2020年8月8日土曜日

残暑見舞いの時期ですが…

 

梅雨が明けて立秋も過ぎて、暑中見舞いから残暑見舞いの時期になりましたが
残暑というよりも本格的な暑さはこれからですよね(^-^;
これも地球温暖化の影響なんだろうなぁ…
マスクが冬の季語でなくなったように
季節の挨拶も変わらざるを得ないのと違うかな?

お父さんが1歳位の子どものサポートをしていましたp(^^)q
上に着いた後、汗をぬぐっていました。
マスクをしていると体温が上がる…
腰も痛いのと違うかな?
別の所では、お母さんが3歳位の男の子を抱いて歩いていました。
途中でグズッたのだと思うけど、お母さんは汗をいっぱいかいているみたいでした。
水道場で休憩した後、男の子は歩いていました。
ニュースになるのは暗い事件ばかりだけど、
多くの親は汗をいっぱいかいて頑張っている!

アブラゼミの翅を一匹のアリが運んでいました。
アリの体重を考えるとどれだけ重いものを運んでいるのだろかとビックリする!
それも動きが早くて、重い荷物を運んでいても腰痛にならなのだろうかと思う。

実は、木曜日にクシャミをしてギックリ腰になり、さらに金曜日にもクシャミで痛みがました(-_-;)
椅子から立ち上がる時に痛みが走るけど、動けなくなる痛みでないので歩いている。
腰痛になった理由の一つに座っている時間がふえたからかなと思っている。
これまで午後からも図書室などへ資料調べに行っていたけど
今は、午後はもっぱらパソコンに向かっている。

今朝のニュースで長崎県出身のMISIAさんへのインタビュー(17:27頃~)がありました。
幼い頃、戦争経験した祖父から話を聞くことで平和について考える機会が身近にあったそうです。

MISIA)
たとえきれいな洋服が着られなくても
たとえぜいたくができなくても
少し何か我慢しなければいけないことがあったとしても
戦争で亡くなったり
戦争で誰かをあやめなければいけない状況になってほしくない
だからこそ大人には、私たちが大人になるまでこの平和を守ってほしいし
私たちも大人になったら
この平和を守っていかなきゃいけないと感じた


長崎が原点にあるMISIAさんは、10年以上にわたり取り組んでいるのが、
紛争や貧困が今も続くアフリカへの支援です。
みずから財団を設立。
ユニセフとも協力し、子どもへの教育支援などを行っています。

MISIA)
戦争はまだ過去のものになっていないということを
私たち自身が自覚して世界のことを知っていくことが大切だと思います。
戦争はここに転がっているものではなくて、戦争は人が起こすもの。
平和もここに転がっているわけではなくて、
平和は人間がみんなで作り上げていくものなので
そのためにはみんなで学んで、みんなで行動していくことがすごく大切だと思います。


“音楽がある場所には戦いはない”という言葉もあるんですけども
(音楽は)人と人の心を平和に温かく結びつけてくれる。
そして元気をくれるものだと思います。
その音楽を通して皆さんに力をパワーを伝えられたらいちばんいいと思います。
心を込めて歌い続けていきたい


配信期限 :8月15日(土) 午前7:30 まで

一般財団法人mudef

安田菜津紀さんのTwitter

日本の猫の日といえば2月22日ですが、今日8月8日は「世界猫の日」なんですね…!ということで、うちの家族になってくれた「りんご猫」のゆうくんの記事を改めて。
「りんご猫って?」という方もぜひ。

#世界猫の日

知ってほしい、「りんご猫」たちのこと〟(2018.12.12)

