ここしばらく歩いていない道を行くとイチョウの種子(ギンナン)が落ちていました。
もうそんな季節なのかな…
それとも連日の暑さにまいって落ちてしまったのかな?
「20日はことし一番の暑さ更新か?」(えりの気象日記 8月19日)
イチョウの種子は種皮が3層に分かれています。
秋にイチョウの種子、つまり、ぎんなんは地面に落ちて、悪臭を放ちます(イチョウは裸子植物なので、子房由来の果実を持ちません)。
この悪臭を放っているところが、一番外の種皮が肥大して、白い肉質となったものです。
その内側に、硬くて木質の部分、いわゆるぎんなんの殻の部分があります。
これが中層の種皮です。
さらに、殻の内側の膜質部分が、一番内側の種皮です。
悪臭や殻は、中の胚を保護するためだと考えられています。
(『観察する目が変わる 植物学入門』矢野興一 ベレ出版 2012年)
今朝の朝刊の文化・文芸欄にあった記事
〝受け手や時代と組み合わさる表現 香港から再び響く「不協和音」 アイドル評論家・中森明夫さん〟(朝日新聞朝刊 2020年8月20日)
(略)
しかし、日本では皮肉っぽく捉えられているこの曲を、同じ東洋人の若い女性が本気で受け止めた。
日本語のメッセージソングが国外でこれほど影響力を持った瞬間は、そう無かったと思います。
歌は、特にポップカルチャーは、送り手や作り手だけでなく、それを受け止める人々や時代、状況と組み合わさって一つの表現になるのです。
一方で、欅坂のファンが周庭(アグネス・チョウ)さんを見る目は変わったでしょう。
香港の女の子がこんな活動をしていて、終身刑になるかもしれないときに「不協和音」を本気で受け取った。
あの曲を歌うために平手友梨奈は倒れてまでギリギリまで戦った。
平手は脱退して、「欅坂46」というグループは改名して消失する。
平手はもう欅坂のセンターとしては歌わないけど、そのスピリットが周庭さんに伝わっている。
もう欅のあのパフォーマンスは見られないんだけど、歌は永続的に伝わっていて、本当に過酷な状況にいる人にまっすぐに伝わっているという感動があるんじゃないでしょうか。
僕らはコロナ禍で「自由が無い」と言うけれど、香港では表現の自由も無い。
曲の中に「まさか自由はいけないことか」という歌詞があります。
「不協和音」は今、日本人にも再び響いているのではないでしょうか。
あるいは、もっと厳しい状況で政治的に抑圧されている香港の若い活動家にこのメッセージがピタッとはまったのは、「不協和音が交響している」という感じがします。
(朝日新聞朝刊 文化・文芸欄 2020年8月20日)
「周庭氏、活動停止でも逮捕の衝撃 中国が狙う市民の沈黙」(朝日新聞 8月12日)
8月13日の記事で「刑法の効力は遡及しない」ことを紹介しました。
日本国憲法には
第三九条 何人も、実行の時に適法であつた行為又は既に無罪とされた行為については、刑事上の責任を問はれない。
又、同一の犯罪について、重ねて刑事上の責任を問はれない。
本条は、刑法の不遡及の原則および一事不再理の原則を定めた規定である。
(『日本憲法史と日本国憲法』大石義雄 嵯峨野書院 昭和59年)
第一 刑法の不遡及の原則
憲法上、何人も、実行の時に適法であった行為については、刑事上の責任を問われない。
この国会に対する国民の法的地位は、処罰されない自由を内容とするものであるから、自由権に属する。
第二 一事不再理の原則
憲法上、何人も、既に無罪とされた行為については、刑事上の責任を科せられない。
又、同一の犯罪について、重ねて刑事上の責任を問われない。
この国会に対する国民の地位も、処罰されない自由を内容とするものであるから、自由権に属するものであることはいうまでもない。
(『日本憲法史と日本国憲法』大石義雄 嵯峨野書院 昭和59年)
