2020年8月13日木曜日

風が吹くと…

 

朝から雲がニョキニョキ高くのびている。
それでも風が吹いてくれるとホッとします(*´▽`*)
熱中症対策に水分補給が大切なのですが、
清涼飲料水を飲み過ぎるとペットボトル症候群を発症するので気をつけてください。
ちなみに私は、麦茶です。

日曜美術館「無言館の扉 語り続ける戦没画学生」が素晴らしかったです。
どの作品も胸を打つ。
いつか訪ねたいと憧れていた美術館。
最後の方で、紹介されたのが

「裸婦」日高安典(ひだかやすのり)
鹿児島県・種子島の出身
1945年4月戦死(27歳)
無言館が開館して2年後の夏。
感想ノートに、安典の裸婦像をめぐる思わぬ言葉が書かれていました。

以下、窪島誠一郎さんの朗読

「感想文ノート」っていうノートがあるんです。
そこに「安典さん あなたと あなたの絵に会いに来ました」
…という一行から始まる文章が載ってたんです。
モデルを務めた、この女性の文書を、私がいくらか手を入れて
ご本人に迷惑のかからない程度にまとめて文章にいたしました。

安典さんへ

安典さん 日高安典さん。私 来ました。
とうとう ここへ来ました。
とうとう今日 あなたの絵に会いに
この美術館にやって来たんです。
私、もう、こんなおばあちゃんになってしまったんですよ。
だって、もう、50年も昔のことなんですもの。
安典さんに絵を描いてもらったのは。
あれは、まだ戦争が、そう激しくなっていなかった頃でした。
安典さんは、東京美術学校の詰め襟の服を着て
私の代沢(だいざわ)のアパートに、よく訪ねてきてくれましたね。
私は、洋裁学校の事務をしていましたが、
知人に紹介されて美術学校のモデルのアルバイトに行っていたのでした。
あのころはまだ遠い外国で日本の兵隊さんが
たくさん戦死しているだなんていう意識がまるでなくて
毎日毎日、私たちは、楽しい青春の中におりましたね。
安典さん、あの小雨の降る下北沢の駅で、
勤めから帰る私を傘を持って迎えに来てくれたあなたの姿を今でも忘れていませんよ。
安典さん、私、覚えているんです。
この絵を描いて下さった日のことを。
初めて裸のモデルを務めた私が、緊張にぶるぶると震えて
とうとうしゃがみ込んでしまうと
僕が一人前の絵描きになるためには、一人前のモデルがいないと駄目なんだと
私の肩を絵の具だらけの手で抱いてくれましたね。
何だか私、涙が出て、涙が出て。
けれど安典さんの真剣な目を見て、また気を取り直してポーズをとりました。
あのころ既に安典さんは、どこかで、自分の運命を感じているようでした。
今しか、自分には時間が与えられていない。
今しか、あなたを描く時間は、与えられていないと
それはそれは真剣な目で絵筆を動かしていましたもの。
それが、それが、この二十歳の私を描いた、安典さんの絵でした。
そして安典さんは、昭和19年夏、出陣学徒として、満州に出征してゆきました。
『できることなら、できることなら、また生きて帰って君を描きたい』と言いながら。
それから50年、それはそれは、ほんとうに、あっという間の歳月でした。
世の中もすっかり変わっちゃって、戦争も随分、昔のことになりました。
安典さん。私、こんな、おばあちゃんになるまで、とうとう結婚もしなかったんですよ。
一人で、一生懸命、生きてきたんですよ。
安典さん。日高安典さん。
あなたが私を描いてくれたあの夏は
あの夏は、私の心の中で、今も、あの夏のままなんです」。

【無言館】安典さんへ  朗読:窪島誠一郎 ピアノ:Asu〟(YouTube)でも聞くことができます。
そこには鹿児島から一人でやって来たとあり、二人の出会いがよくわかります。
8月13日
 孫文が東京で中国を共和制にすべきだと演説した。 1905(明治38)年

