今朝も30度を超えている(^-^;
顔見知りの方と風がご馳走ですねと挨拶をしていました。
日ざしは刺さるほど痛いのですが、湿度が低いので、木陰で風が吹くとホッとします。
一方、町中でアスファルトやビルの間を通る風はムワッとしていて息苦しくなる。
忽那賢志さんの「コロナがコロナ以外の疾患に与える影響」(Yahoo!ニュース 8月16日)
項目だけをあげると
・コロナの影響による外来・入院患者数の減少と救急搬送の遅延
・コロナは、コロナ以外の様々な疾患に影響を及ぼしている
・院外心停止の患者が増えており、市民による心肺蘇生を受けた患者は減っている
・がんと診断される患者も減っている
・新型コロナ流行期は死産が増える
・大人だけでなく小児の医療にも悪影響が
・新型コロナ流行の影響は、それ以外の医療への影響も考慮する必要がある
支持者は納得しているのだろか?
〝大阪府吉村知事「重症者が多いのは早期に人工呼吸器をつけるから」 突然の発言に地元医療関係者も当惑〟(MEDIAN TALKS 8月17日)
8月18日
北村透谷が石坂ミナに手紙を送り愛を告白した。 1887(明治20)年
19歳の北村透谷(きたむらとうこく)は、この日3歳年上の恋人石坂ミナに、自分の生い立ちと愛を告白する熱烈な手紙を送った。
ミナには許婚者(いいなずけ)がいたため、透谷はずいぶん苦悶(くもん)したらしいが、結局翌年11月、ミナと結婚した。
ミナの父石坂昌孝(まさたか)は武蔵多摩(むさしたま)地方の豪農で、有力な自由民権運動家、弟の石坂公歴(まさつぐ)も運動に関心をもっていた。
この書簡によると、透谷は84(明治17)年ごろには、「東洋の衰運を恢復(かいふく)すべき大政治家となり、宗教上のキリストのごとくに、一身を犠牲にして政治上に尽力しよう」と考え、政治へのアンビション(大望<たいもう>)をもえたぎらせていた。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)
『日本現代文學全集9 北村透谷集 附 文學界派』より「石坂ミナ宛書簡 1887年8月18日」を転記しますφ(..)
旧漢字を新字体に変えていますが、読み間違えているかもしれません。
石坂ミナ宛書簡 1887年8月18日
拝啓
親愛なる貴嬢よ、生は筆の蟲なりと云はれまほしき一奇癖の少年なり、生は筆を弄ぶ事を以て人間最上の快楽なりと思考せり、然れども時としては此たしなみは、却て云ふに云はれぬ不愉快を感ぜしむる事もあり、其は他ならず、詩文を試みて意想を写す能はざるの時、書簡を認めて所見を述ぶる事叶はに暁、精神鬱怏として殆んど人事を忘るゝに至る如き之れなり、
(『日本現代文學全集9 北村透谷集 附 文學界派』伊藤整他編 講談社 昭和55年)
生は貴嬢の風采を慕ふ事いと永かりし、而して親友たるの時日は斯くの如くそれ短し、生は貴嬢の親友として世を送るを得ば、他に何の求むべき幸福あらんやと曾つて思考したりき、計らざりき、此得難き幸福を破つて遠く貴嬢に別れて遠く去らんとするに際し、聊か貴嬢に懇願する所あり、其は他ならず、生のミザリイを聞いてたもと云ふ一事、是なり、
貴嬢は常に生のハツピイなるを祈りたまふ我親友なりかし、然らば則ち生のミザリイを察して心の苦を慰むる術もがなあらば、是れを指示してくれたまふ可き道徳上の義務をもちたまふ御身なるべし、是れ即ち生が誰にも語らぬ心中の苦を打明けて、貴嬢に書き送りまいらす所なりかし、抑も生が所謂心中の苦とは何者ぞ、下に生の経歴を述べて、以て其詳細を御話し申さん、
嗚呼若し生をして一の大家たるを得るあかつきありと念はしめば、生は今に於いて己れの履歴を語るの必要なかるべし、生は寧ろ堂々たる自伝を玉の如き名筆を以て書き始む可し、然れども其望なしとせば、生はしばらくの間、おもしろき妄想を持ちたる事を慝さず白状するこそ能けれと思ふなり、げに生の生活は世の有為の少年の為めに一部の警戒書となるべし、生の失敗は以て彼等に示す可し、秘し隠す可き者にあらず、
生の父は封建制度の下にありて、厳格なる式礼の間に成長したる人たるにはあらず、傲慢磊落の気風あれども、或る一部分に至りては極めて小心なる所もあり、明治十一年祖父の中風病にかゝるや、直ちに、官を辞して郷里に帰り、爾後七年間孝養を尽くして怠る所なく、是れが為めに僅かの財産も消費し去れども意に介せざる如きは、其小心なる一例なるべし、又た生の母は最も甚しき神経質の恐るべき人間なり、一家を修むるにも唯、己れの欲する如く、己れの画き出せる小さき模範の通りに、配下の者共を処理せんとする六づかしき将軍なり、偖て生の神経の過敏なる悪質は之れを母より受け、傲慢不覊なる性は之を父よりもらひたり、言を変へて之を云へば、丁度五分と五分の血を父母より受けて此世に現はれたり、