大石義雄氏は、「保守系憲法学の理論的支柱であった」と称された方です。
保守派(?)の中には、女帝は日本を滅ぼすとまで発言されている方がいますが、
大石義雄氏は、皇位継承について女帝を認められているようです。
憲法の条文を見ると、
第二条 皇位は、世襲のものであつて、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する。
本条は、天皇の地位すなわち皇位の継承についての根本原則を定めたものである。
皇位の継承について憲法が定めた原則は、
(一)第一に、 皇位は世襲のものであること、
(二)第二に、皇位は国会の議決した皇室典範の定めるところによって継承されるものであることである。
(『日本憲法史と日本国憲法』大石義雄 嵯峨野書院 昭和59年)
第一 皇位の世襲制
憲法上、皇位は、世襲でなければならない。
すなわち、皇位は、天皇の血統につながる者のみがこれを継承し得るものである。
皇位は世襲のものであることは、旧憲法すなわち帝国憲法の定めた皇位継承の原則でもあった。
それ故に、皇位は世襲のものであることは、憲法改正後においても変っていないのである。
しかし、旧憲法では、憲法上、皇位継承の有資格者は、皇男子孫にかぎられていたのである。
それ故に、旧憲法では、憲法上、女帝は認められなかったのである。
この点は、日本国憲法では、特別の制限がない。
従って、憲法論としては、女帝もまた差支えない。
(「第二 皇室典範の定めた皇位継承の原則」省略)
(『日本憲法史と日本国憲法』大石義雄 嵯峨野書院 昭和59年)
1 皇位継承の有資格者
皇位継承の有資格者は、皇統に属する男系の男子である(皇室典範一条)。
天皇の血統につながる子孫には、男系のものもあれば、女系の子孫もあり得る。
しかし、皇室典範は、皇位継承の有資格者は男系の、しかも男子のみにかぎると定めているのである。
従って、たとい天皇の血統につながる男子でも、女系の男子は、皇位継承の資格はこれを有しないのである。
又、男系のものであっても、女子は皇位継承の資格は有しないのである。
そこで、憲法それ自身は、女帝を排斥しているわけではないが、皇室典範の定めた原則の結果、今日においても、わが国では、女帝というものはあり得ないことなのである。
しかし、これは、憲法の定めたことではなく、皇室典範の定めたことであるから、憲法は改正しなくとも、皇室典範を改正することによって女帝を認めることはできる。
(『日本憲法史と日本国憲法』大石義雄 嵯峨野書院 昭和59年)
8月20日
越前(えちぜん)の大名朝倉義景(あさくらよしかげ)が織田信長に攻められて敗死した。 1573(天正<てんしょう>元)年
朝倉義景は織田信長に攻囲された浅井長政(あさいながまさ)をたすけるため、約2万の兵を率いて8月10日近江(おうみ)の木之本(きのもと)あたりに出陣した。
しかし信長に攻められると、ろくろく戦うこともなく越前に退いた。
信長はこれを追って敦賀(つるが)から府中(ふちゅう)に進んだ。
追いつめられた義景は本拠地一乗谷(いちじょうだに)をすてて大野郡賢松(けんしょう)寺(福井県大野市)に逃れた。
朝倉氏とその家臣の居館が整然と建ちならび、みごとな庭園や寺院を配してつくりあげられた一乗谷の城下は、信長軍に放火され、灰の下に埋もれた。
この間、義景は一族景鏡(かげあきら)にそむかれて、抗戦の機会を得ることなくこの日自殺し果てた。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)
一乗谷は、ブラタモリでタモリさんが訪ねていました。
「#124 福井 ~福井のルーツは“消えた都市”にあり!?~」(放送日:2019年2月2日)
『戦国時代』より「朝倉・浅井滅亡」を転記しますφ(..)
