明るいうちは見づらいので
森浩一さんが
「日が暮れて電燈がつくと観音像を鮮明に見ることができる」
と仰っていました。
(2016年6月30日の記事)
(記事の修正・追加をしました)
朝早く来たので観光客も少なかったです(^^)v
本来は南楼門が正門になります。
南楼門の向うにある鳥居は現存する石鳥居のなかで日本最大、
額の文字は有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)の筆によるそうです。
有栖川宮熾仁親王は、和宮が6歳の時からの許婚(いいなずけ)でした。
1)清水へ祇園をよぎる桜月夜こよひ逢ふ人みなうつくしき 晶子
2)「月下氷人石(げっかひょうじんせき)」
3)「藤屋と空也上人ゆかりの井戸」
(2014年11月23日の記事)
今日の目的地です。
もう、次は見られないだろうなとやってきましたp(^^)q
「天皇陛下御即位記念 秘仏 御本尊御開帳」(~6月16日)
長楽寺(ちょうらくじ)
寺伝によれば、延暦24年(805)桓武天皇の勅命によって
伝教大師(最澄)を開基として創建されたと伝わる。
当初は天台宗の寺院であったが、
室町時代初期に国阿(こくあ)上人が中興してから時宗に改められた。
本尊は准胝観音像(じゅんていかんのんぞう)を祀り、
洛陽三十三観音霊場の第七番札所でもある。
一条天皇の時(986~1011)に巨勢広高(こせのひろたか)という絵師が
当寺で地獄変相の壁画を描いたことが今昔物語にみえており、
文治元年(1185)安徳天皇の生母、
建礼門院が僧印誓(いんせい)について剃髪されたところでもある。
また法然上人の弟子隆寛(りゅうかん)がここに住み念仏を広めた。
当時はこれを長楽寺流と呼ぶほどに世間に知れ渡っていた。
昔は祇園や清水と並んで花の名所と謳われ、
多くの文人や画家が訪れたところである。
寺宝には、一遍上人像を含む七人の上人像(全て重要文化財)、
一遍(宗祖)、真教(しんきょう[二祖])、一鎮(いっちん[遊行6代])、
尊明(そんめい[遊行13代])、太空(たいくう[遊行14代])、
尊恵(そんえ[遊行15代])、暉幽(きゆう[遊行17代])の諸像や
建礼門院御遺宝、相阿弥(そうあみ)作と伝わる庭園がある。
また、境内山上の墓地には、江戸時代後期の歴史家頼山陽(らいさんよう)や
その子頼三樹三郎(らいみきさぶろう)、水戸烈士の墓もある。
京都市
京都市指定有形文化財 長楽寺本堂
長楽寺の現在の本堂は、寛文6年(1666)に造営された
愛宕郡西賀茂村(現在の北区西賀茂)の正伝寺仏殿を、
明治23年(1890)に移築したものである。
正伝寺における造営は、日記によると、
寛文6年正月12日に「佛殿斧ノ初」とあり、
この時に木工事を始めたことがわかる。
大工は「北山新蔵」であった。
その後、同年3月18日に「柱立」、
3月22日に「梁上」と工事が進んでいる。
建物は、桁行三間、梁行三間の身舎(もや[本屋構造])の四周に
庇状構造の裳階(もこし)が付く禅宗様(ぜんしゅうよう)の仏殿である。
内部は身舎を格天井(ごうてんじょう)、裳階を化粧屋根裏とし、
床は土間とする。
柱は丸柱で、石造の礎盤(そばん)の上に立つ。
身舎の柱筋の上には組物を密に配して、
入母屋造(いりもやづくり)・本瓦葺の屋根をのせる。
須弥壇(しゅみだん)前の二本の柱は、
身舎背面側の柱筋より半間ほど前方に立ち、
柱間上部は透かし彫りの欄間(らんま)をはめる。
この本堂は、建築年代が明らかであり、
京都市内では数少ない本格的な
小規模禅宗様仏殿の遺構として貴重である。
平成19年3月30日指定
京都市
本堂で御本尊が御開帳されたので御前立が右側に移されていました。
その前に子どもを抱いた観音様がおられました。
慈母観音像だと思いますが、
マリアさまが幼子(イエス)を抱いている姿に見えました。
建礼門院御塔
この御塔は古来長楽寺山腹八丁台とよぶ景勝の地に建ち
(明治初年知事命によりこの堂側に移す)
源平戦の后、元暦2年(1185)5月1日建礼門院がこの寺に入り
阿証房印誓につき御髪をおろされた名残の御髪塔ともいい
又読みもの系平家物語に、
女院は貞応2年(1223)春鷲尾に於いて67才を以て遷化されたとも
亦鷲尾に御遺骨を納めたとも伝うる。
その鷲尾がこの「鷲尾山長楽寺」(旧呼称)を指しておることよりすれば
