2020年8月27日木曜日

クズの花が咲いていました。

  

今朝は、最近通っていなかった道を歩くとクズの花が咲いていました。
写していると甘い香りがしてきました(*´▽`*)
クズは、繁殖力が強いので嫌われ者になっていますが
昔の人は、葛をいろいろな用途に利用してきました。
新型コロナで「新しい生活様式」とよく言われるけど、「(いにしえ)の知恵」に学ぶことも多いと思います。

葛まるごと利活用~掛川市の取り組み~」(静岡県掛川市)

サクラの葉が紅葉にならずに枯葉になっている。
猛暑の時期、昨日、日傘を認めない学校があることにビックリしたけど
一方、
登下校、日傘で涼しく 市貝の3小で利用開始 国の臨時交付金活用」(下野新聞 8月25日)

通学路に長い急坂...マスク外し日傘登校 コロナと熱中症対策探る」(岐阜新聞 8月22日)

例年ならまだ夏休みの時期、連日、命に危険の暑さ。
子どもの健康を考えれば少しでも子どもの負担を軽くすることを考えると思う。
認めない学校の理由を見ると、雨の日も傘をさすのは禁止なんだろう…
 「大坂なおみ ツアー大会準決勝を棄権 黒人男性銃撃に抗議」(NHK)

大坂なおみさんは「私はアスリートである前に1人の黒人女性です。」と言い切ることができる。
ご自分のルーツに誇りをもっている。
NBAや大リーグでも抗議のボイコット。
日本だったら芸能人やスポーツ選手は政治に口を出すなという反応があるのだと思う。
アメリカでもあるようだけど毅然と抗議する姿が美しいし、輝いている。
8月27日 
日本の水軍が白村江(はくすきのえ)の戦いで唐・新羅の連合軍に大敗した。 663年

 660年、唐と新羅(しらぎ)の連合軍は百済(くだら)を滅ぼした。
翌年、斉明(さいめい)天皇は女帝の身でありながら百済救援のため、みずから筑紫(つくし)まで出陣、朝鮮半島に軍を送った。
天皇は間もなく陣中で没したが、663年8月のこの日、2万7千といわれる日本の水軍は、白村江(朝鮮半島西南部の錦江<きんこう>)で170隻からなる唐・新羅の連合軍と戦った。
しかし日本軍は大敗し、朝鮮半島から手を引かねばならなくなった。
 この外征のために人馬や兵糧(ひょうろう)の徴発(ちょうはつ)がきびしく、国内では時の天智(てんぢ)天皇の政治に対する民衆の不満が高まった。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)
日本の歴史2 古代国家の成立』より「白村江の戦い」を転記しますφ(..)

額田女王(ぬかたのひめみこ<額田王(ぬかたのおおきみ)>)の歌(『万葉集』巻1・8)
  
  熟田津(にきたつ)に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今はこぎいでな 

この西征途上の作と伝えられているそうです。
また、万葉集の歌人の中で最も好きな大伯皇女(おおくのひめみこ)は、船団が吉備の大伯(おおく)の海(岡山県邑久郡の沖)にさしかかったときに大田(おおた)皇女が出産して、海の名にちなんで大伯(大来)皇女と名づけられたそうです。
蝦夷征討と百済救援
 白村江の戦い


