夜も熱帯夜でほとんど29度あたり…
朝に来てもすでに30度を超えている(^-^;
いつも利用している駐車場の入口にある発券機が故障しているようで数台車が待っていました。
発券機もこの暑さにバテたのかな?
別の駐車場に車を止めて、いつもと違う入口から入ると
「“いま”ひつような人とのきょり」の横断幕。
2m以上の距離が取れる時はマスクをずらしています。
「熱中症を防ぐために マスクをはずしましょう」(厚生労働省)
「14日から体温以上の暑さ続く」(えりの気象日記 8月13日)
15日に敗戦を知らせる玉音放送があるのに、前日の14日
「京橋駅空襲から75年 慰霊祭」(関西NHK)
『大阪砲兵工廠の八月十四日 歴史と大空襲』より体験された方の手記を転記しますφ(..)
Ⅰ 体験手記 砲兵工廠(ほうへいこうしょう)の八月十四日
京橋駅の惨状 〇〇 昇(79歳)
昭和20年8月14日、終戦の前日。B29の空爆により潰滅す。
――当時、第一製造部第五工場七鍛(たん)・酸洗(さんあらい)班に奉職中だった私も、爆撃に遭遇し、九死に一生を得たものの、とうてい忘れ得ない地獄図を見ることになったのでした。
(『大阪砲兵工廠の八月十四日 歴史と大空襲』大阪歩兵工廠慰霊祭世話人会編 東方出版 1997年)
当日は、朝から快晴でした。
平常通り、6時30分に工廠着、北門から登廠しました。
しかし、事務所からは何の連絡もなく、現場で作業待機です。
警戒警報に引続いて、空襲警報の発令。
学徒動員、女子挺身隊の人々は、早くより避難したらしく姿が見えず、地方から徴用工が多い七鍛工場にも人影はありません。
班長も「都島方面に逃げよ」と言って、現場から避難して行きました。
私は一人で、ガランとした七鍛工場に残っていたのですが、やがて爆弾投下、大音響がしましたので、それ以上工廠内に居ることもできなくなり、外へ逃げることにしました。
平野川畔の昭和門から、城東線(現在の環状線)の方へ走り出した、その次の瞬間、今出てきたばかりの門が、落下した爆弾に吹き飛ばされたのです。
まさに、危機一髪でした。
それからは、とにかく、爆撃の中を歩き続けるばかりです。
東に向って歩いていたのですが、爆音が聞えると、近くの防空壕に飛び込み、静かになると、また壕から出て、歩き続ける、ということを、どれほどの時間、繰り返したことでしょうか。
そうやっては、ほとんど無人の商店街を歩き続け、寝屋川の橋を渡って、どうやら京橋駅付近まで、たどり着きました。
その時です。
「助けて、助けて」と、多くの人の悲鳴が聞こえてくるのです。
見れば、高架下で空爆を避けていた電車の乗客達なのでしょう。
爆弾に直撃され、あるいは飛ばされ、無惨にも、生埋めにされているのです。
駅舎もペシャンコに崩れ、片町線のレールはアメの様に曲って上方へ高く反り上り、高架上の城東線には、四両連結の無人の電車が止まったままでした。
周囲には、爆撃に逢った人々の手荷物だったのでしょうか、南京から婦人の靴までがバラバラに飛び散り、それは全くの地獄図でした。
身体の自由を失った人々の中に、五・六歳の男の子がいました。
物を言うことはできず、ただ目の玉ばかりを、クルクルと動かしていたのですが、その子の顔の上へ、崖の上から石塊が転げ落ちて来たのです。
目の前で見ていながら、どうすることもできませんでした。
あの痛ましい瞬間のことは、一生、忘れることができないでしょう。
下半身、埋もれている人々に「誰か、元気な人、いませんか」と尋ねながら、手近な男の人の手を引っぱりますと、「痛い、痛い」と叫びます。
私が一番最初に惨状を目撃したらしく、付近には駅の人の姿も見えなかったのですが、とても一人では引っぱりだすことができず、応援を求めてホーム西端へ行きました。
そのうちに人が集まってきましたので、駅の人や、近くの警防団の人達と協力して、救助作業にあたりました。
そうこうしているうちに、工廠の方も、気になってきます。
心の重いまま、やむを得ず、工廠に戻ることにしました。
北門から戻る途中、各工場は鉄骨の残骸と化し、木造建の事務所は焼失しています。
現場は、猛爆で全く変貌してしまっていました。
それでも、焼跡に集合した班長や同僚と、お互いの無事を喜び合い、乾パンと水道の漏水とで、朝からの飢えと渇きを、ようやく満たしたものでした。