8月8日
 院内(いんない)銀山で播磨(はりま)の長吉(ちょうきち)ら5人が牢屋に入れられた。 1613(慶長<けいちょう>18)年

 この日の夜、出羽(でわ<秋田県>)院内銀山で、播磨の長吉・大坂の与市(よいち)・石見(いわみ)の九兵衛(きゅうべえ)など5人が、山奉行(やまぶぎょう)梅津政景(うめづまさかげ)により牢屋にいれられた。
長吉はお金や衣服などを盗み、与市といっしょに湯沢(ゆざわ)に逃げたところをつかまったのである。
院内銀山は、出羽山地奥深くの鉱山町だが、当時は大変にぎわって、人口も7、8千人に達していた。
長吉たちも、山師(やまし)町人、大工・かなこ・ほりこなど全国からやってきた鉱山関係者であった。
鉱山町の出入りはきびしく、役所の許可なく通ることができなかった。
調査の結果、与市と長吉は、4日に役所の役人をだまして通りぬけ、九兵衛がこれの手助けをしていたことがわかった。
与市は7月24日にも馬方の姿で無法に出入りしていたことがばれてしまった。
このため、長吉・与市・九兵衛の3人は、9月2日に斬首(ざんしゅ)された。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)

院内/院内銀山」(湯沢市ジオパーク推進協議会)

 「石見銀山」(小学6年 動画)

日本の歴史16 天下泰平』より「三貨制度」を転記しますφ(..)
文化面で平安時代に「国風文化」が生まれ、中国文化を消化・吸収し日本の文化の独自性が生まれました。
一方、経済面では江戸時代になって中国文明圏からの自立が可能になったようです。

第五章 都市社会の成立
 三貨制度

 関ヶ原戦後の慶長6年(1601)、家康は、秀吉が大坂で湯浅常是(ゆあさじょうぜ)らに開かせていた銀座(ぎんざ<銀貨の鋳造・改所(あらためじょ)>)を伏見に移した。
「天下一統丁銀遣(ちょうぎんづか)い」をはかるため、佐渡(さど)・生野(いくの)・石見(いわみ)などの幕府直轄鉱山からの銀(公儀灰吹銀<はいふきぎん>)を集めて、ここで一定の品位で吹きなおした丁銀・豆板銀(まめいたぎん<小玉銀(こだまぎん)>)を作り、品位証明として常是に大黒(だいこく)の極印(ごくいん)を打たせた。
その後、慶長11年(1606)には駿府にも銀座を開き、さらに13年には伏見銀座を京都に、17年には駿府銀座を江戸に移転させた。
江戸の銀座は京橋から南へ四町を拝領し、うち三町には銀座役人の居宅や常是の吹所(ふきしょ)が置かれ、一町には両替商人が集住した。
その後、大坂高麗橋(こうらいばし)一丁目にも銀座が設けられたが、銀貨鋳造はせず、京都の「出店」として機能した。
また、長崎にも慶長末年頃、銀座が置かれたが、これは銀座鋳造の丁銀より良質の灰吹銀(地銀)が海外に流出するのを防ぐためのものであった。
当時はまだ諸国の灰吹銀も多く、独自の領国貨幣として流通させていたところもあったが、藩の上方(かみがた)や江戸での支払い手段や幕府運上としてはあらためて幕府貨幣に換えねばならず、17世紀後半までには吸収、禁止されていった。
(『日本の歴史16 天下泰平』横田冬彦 講談社学術文庫 2009年)

 他方、金座(きんざ)については、文禄(ぶんろく)4年(1595)、秀吉政権のもとで天正大判を鋳造した後藤四郎兵衛(ごとうしろべえ)家から、後藤庄三郎光次(ごとうしょうざぶろうみつつぐ)が江戸に下向、御金改役(ごきんあらためやく)として、日本橋本町一丁目(現在に日本銀行所在地)に屋敷を構えて小判を鋳造、品位証明として「武蔵(むさし)」の墨書(ぼくしょ)を入れたのに始まる(金座後藤)。
関ヶ原戦後、量産できない墨書小判に代えて、極印打ちの小判とその四分の一である一分(いちぶ)判を大量鋳造した。
これらによって、小判・一分判の金貨と、大黒の極印を持つ丁銀・豆板銀の銀貨とが幕府統一貨幣として確立することになり、中世以来流通している渡来銭とあわせて、慶長14年(1609)には、関東幕領を中心に金一両(りょう)=銀五十匁(もんめ)=永楽銭一貫文(かんもん)=鐚銭(びたせん)四貫文の相場が公定された。
なお、家康は天正大判にならって慶長大判を京都の後藤四郎兵衛に作らせた。
大判はあいくまで賞賜(しょうし)・贈答や軍資金用として使われるもので、四郎兵衛家はのち寛永2年(1625)に江戸詰めを命じられて本白銀(ほんしろがね)三丁目に屋敷を与えられるが、金座・銀座のように勘定奉行支配に属さず、大判座彫物師として腰物(こしもの)奉行支配に属した。