 663年(天智2)7月17日、新羅文武(ぶんぶ)王は金庾信(きんゆしん)らの将軍とともに熊津(ゆうしん)にむけて出発、ここで唐の軍と会合して陣容をととのえ、唐の孫仁師(そんじんし)・劉仁願と新羅王とが陸兵をひきい、劉仁軌は水軍をひきいて熊津江をくだって白江(はくこう<錦江>)にで、水陸あいならんで周留(する)城にせまった。
(『日本の歴史2 古代国家の成立』直木孝次郎 中公バックス 1970年)
 このとき、日本の蘆原君(いおはらのきみ)に1万余の別働隊(第2軍2万7千の一分か)は、朝鮮南部にあって新羅軍と戦っていたが、戦機熟すときいて急遽(きゅうきょ)白江にむかった。
8月13日豊璋(ほうしょう)は諸将とはかり、蘆原軍の来着をまって唐・新羅軍に決戦をいどむこととした。
 8月17日、日本軍のくるより一足はやく、唐・新羅連合軍は周留(する)城をかこみ、水軍170艘が城下の白江の河口に戦列をしいた。
蘆原軍の水軍が到着したのはそれより10日ののちの27日であった。
こうして27、8両日にわたって白江に激戦が展開された。
日本でいう白村江(はくすきのえ)の戦いがこれである。
 待ちかまえていた唐の水軍は、27日ただちに戦いの火蓋(ひぶた)をきった。
この時の「倭船」は「千艘」であったと朝鮮側史料にみえるが、おそらく誇張であろう。
日・唐どちらの兵力がまさっていたか明らかではないが、日本軍は敵の待っているところへ乗りつけたのだから、戦う以前から不利であった。
日露戦争の日本海海戦と逆である。
日本水軍は敗れてしりぞき、唐軍は緒戦を飾って陣をかためた。
この日の戦いは、しかし前哨戦(ぜんしょうせん)で、決戦は翌日に持ちこされた。
 28日、最後の会戦となった。
日本水軍は唐水軍の堅陣に捨て身の突撃を敢行したが、唐軍はその襲撃を左右から囲みうつ戦法をとり、日本軍はたちまち苦戦におちいった。
日本軍が血気にはやって隊伍をみだしたのにたいし、唐軍は冷静にその弱点をついたものと思われる。
『旧唐書(くとうじょ)』では戦況を、
 「四たび戦って捷(か)ち、その(日本の)舟四百艘を焚(や)く。煙と燄(ほのお)、天に漲(みなぎ)り、海水皆赤し」
と記し、『日本書紀』は、
 「須臾(とき)の際(ま)に官軍敗績(はいせき)し、水に赴きて溺死する者衆(おお)し。艫舳(へとも)廻旋(めぐら)すを得ず」
と述べている。
 陸上では新羅軍の驍騎(ぎょうき<強い騎兵>)が唐軍の先鋒となって百済軍の精騎を破った(『三国史記』)。
秦田来津(はたのたくつ)が天をあおいで切歯(せっし)し、数十人をころし、みずからも乱軍のうちに戦死した、と『日本書紀』にみえるのは、この陸戦でのことであろう。
 戦いは日本軍・百済軍の惨敗に終わり、百済の命運もここにきわまった。
百済復興軍の最大の拠点である周留城はおち、豊璋は高句麗にのがれ去って豊璋の子の忠勝(ちゅうしょう)・忠志(ちゅうし)らは残兵とともに降伏した。
戦場を離脱した日本軍は南鮮の弖礼城(てれさし)に引きしりぞき、他地方に転戦中の日本軍をあつめ、亡命を希望する百済人をともなって日本に帰還した。
 こうして百済はまったくほろび、4世紀後期以来、300年におよぶ日本の半島経略は終わった。
中大兄皇子のいだいた壮大な夢はむなしく消え去った。
 消えただけではない。
強大な唐の陸海軍が、百済征服の余勢をかっていつ日本に来襲するかもしれない危険が生じた。
国内でも、外征の失敗をせめる声が、民間からも官吏・豪族のあいだからもあがるであろう。
とくに外征のための貢租や労役の徴収、人馬の徴発は過大であったから、中大兄皇子の責任を追及する声は大きいとしなければならぬ。
中大兄は一日もはやく大和にかえって、国内情勢に対処する方策を立てなければならない。
かれは外敵防衛に必要な指令をのこし、663年(天智2)の暮れまでには大和へもどったと思われる。
 難波へひきあげる軍船のなかには、大海人皇子と二人のきさき――大田皇女と鸕野(うの)皇女の姿もあったはずだ。
大田皇女は前々年(斉明7)に往路の船上でうまれた大伯(おおく)皇女と、今年うまれたばかりの大津皇子の二人をつれ、鸕野皇女は去年やはり那の大津でうまれた草壁皇子をつれていた。
なんのうれいもなく遊びたわむれる三人の幼な子のふるまいは、敗戦に沈みがちなまわりの人々の心をどんなにかなぐさめたことであろう。
 しかしわずか二十余年ののちに、この腹ちがいの皇子・皇女たちは冷酷な政争の渦にまきこまれ、そのうちの二人は悲劇的な運命に直面することとなるのである。
(『日本の歴史2 古代国家の成立』直木孝次郎 中公バックス 1970年)