 1905年の夏、孫文(そんぶん)はヨーロッパから日本にもどってきた。
この日、東京麹町(こうじまち)区(現千代田区)の富士見楼で孫文の歓迎会が催された。
在日留学生6、7百名が集まり、会場に溢(あふ)れるほどだった。
この席上で孫文は「中国は共和国を建設するべし」と題して演説した。
中国を発展させるためには現在人類が到達している最新の文明を取り入れることが大切であり、そのためには中国を共和国にしなければならないと強調したこの演説には、孫文の三民主義(さんみんしゅぎ)の萌芽(ほうが)があらわれていた。
8月20日には彼を中心にそれまでばらばらだった組織を団結させて、中国革命をめざす中国同盟会がつくられた。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)
香港国家安全維持法がどのような法律なのか知らないで書くのをためらうのですが、
アグネスさんがなぜ、香港国家安全維持法が成立する以前の行為で処罰されるのか分かりません。
日本では罪刑法定主義という大原則があります。
そこには「刑法の効力は遡及しない」という原則があります。

第四章 罪刑法定主義 
 第三節 派生的要請 
 (ⅲ)刑法の効力は遡及しない。

 法律なければ犯罪なしという原則は、法律に規定せられていない行為を行ったとしても、それは犯罪ではないという意味である。
従って、そのとき犯罪ではないものが事後の法律によって犯罪とされる場合に事後法に従うのであれば、「法律なければ犯罪なし」という原則は意味をなさなくなる。
罪刑法定主義の原則からは遡及効は認められない。
(『新訂 刑法総論講義』瀧川春雄 世界思想社 1960年)
中国は、孫文や魯迅が目指した国とまったく違う独裁国家となっています。
アグネスさんや香港の自由のために活動していた若者たちは
孫文や魯迅の遺志を受け継いでいるのではないでしょうか。