この御塔は女院遷化の史跡を語る女院の御舎利塔とも拝されるのである。
(絵はがきより)
平安の滝(長楽寺境内)
東山山腹より湧出ずる清冽な水を落とし、
これを“平安の瀧”と呼び、
平安朝天台宗頃からの行場であったと覚しく、
その瀧壷を囲む石壁には、数多くの石仏が刻まれ、
その中に古きは藤原時代にさかのぼるものを数え得るという。
水の名を“八功徳水”とよび、
鎌倉初期隆寛配流の際この清泉に青蓮華が生じたと伝う。
(絵はがきより)
収蔵庫で一遍上人像などを拝観することができました。
お寺でいただいた境内図を見ながら
石段を上ってゆきました。
1)頼山陽(らいさんよう)
2)妻・梨影(りえ)
3)子の三樹三郎(みきさぶろう)の墓
右)尊攘碑
水戸烈公斉昭(なりあき[慶喜(よしのぶ)の父])の真磧による。
「尊攘(そんじょう)」の二文字を刻み、
尊王攘夷実行の密勅(みっちょく)をうけ、
江戸藩邸にとどけた鵜飼吉左衛門(うがいきちざえもん)とその子幸吉、
父子(両名とも当寺に墓碑をまつる)は、
処刑された没後の文久2年(1861)10月に
その罪を赦(ゆる)されたこと、
また明治24年12月には従四位の官位が贈られたことを
鵜飼家の後継者幸吉が鵜飼吉左衛門父子をまつる墓碑のそばに表記し、
その功績をたたえて建立された。
左)水戸藩兵留名碑
文久3年(1862)、水戸藩主慶篤(よしあつ[斉昭(なりあき)の長男])が
ひきいる水戸の尊攘派烈士三百余人は上洛して京都の本国寺に駐屯し、
皇室の守衛や一橋(徳川)慶喜(よしのぶ)の攘夷運動の補佐などの任務に当った。
これらの水戸の烈士は本国寺党と呼ばれ、
首領には大場一真斉景淑(当寺に墓碑をまつる)があたった。
明治元年(1868)、水戸藩の重責をはたし帰郷するまでに死亡した
86名に及ぶ殉難者氏名がこの碑文の裏面に刻まれ、
明治維新の礎(いしずえ)となった水戸藩烈士の功績がたたえられた。
「蘆雪長澤先生塚」
長沢芦雪(ながさわろせつ)の塚だと思います。
話をした方に日曜美術館と言ってしまったけど
美の巨人たち「長沢芦雪『虎図』」(大阪テレビ)だった(^^ゞ
「長沢芦雪について」(「串本応挙芦雪館)
相阿弥作庭園
当寺山麓より湧き出る名水が
「平安の滝」(八功徳水)の修行地を流れ落ち、
この池水にとりこまれ散水あい融合する
八代将軍義政の命により銀閣寺庭園の
試作として造園されたと伝える。
東山文化のわび、さびの風情をとどめる
「築山庭造傳」(享保20年[1735])相阿弥作の名園とし
「庭の景すぐれて自然の趣あるすがた」とたたえる
安徳天皇御衣幡(長楽寺所蔵)
元暦2年5月1日建礼門院当寺阿証房印誓について
御髪をおらされた時御歳8歳の安徳天皇が、
今わのきわまで召されていたという
形見の直衣を十六旒の仏幡に縫い御布施として
上人に進じ御菩提を弔い給うたということが
平家物語灌頂の巻の巻頭に記されているが
その幡が現実に二旒この寺に保存されている。
これこそ真に珍重な史料である。
(画像と説明文は絵はがきより)
ふと見ると白い丸のが見えました!
モリアオガエルの卵です♪
実相院で見ていらいです(^^♪
(2016年5月16日の記事)
池大雅展を見た後に確認しました。
1)大雅堂旧址、2)和光同塵
(2018年5月11日の記事)
高台寺塔頭月真院 「御陵衛士屯所跡」(通常非公開)
鷲田清一さんの『京都の平熱』の中に登場するお寺だと思うのですが、
(2016年7月31日の記事)
欧米からの観光客だと思いますが
父と二人の息子さんが小路に入って行きました。
というKazeも二週に続けて
チーズケーキと紅茶をいただきました(^^)v
先週、長楽寺で天皇陛下御即位記念の秘仏
御本尊御開帳を教えてもらったのです。
調べると、建礼門院徳子が剃髪して、
安徳天皇の幡が残されている寺だと知りました。
教えていただけなかったら御本尊を
見ることができなかっただろうと思います。
そのお礼を伝えたかったことと、
チーズケーキと紅茶で元気を取り戻したかったp(^^)q
学生時代4年間京都に通ったのに祇園祭は見たことがないこと
これから御旅所を訪ねようと思っていることを話していたら
祇園祭の団扇を下さった!
お店の方も先日、長楽寺にお参りに行かれたそうです。
そのとき、90歳になるお母さんも行きたいと仰って
本堂の准胝観音様にお参りしたそうです!
