昨日は、二十四節気の処暑で七十二候では「綿柎開(わたのはなしべひらく)」だそうです。
昨日は夜中の気温が26度前後だったからほんの少し涼しかった。
でも今朝は、夜中の気温が28度前後だとやはり暑いな…
読むたびに読みたくなる本が増えるのですが(*´▽`*)
岩波書店のTwitterに
【今日の名言】
腐敗した善から発散する臭いほど鼻もちのならぬものはない。
――ソロー『森の生活』(上)
昨日の鷲田清一さんの「折々のことば」(2020年8月23日)に紹介されていたのが
脳みそに風をとおし
はらわたを樹(き)にひっかけて干し
手は椅子の上に投げ出しておこう
足は思う所へ行くがいい
(矢沢宰〈おさむ〉)
10代の半分以上を病院の寝台の上で過ごし、500篇(ぺん)もの詩を残して21歳で逝った矢沢は、もし秋が「もっと青い空」を運んできてくれるなら、その時は「体を分解してみよう」と、詩「ある秋の日に」に書いた。
体は寝台に括(くく)りつけられていても、感覚だけは自然の中に心ゆくまで放っていたかった。
『矢沢宰詩集 光る砂漠』から。
鷲田清一さんが紹介している矢沢宰。
もう本は、絶版になっていると思っていたけど思潮社から出ているのですね。
童心社の版から
風が
あなたのふるさとの風が
橋にこしかけて
あなたのくる日を待っている
(『光る砂漠』詩・矢沢宰、編・周郷博 童心社 1969年)
矢沢宰について紹介しているHP「生命の詩人・矢沢宰」
一遍について柳宗悦の『南無阿弥陀仏』から紹介しましたが、
今日は梅原猛さんの〝梅原猛の新「授業・仏教」第12講「一遍」〟を転記したいと思いますφ(..)
このシリーズは『梅原猛、日本仏教をゆく』として文庫化されていますが、こちらも絶版になっています。
梅原猛の新「授業・仏教」第12講「一遍」
こだわりの心を捨て念仏と旅に生きる
一遍の父は河野通広(こうのみちひろ)といい、源平の戦(いくさ)に勇名を馳(は)せた河野水軍の一族である。
しかし一族は承久(じょうきゅう)の乱で上皇(じょうこう)の軍に加わり、乱後、祖父通信(みちのぶ)をはじめとする多くの人が流罪(るざい)になった。
父の通広が流罪を免れたのは、通広が法然の弟子証空(しょうくう)の弟子となって出家していたからであろう。
(『仏教を歩く 12号 一遍』朝日新聞社 2003年)
一遍が10歳のときに母が死に、父の命によって隨縁(ずいえん)という僧になり、13歳で筑前(ちくぜん)の聖達(しょうたつ)の弟子となった。
隨縁は、聖達と彼の推薦した華台(けだい)のもとで学び、名を智真(ちしん)と改め、25歳にして父如仏(にょぶつ)の死によって伊予(いよ)に帰国し、還俗(げんぞく)して、別府七郎左衛門通尚(べっぷしちろうざえもんみちひさ)と称した。
しかしその4年後、1267年(文永<ぶんえい>4)、彼は無常を感じて再び出家し、修行を重ねた。
そしてついに1274年(文永11)、彼は超一(ちょういち)、超二(ちょうに)、念仏房(ねんぶつぼう)の3人を伴って遊行の旅に出る。
超一は彼の妻であり、超二は彼の子供であろう。
彼らは四天王寺や高野山を経て熊野に参ったが、すでに念仏の行者(ぎょうじゃ)であった一遍は、熊野で「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」と書かれた極楽往生(ごくらくおうじょう)を証する札を賦(くば)ろうとすると、一人の僧が、自分は信じる心が起こらないから受け取れないといった。
一遍は、もしもこの僧が受け取らなければ、そこにいる人たちも受け取るまいと、僧に札を与えたところ、そこにいた人たちもみな受け取った。
その夜、夢に熊野の神が山伏姿で現れ、「あなたの勧めで衆生(しゅじょう)の往生が可能になるわけではない。それはすでに阿弥陀仏によって決定(けつじょう)しているのだから、信、不信を問わずその札を賦りなさい」と一遍に告げた。
私はこのときが、一遍が法然や証空を超えて一遍独自の浄土教を確立したときであると思う。
衆生の極楽往生はすでに阿弥陀仏によって決定されているので、心などというものを問題にする必要はない。
法然は念仏の信者がもつべき至誠心(しせいしん)、深心(じんしん)、廻向発願心(えこうほつがんしん)について論じているが、一遍は、心を問題にすればいよいよ迷いを生じるので、心にこだわることを一切やめ、念仏して南無阿弥陀仏と一体になれという。
しかしそのためには地位や財産はもちろん、妻も子も捨て、遊行すなわち乞食(こつじき)の行をしなければならないという。
この熊野での神のお告げによって一遍は妻子を捨て、一人になり、遊行の旅に上ったのであろう。
「一遍聖絵(ひじりえ)」には以後、超一、超二、念仏房の姿はなく、超一、超二がその後どうなったかはひとことも語られていない。
そしてこのときから智真は一遍と名乗った。
こうして一遍はあちこち一人旅を続けるが、やがて一遍と一緒に遊行の旅をする弟子が増える。
そしてそのなかにはどこにも行き場のない、生活の手段をもたない僧や尼も加わる。
食にありつく興行の面も
この遊行の旅が大きく変わるのは信濃(しなの)の佐久(さく)においてである。
念仏を称(とな)えていた時宗(じしゅう<弟子>)の僧たちが歓喜のあまり踊り出す。
つまり阿弥陀仏に救われて極楽往生できるという喜びが自然に踊りの輪になったわけである。
踊り念仏は、一遍が深く尊敬する空也(くうや)によって始められたものであるが、この佐久において、図らずも空也の踊りが一遍の踊りになった。
こうして踊りは、生きるすべのない多数の僧尼を抱える一遍にとっては食にありつく興行ともなり、ついにこの踊り念仏の興業が寺や仮設の小屋で盛大に催されるようになる。
そしてこの踊り念仏を興行とする一遍という捨聖(すてひじり)の噂は広まり、一遍が東国から帰り都において踊り念仏を興行したとき、上下の人がそれを見にきて、混乱きわまりなかったことが「一遍聖絵」に記されている。
その絵を見ると、喜々として踊り狂っている人々のなかにあって、一遍一人深い孤独を秘めて遠くを見つめるような顔で踊っているように思われる。
こうして京都を経てまたあちこち旅を続け、1288年(正応<しょうおう>元)、彼の祖先の祀られている伊予(いよ)の大三島(おおみしま)神社に詣(もう)で、翌年、讃岐(さぬき)の善通寺(ぜんつうじ)から阿波(あわ)に行き、淡路から兵庫の観音堂(かんのんどう)に移り、そこで病が重くなり、51歳の生涯を終えた。
……続く……
(『仏教を歩く 12号 一遍』朝日新聞社 2003年)
今朝の父の一枚です(^^)v
アオサギの若い鳥が稲の成長を点検していました(*´▽`*)
公園の稲はまだまだですが…
「滋賀で早くも新米の出荷始まる」(関西 NHK)