明治六年、生の父母は生を祖父母に托して東都に去れり、十一年まで五年間、生は全く祖父母の膝下に養育せられけり、此貴重なる時日の教育につき一言せざるべからず、生の祖父は凡そ世にめづらしき厳格の人にして、活発に飛はねる事を好む少年をこらすの術に苦しみたる事、今もしばしば祖母の物語に聞き得る事どもなり、又た祖母は今でこそ至つて温順なれど其頃は生に取りて余り利益を能へしと覚えず、何となれば彼れは実の祖母にあらずして生に対してはまま祖母たる人なればなり、生の天性は不羈磊落、我儘気随なるに、此のやかましき祖父と我が利益には余り心配せぬ祖母との間に養育せられたるならば、此に生が淡泊なる小児思想は、或る奸曲なるむづかしき想像心にからまれて、物事に考へ深き性情を作りたるの事実は、決して蔽ふ可らざるあとなりとす、
偖て此際、生の習慣、郷校にありての挙動等をも詳に述べんと欲すれど、余りに長くなりては読む人の気心も何如かと存ずれば、其は読者の鑑定に任して唯其筋骨のみを綴るべし、其頃生の最も好みたる小説は楠公三代記、漢楚軍談、三国志、等にして、日夜是等の小説を手離す事能はざりし程なりき、又た生の最も喜びたる遊戯は多数の少児を集めて軍事をまねる事にてありし、生は常に自ら軍師となりて進退運転を司どりけり、是等の遊戯は我やかましき祖父の最も厳禁する所にてありしにもかゝはらず、清く快よき浜辺の砂上にあつまりて、かしこのつゝみ、こゝの丘を城堡と定め、伏兵を隠す可き場所をも見極めて、軍略をめぐらし、智勇を奮ひ、砂礫を飛して銃丸に代へ、長短の棒片は、刀槍を代用せり、此遊戯は則ち生の祖父に対する不平を慰す可き単なる快楽にてありけり、然れども之れ以て全く生を慰むるに足らずして、鬱々怏々として月日を過したれば、生は最も甚しきパツシヨネイトの人物となり、又た極めて涙もろく考へつめてはなかなかにいやすべくもあらぬこまりものとなりたる事も、亦明らかならん、
何にかに付けて生は涙をこぼす事多かりし、又たくやしくてたまらぬ時は、殆んど正体なくなき狂へり、
偖て明治十一年の春となり、我がやかましき祖父は中風病にかゝりて、其性質は全く一変し、生を叱責するの性は変じて生を憐愛するの情となれり、然れども生は遂に温良なる性質を養ふの暇はなかりけり、実に生は温良なる性質を受くる道には一度も接したる事なしと云ふも、不可なかるべし、生の血統中にも亦た温良なる好性質をもつ者は一人もなし、況んや生の父は傲慢磊落の人にして、生の母は極めて甚だしき神経質なるに於いてをや、
生の父母は祖父を助けんとて東都より帰り来れり、生の活発なる心に仇する事は、生の母の神経質より甚だしきはなし、又た生の母は普通のアンビシヨンを抱けり、則ち生をして功名を成さしめんと思ふ情切なりければ、毎夜十二時頃までも、窮屈なる書机に向はしめ、母自身は是れが看守人たり、又た母は婦女子の性として活発なる挙動遊戯を好まずして、生を束縛して殆んど諸ろの頑童等との交通を絶しめたり、生の最も苦しく思ひしは彼の戦闘戯をなすを得ざるにこそ、生の諸書、就中歴史小説(ヒストリカルノベル)を好むや、英雄豪傑の気風を欽慕して、寝ても起きても其事ばかり思ひ続けて、いつも己れの一身を是等の英雄の地位に置かん事を望み居けり、且つ又た、生は既に考へ深き小児となりたれば、緒児の如く笑ひ興じて愉快に光陰を送ると云ふ事出来ず、最も爽快にして豪放なる遊戯にあらざれば楽しみと思ふ事能はざりし、
又た生は父母祖父母、皆、愛情に薄き人々なりと思ひ込みければ、生を親愛する者一人もなく、人生の価直(かち)とす可き所なしと考へ居けり、是れ則ち後に生をして気鬱病を発せしむべき最大なる原素なるべきか、此に記憶す可き一種の幸福なる事あり、其は他ならず、生の母は生が小説を好むの癖あるをきらつて、堅く之を禁制せり、若し生にして依然小説を読むの権力ありて全く身をアンビシヨンの極度に踏みこましめば、其結果は実に何如そや、諸ろの英雄の少時によくある例なる自死を試みるに至らんこと、必せり、
然れどもアンビシヨンの病は遂に生の身を誤れり、其は明治十五年に至りて始めて純然たる病気の形をあらはしけり、
(続く…)
(『日本現代文學全集9 北村透谷集 附 文學界派』伊藤整他編 講談社 昭和55年)
今朝の父の一枚です(^^)v
父が面白いと言って気に入った画像です。
梅雨明け以来、雨が降った覚えがないなぁ…
ズーッと雷注意報が出ているのに雨が降らないなぁ…
公園の草花もグッタリしています…
〝水を大量に飲むと「水中毒」のおそれ 水分補給時に気をつけて〟(NHK)
ペットボトル症候群もそうなんですが、過剰に採ると体に負担がかかります。
「猛烈な暑さは21日ごろまで続く」(えりの気象日記 8月17日)