すっかり夕陽が沈んでから、荒廃した工廠を後にし、電車も不通でしたので、家まで歩きました。
歩きながら一日の出来事を思い、よくもまあ、今、こうして生きているものだ、と、感慨無量だったことを、今でも覚えています。
昨夏、当時、学徒動員で京橋駅に勤務中だった山崎さんという方が、「小唄リサイタル」を開催されました。
新聞でその報せを見た私は、無縁とは思えず参観し、終了後のロビーで、当時、京橋駅で知り合った方と再会することができました。
懐かしく、お互いの無事を喜びあったもので、ございます。
(『大阪砲兵工廠の八月十四日 歴史と大空襲』大阪歩兵工廠慰霊祭世話人会編 東方出版 1997年)
いつも思うのは、後1日生き延びることができればという方がどれだけいたか
また、こころの時代~宗教・人生~「弱さを希望に」で
カトリック修道士の小崎登明さんが語っているように苦しむ人を助けることができず、
見捨てることしかできなかった体験をされた方は、心の傷を抱えて生きてこられた。
小崎さんの話を伺っていると
コルベ神父は1930年に来日し、長崎に6年間滞在しておられる。
その足跡を小崎さんが調べて『長崎のコルベ神父』(聖母文庫)を書かれています。
再放送が、明日、8月15日 午後2:15からあります。
そして敗戦の時期に盆が重なっている。
『三省堂 年中行事事典(旧版)』より「魂祭りとしての盆」を転記しますφ(..)
魂祭りとしての盆
現行各地の盆行事は複雑で、先祖の魂祭りが中心であるとはいえ、それに健全な親を祝う生見玉(いきみたま)の習俗、稲の予祝や畑作物の収穫祭的要素、中元(7月15日)を祝う考えなどが加わっている。
(『三省堂 年中行事事典(旧版)』田中宣一、宮田登 編 三省堂 1999年)
盆に農耕儀礼的性格のあることは、盆棚の飾りや供物にさまざまな畑作物や稲の青苗を用いることからいえることで、中国の麦作地帯の収穫祭に源があるという中元の祝いと無関係ではないだろう。
日本のこの時期は、稲作・畑作ともに作業が一段落し、苛酷な夏の暑さも峠を越えつつあるときで、出来秋(できあき)を控え、季節の変わり目を意識した何らかの神祭りがあったと思われる。
それが民間の盂蘭盆や中元の浸透定着を容易にするとともに、盆行事の構成要素ともなった。
日本の古い信仰では、御魂(みたま)には生者のものと死者のものがあるとされ、生者の御魂を拝するほうは、宗家の主人や両親に魚などの食物を贈って祝う生見玉の習俗として盆行事の一部をなし、これは生き盆と称すべきものである。
生見玉の意識は近年衰えつつあるとはいえ、ますます盛んになる中元の贈答が生見玉への贈り物の延長だとも考えられる。
一方、死者の御魂には仏教が強く関与し、その供養は盆行事の中核をなしている。
柳田国男の分析以来、盆に祀る死者の御魂には精霊(祖霊)・新精霊(あらじょうろう)・外精霊(ほかじょうろう)の3種あるとされる。
祖霊とはその家のかつての戸主夫婦の霊で、死後年を経て浄化され穏かになり、盆の期間子孫に迎え祀られて家の豊産安寧を保障してくれると信じられている。
しばらく不幸のない家の盆行事は、この祖霊が祭祀の主たる対象となるためにむしろめでたいと考えられ、「けっこうなお盆で」とか「めでたい盆でおめでとうございます」などとの挨拶を受ける。
こういう家の盆は吉事盆と呼ぶことができる。
新精霊とは1年ないし3年以内に亡くなったその家の成員であった者の霊で、死後まだ間がなくて十分に浄化されておらず、荒々しく祟(たた)りやすいと考えられている。
そのため新精霊を祀る家の盆は期間がやや長く、祀り方全般が丁重で、それだけ寺僧の関与も強い。
この盆は吉事盆に対して新盆(にいぼん<アラボン>)・初盆(はつぼん)などと呼ばれる。
地域の多くの家々が供養に訪れたり、荒々しい霊を皆で鎮めようとしてしばしばこの家の庭では盆踊りが行なわれるのも、新盆の特徴である。
外精霊とは、右のような先祖霊以外の餓鬼・無縁・法界(ほうかい)などと呼ばれる祀る子孫のいない諸霊のことで、招かれないのに祖霊や新精霊に随伴してくるとされ、祀り方全般において差別されている。
ただ、外精霊は盆行事の主役とはいえないが、日本人の霊魂観を知るうえでは無視できない存在である。
(『三省堂 年中行事事典(旧版)』田中宣一、宮田登 編 三省堂 1999年)