あつゆき 書肆侃侃房 2015年)
当時最悪の食糧事情の下で、瀕死の娘が、どうにか体力を回復したのは、毎朝欠かさず呑んだ新鮮な牛乳のおかげと思う。
入手困難な牛乳を求めるために、朝早くから牧場に並んでくれたのはK君であった。
彼のことは「爆死証明書」にも書いたが、その献身的行為にはただただ頭が下るばかりであった。
日夜生死の間をさまよう長女を看護しながら、私は八月九日にはじまる日記を書きはじめた。
かかる重要な時期に職務を放棄したというので、勤先は首になっていた。
死にかかっている子を離れる訳には行かなかったから、人の悲運に追討ちをかける此の処置には悲憤の涙がこぼれた。
日記をつけることは、このみじめな気持を救ってくれた。
被爆以来のきびしい現実に直面し、内省することによって、再び生きる力を取り戻したのである。
また、この日記には、後に俳句や手記を書くときの、いわば原点となった。
今でも読みかえすと、その生々しさに、我ながら驚くのである。
昭和二十年十一月末、私たちは佐世保市外、佐々町の木場に移った。
ここは私の出生地だが、幼いときに長崎に貰われて来たので、知り合いは少ない。
戦後二人の兄が帰郷して、私にも来るようにすすめたのだ。
私は少しの畑を分けてもらって、この山村で一生を終ってもいい、と考えた。
(これがあまい考えであることは直ぐわかった。)
翌年になると、娘の在籍校から、出席日数が足らないから、登校しないと進級させない、と通知してきた。
工場に学徒動員中に被爆して養生中なのに、むごいことを言うものであった。
娘は手が利かないまま、決然として長崎の学校へ行った。
一人のこされた私は、農家の納屋の二階にこもって、俳句の推敲に気をまぎらわした。
私の俳句は、昭和初頭より荻原井泉水に師事、精進してきた自由律俳句である。先輩に尾崎放哉、種田山頭火がいる。
私は俳句を激動する時代の心の支えとし、戦争の緊張の中にも平和な家庭をきずいていた。
たしかにものの芽ぶく夜のあめサーチライト
これらの大切なものが原爆のため一瞬に消滅した。
こときれし子をそばに、木も家もなく明けてくる
私の句は未練、執着、愚痴の繰返しになり、そこから抜け出すことができなかった。
又、脱け出そうとも思わなかった。
私はまず、運命を共にした長崎の人々に見てもらいたかったので、戦前からあった「長崎文学」に原稿を送った。
しかし、間もなく返送されて来た。
田舎に住んでいた私には事情がよく判らなかった。
「句集長崎」は七二五人、二二〇〇句を収録したアンソロジーで、これによって私の句は一般に知られ、今日に至るまで屢々他誌に転載、引用されている。
ここでは占領軍の検閲はなかったが、印刷事情がきゅうくつのため、同年おそく、十二月の冬季号に「原子ばくだんの跡」と題して掲載された。
やっと日の目を見た訳である。
昭和二十三年再婚。娘も結婚した。
これより先、私は山村の生活に自信を失い、佐世保を出て高等学校に奉職していた。
しかし、心の痛手を癒して、新しい生活に入るには、被爆地を遠く離れるに如かず、と考え、幸いつてがあって、長野県の高等学校に転任した。
そして、じっさい、風土、人情の全く異なる信州に来てみると、亡き子達はどこか遠い、知らぬ土地で元気で暮しているような錯覚を抱くのであった。
仏としてまつり、朝夕拝んで、おろそかに思っているのではないけれども、なにか切実でないのだ。
今考えると、奇異な感じがするが、思うに、新しい環境にとびこんだ私は、それに同化するのにいっしょうけんめいで、目が外に向っていたのだ。
俳句にしても、信濃の国の風物に魅せられて、数多くの作品を得たけれども、子をおもう俳句はほとんど生まれなかった。
本書「原爆句抄」を編むにあたり、慚愧の念がひしひしと胸に迫り、子にすまないと思う一方、自分が哀れに思えてならない。
(…略…)
昭和三十六年、定年退職になって、長崎へ帰る。
(…略…)
じっさい、長崎にもどると、久しく分かれていた子供達にめぐり会ったようなものであった。
もう彼らは私から離れていないで、私の胸の中に住みつき、どこへ行くにもいっしょであった。
対話がはじまった。
対話から俳句が生まれてきた。
私には子をおもう句が多い。
子を失った人は私ばかりでなく、私以上のものを失った人も多いから、あまりに子に執着する私をわらう人もあろう。
しかし、私の気持はただの子煩悩ばかりではないつもりだ。
「子のゆきし日の暑さ」の中で私はこう言った。
「あの時、実に沢山の子供の死体を見ました。丸裸で、手足をちぢめて、道ばたにごろごろころがっている。……実にかわいそうだなあということを感じたのが、深くこびりついていると思います。少なくとも大人には死ぬわけが、理由がわかっておった訳です。ところが子供には何のことやら全然わからなかったと思います。
そういうのを殺した大人たちというものは、よほど……考えなければならない、そう思うわけです。」
(後略)
(『原爆句抄』松尾あつゆき 書肆侃侃房 2015年)