日本の歴史22 大日本帝国の試練』より「東亜の嵐 落花の歌」を転記しますφ(..)
東亜の嵐
 落花の歌

 康有為(こうゆうい)がことやぶれて香港に走ったとき、そこで日本への亡命についていっさいの面倒をみたのは、東亜回天の大志望をもって香港にき、ひそかに孫文一派の興中会(こうちゅうかい)と連絡をとっていた宮崎滔天(みやざきとうてん)であった。
(『日本の歴史22 大日本帝国の試練』隅谷三喜男 中公文庫 改版2006年)
 そのしばらく前、滔天がはじめて横浜の宿に孫文を訪ねると、孫文はその民主・民権の思想を説き、「支那四億万の蒼生(そうせい)を救い、アジア黄種の屈辱を雪(そそ)ぎ、宇内(うだい)の人道を恢復し擁護するの途、唯(ただ)我国の革命を成就するにあり。諸君また力を出して吾党(わがとう)の志望を援けよ」と熱心に訴えた。
滔天は「言々理義を貫き、語々風霜(ふうそう)を挾み、又自ら熱情の燃えて溢(あふ)るるが如きもの」があるのにすっかり感動し、生涯を孫文の革命運動に捧げることになる。
 もっとも、そのころは孫文の民主革命と康有為の変法との区別もつかず、ひとまとめに中国革新運動と考え、康の日本亡命にも力をかしたのである。
ともあれ、このころにはまだ日本人の心の片隅に、中国にたいする敬意と親しみとが息づいていた。
 義和団事件で清朝が動揺しはじめると、孫文らの革命運動もにわかに活気を呈した。
滔天はこう書いている。
 「明治三十三年六月、孫君余等と横浜を発して香港に向うや、予(あらかじ)め令を広東の部将に伝えて、壮士六百人を三州田(さんしゅうでん)の山寨(さんさい)に召集すべきを命じ、船香港に着するに及んで、ほぼ布置(ふち)施設の号令を発し、孫君は是(これ)よりサイゴンを経てシンガポールに向い、余等は香港の事を了(おわ)りてシンガポールに直行し、茲(ここ)に落合いて諸般の方針を一定し、再び踵(きびす)を返して香港に回航し、間道より密行して三州田の山寨に入らんことを擬(ぎ)せり。是実に大体の方針なりき」(『三十三年の夢』)
 ところがシンガポールに着くと、滔天らはたちまち官憲に逮捕され、裁判の結果、政庁管轄区内から5年間の追放となる。
このころ康有為は日本を去ってシンガポールに亡命していたが、このときたまたま、清朝旧守派に依頼された日本の刺客がシンガポールに向ったという報道があった。
風体(ふうてい)あやしげな滔天らの荷物を検査すると、日本刀2口(ふり)と3万円の大金がでてきたので、刺客に間違いないということにされてしまったのである。
香港へも上陸を許されず、やむなく孫文も滔天らも日本に帰ってきた。
 「此時三州田山寨既に設備し、六百の壮士斉(ひと)しく集ると雖も、洋銃三百、弾丸各々三十発を帯ぶるのみ。
  孫君日本に回りて数月、西馳東駆、計画する所尠(すく)なからず雖も、十失ありて一得なし、乃(すなわ)ち三州田の壮士糧食日に少なく、僅(わず)か八十人を留めて山寨を守るに至れり。両広総督命を水師提督何長清(かちょうせい)に伝え、防軍四千人を率いて深州(しんしゅう)に進み、また陸路提督鄧万林(とうまんりん)に命じ、三州田の出路を塞(ふさ)がしむ」(『三十三年の夢』)
 革命軍は寡兵(かへい)よく戦って敵の武器を奪い、官兵の大軍を悩ました。
だが補給が続かない。
 「第十七日、孫君の令を伝えて曰く、政情忽ち変じて外援期し難し。軍中の事、乞う、司令自ら進止を決すべしと。即(すなわ)ち背山(はいざん)の事によりて弾丸を送る能わず。軍中この報に接し意気頓(とみ)に喪失す。
  軍に資なく、粮食(りょうしょく)給せず、而して弾丸も購入すること能わず。終に奇計を抱いて空しく解体するの止(やむ)を得ざるに至れり。嗚呼是(ああこれ)誰の罪ぞ」
 中国民衆のなかから生れた革命運動も、見事に失敗した。
しかもその重大原因の一つは、日本人同志の背信行為によるものであった。
かねて数万円をもって購入しておいた銃と弾丸とが、いよいよのときになってみると廃物で、実用にたえるものはほとんどないことがわかったのである。
革命のための資金でにせ物と知って買い、懐をこやしたものが同志のなかにいたわけである。
「背山(代議士中村弥六)の事によりて」と書かれているのがそれである。
 33年秋のこの蜂起を恵州(けいしゅう)事件という。
中国革命を助けようとした自由民権論者や右翼壮士らは、ちりぢりになった。
革命を食い物にする「支那浪人」といわれるものが、このころから中国を流浪するようになった。
失意の滔天は35年3月、桃中軒雲右衛門(とうちゅうけんくもえもん)を訪ね、弟子入りをして浪花節語りとなり、「支那革命軍談」を語る。
 「万国平和の自由郷、この世に作り建てなんと、心を砕きし甲斐もなく、計画破れて一場の、夢の名残りの浪花ぶし、刀は棄てて張扇(はりおうぎ)、叩けばひびく入相(いりあい)の、鐘に且(か)つ散る桜花」
(『日本の歴史22 大日本帝国の試練』隅谷三喜男 中公文庫 改版2006年)
今朝の父の一枚です(^^)v
初めは曇っていて助かるなと思ったのですが、青空が見えだすと日差しが刺さってきました。
風が吹くと木陰で立ち止まり、一息つきながらリハビリ散歩をしました。 

13日も暑いが 14日以降はさらに暑い!」(えりの気象日記 8月12日)