 銭ついてはどうであろうか。
銭は、製造コストが貨幣価値を上回りかねない小額貨幣であり、慶長金銀の公定鋳造にもかかわらず、幕府貨幣として鋳造が試みられた形跡がない。
むしろ中世以来の渡来銭を撰銭令(えりぜにれい)によって規制することで、その代役を果させようとした。
ただ幕府にとって特にその規制が緊急を要したのは、上洛・参勤など、領国を越えた武士団の移動が恒常化する中で、街道の宿駅整備とも関わって、馬・人夫の賃銭などの安定的通用を確保するためであったことが指摘されている。

 寛永13年(1636)、江戸と近江坂本(さかもと)で寛永通宝(かんえいつうほう)の鋳造が始まった。
翌年には銅の海外輸出が禁止され、水戸・仙台・吉田・松本・高田・備前(びぜん)・長門(ながと)・豊後(ぶんご)の諸藩にも見本が渡され鋳銭所(ちゅうせんじょ)が設けられ、寛永17年(1640)までに275万貫が鋳造された。
寛永通宝は従来の鐚銭と全く同じ金一両に四貫文で通用すべきとされ、古銭の通用が禁止された。
いま銀に対する銭相場をみると、鋳造前、元和から寛永9年頃までは銭四貫文あたり64匁~72匁ほどで比較的安定していたが、寛永11年(1634)には88匁、12・13年には96匁へと高騰している。
おそらくその直接の契機となったのは、30万人の軍勢を率いた家光の上洛であろう。

 しかし、長期的にみれば、銭相場は関ヶ原戦後から断続的に上昇しており、全体としていえば経済の拡大に対して小額貨幣の銭が慢性的な不足状態にあった。
しかも、中世には大量に輸入していたはずの銅銭が、この時期には輸出品に変わっており、こうした銭不足状態は、明(みん)末の混乱にともなう東アジア全体の動向でもあった。

 鋳造開始にともなって、寛永14年(1637)に96匁水準であったものが、15年84匁、16・17年64匁、18・19年48匁と急速に下落してきており、新銭の量産とその出回りの速さが注目される。
当初幕府は、街道筋の宿場に新銭を拝借させる形で普及をはかったのであるが、ここにきて寛永19年(1642)には、寛永飢饉の最中でもあり、宿場賃銭の安定化をはかるため、一時的に銭の買い上げを行っている。
その後正保3年(1646)頃までは48匁であったが、再び上昇に転じ万治元年(1658)には80匁となる。
明暦2年(1656)には江戸・駿河でさらに50万貫が鋳造され、寛文8年(1668)からも197万貫が鋳造され、以後、48~64匁あたりで落ち着くことになる。
それは、貨幣鋳造コストにもかかわらず、中世まで中国銭によって担われてきた日本経済が独自の通貨によって支えられる経済圏として、いわば中国文明圏からの自立が可能になったことを示すものであった。
(『日本の歴史16 天下泰平』横田冬彦 講談社学術文庫 2009年)

今朝の父の一枚です(^^)v
梅雨明け以後、雨が降りません。
さすがのヒマワリも下を向いています…

3連休中も暑さ続く」(えりの気象日記 8月7日)