「天下布武」
反信長陣営の崩壊
朝倉・浅井滅亡
武田信玄が思わざるところで倒れ、義昭(よしあき)も飛んで火に入ったかたちで没落し去ったいま、信長にとって、残る朝倉・浅井の討滅はもはやたやすいことであった。
信長はひと息つく暇もなく、義昭を河内に追った翌8月、朝倉・浅井攻撃の軍をおこした(1573年)。
信長が浅井の小谷城を攻めているあいだに、朝倉義景は援軍を率いてかけつけたが、小谷入城はまにあわず、木之本あたりに陣を布(し)いた。
しかし浅井・朝倉方では戦意があがらず、逃亡者や裏切り者も続出した。
(『戦国時代』永原慶二 講談社学術文庫 2019年)
信長は柴田・丹羽以下の諸将に命じて、朝倉勢を一挙に追い落とし、その本拠地越前一乗谷(福井市)に襲いかかった。
義景はなすすべもなく一乗谷を放擲(ほうてき)して大野郡に逃れたが、一族景鏡に背かれたため、観念して自殺した。
ときに41歳。
孝景(たかかげ)以来、五代にわたる本拠一乗谷は、足羽(あすわ)川支流一乗谷川の谷あいの地形を利用したもので、大名城下町としてはやや狭くも見えるが、上下の城戸(きど)で仕切られた空間に当主・重臣の居館・庭園・寺院・下級の家来・商人・職人の住居・店舗が設けられ、谷をとりまく南側の尾根に山城が築かれ、全体が要塞(ようさい)都市的構造をもっていたその華麗をほこった一乗谷も、義景の敗北によって一瞬のうちに焼亡し去った(1960年代終わりころから継続されている発掘調査によって、埋もれた一乗谷は戦国城下町の全容が姿を現し、国の特別史跡に指定されている)。
義景は、義昭が信長を頼るまえに、一乗谷を訪れて援助を求めたとき、とくに動こうとしなかった。
その後本願寺・義昭の働きかけによって反信長陣営に立ったが、姉川で敗れ、また、元亀元年(1570)の信長包囲戦のときも、虚をつかれ叡山に逃げこむという始末であった。
さらに武田との共同作戦には、みずからその好機をつぶしてしまい、北陸の雄として期待されたはたらきは一度もないままにあえなく敗死した。
信長などと比べると決定的瞬間を機敏に判断し、そこに全力を投入するということがまったくできない人物であったとみる他ない。
京風文化のとりことなった五代目の宿命というべきであろうか。
朝倉を倒した信長は、8月25日付で越前北の庄の豪商橘(たちばな)屋に、軽物座(かるものざ<絹織物商売>)の営業特権を安堵するなど、戦陣怱々(そうそう)のあいだも、商人掌握に心を配った。
信長はかねて用意しておいた計画によって、すばやく占領政策の方針を指示し、そのまま馬を返し、8月27日にはもう、小谷城の攻撃を開始し、たちまちのうちに浅井久政・長政父子を敗死させた。
義景に比べると長政の気迫は鋭かったが、濃尾平野の豊かな経済力を背景とする信長軍には対抗すべくもなかった。
そもそも朝倉と結んだところに戦略上の決定的失敗があったが、近江という伝統的な地盤に立った長政が、朝倉や将軍、あるいは比叡山のような旧勢力に親近性をもち、信長の妹お市の方を妻としながらも新興の織田に服属することを潔(いさぎよ)しとしなかった心情そのものが、敗者への道につながる最大の要因であったと見ねばならない。
9月7日、信長は中国の毛利輝元・小早川隆景に宛てて状況を報告した。
(省略)
高らかな勝利の宣言である。
敵をことごとく打倒した信長の誇りと満足感が行間ににじみ出ている。
信長は浅井・朝倉にはよほど敵愾心(てきがいしん)を燃やしていたらしく、『信長公記』によると、翌天正2年(1574)の元旦、義景・久政・長政の首を「薄濃(はくだみ)」(漆でかため金泥<きんでい>の彩色をする)にして前に据え、御馬廻りの近侍たちを集めて酒宴を張ったという。
信長は小谷攻めのあと、鯰江(なまずえ)城に拠ってなお蠢動(しゅんどう)する六角義治を討ったのち、浅井の江北三郡の遺領を羽柴秀吉に与え、長浜(滋賀県長浜市)に城を築かせた。
長浜は小谷とちがって湖畔の平城であったが、京都への交通を制する要地であり、その城跡はいま美しい公園となっている。
さきに南近江を明智光秀・柴田勝家・佐久間信盛などに配分しているから、信長はこれで戦略的にもっとも重要な近江を、すべて腹心の部将で固めたわけである。
(『戦国時代』永原慶二 講談社学術文庫 2019年)