心臓が悪く、二階への階段もやっとのことだそうですが
あの石段をゆっくりゆっくり上がられたそうです。
また、石段の段差に子どもの頃に上がったことを思い出したそうです。
体の感覚が記憶を呼び覚ますのですね。
この記事を書きながら小学生の時に家族四人で
石清水八幡宮の石段を上り、初詣に行ったことを思い出しました。
石塀小路にある「茶亭よし本」です。
時間が遅くなったので後日、記事の追加と修正をしたいと思います。
↑記事を修正しました。
これからは↓追記ですφ(..)
白峯神宮 御創建百五拾年記念
瀬をはやみ 岩(いは)にせかるる 滝川(たきがは)の
われても末(すゑ)に あはむとぞ思ふ 崇徳院(すとくいん)
[歌意]
浅瀬の流れが速いので、
岩に一度はせき止められてしまう滝川の水が
ふたつに分かれてものちに再び合流するように、
恋しい人に別れても後日必ず逢おうと思う
[御祭神 崇徳院]
崇徳院は、第七十五代 崇徳天皇。
鳥羽天皇の第一皇子。
保安4年(1123)5歳で立太子、当日即位。
永治元年(1141)23歳で、皇弟、近衛天皇に譲位。
これは天皇の意志で無く、やがてこれが保元の乱の源となり、
讃岐国(香川県)に幽閉される事になり、
ついに都の土を踏むことは出来ませんでした。
長寛2年(1164)夏、46歳にて崩御、
五色台白峰山の御陵に奉葬されました。
上皇の寵愛篤かった阿波内侍は、御遺髪を請い受けて、
この場所に一塚を築き亡き上皇の霊をお慰めされてきました。
その頃の京都では、上皇の怨念による祟りの異変が相次いで発生したため、
御影堂を建て慰霊に努めましたが、
永い年月の間に廃絶して、
此の所のみが哀史を偲ぶよすがとなっています。
なお、孝明・明治両天皇の聖慮により、白峯神宮が創建され、
元官幣大社として尊崇され今日に至っています。
右の一首は百人一首で有名で、最高傑作の一首です。
祇園祭行事予定の看板で標石が隠れていますが、八坂神社御旅所
(御旅所については、後日、記事にしたいと思います)
冠者殿社(かんじゃでんしゃ)
御祭神 素戔嗚尊(すさのおのみこと)の荒魂(あらたま)
祭 日 10月20日
八坂神社の境外末社。
官社殿社と表記されることもある。
御祭神は八坂神社と同じであるが、ここは荒魂を祭る。
荒魂とは和魂(にぎみたま)と対をなすもので、
神霊のおだやかなはたらきを和魂、猛々しいはたらきを荒魂といい、
全国の神社の本社には和魂を、
荒魂を別に社殿を設け祭るという例が多い。
もとは、烏丸高辻にあった
八坂神社大政所御旅所(おおまんどころおたびしょ)に鎮座していたが、
天正19年に豊臣秀吉の命により、御旅所が現在地に移転した時、
樋口(万寿寺通)高倉の地に移され(現在の官社殿町)、
さらに慶長のはじめに現在地に移された。
明治45年、四条通拡幅に伴い旧社地より南方に後退している。
毎年10月20日の祭りを俗に「誓文払(せいもんばら)い」という。
昔の商人は神様に商売ができることへの感謝と、
利益を得ることに対する償いの意識をもっていました。
この感謝と償いの意識により年一回の大安売りをして、
お客様に利益を還元する商道徳がしっかり守られていました。
この本来の誓文払いの精神を継ぎ、商人の方々は商売繁盛を、
一般の方々は神様の清き心を戴き
家内安全で過ごせるよう願って10月20日に大勢参拝されます。
八坂神社
冠者殿社
御祭神 素戔嗚尊の荒魂
祭 日 10月20日
御神徳 商売繁盛・家内安全
由 緒
冠者殿社は天照大御神に身の潔白を誓約された素戔嗚尊を
誓文払いの神としてお祀りし
商家をはじめ京洛の人々から崇敬を集めています
社前に建つ鳥居は冠者殿社に提灯の灯りを捧げ
誓文払いと商いの伝統を広め伝えることを目的に設立された
冠者殿社崇敬会が設立10周年の節目に奉納したもので
第六十二回式年遷宮による伊勢の神宮の撤去材を以て
平成27年3月29日に竣功しました
時折小雨が降り、少し蒸し暑かったので活を入れようと
カレーうどんを戴きました(*´▽`*)
この値段(520円)でこんなに美味しいんだとびっくりです!
気をつけたいのは、紙のエプロンは提供されなかったです。
Kazeは、タオルを首に巻いていたので代用にしましたが(^_-)
御旅所の裏にある「永正亭(えいしょうてい)」です。
明治時代に創業されたとのこと。
老舗のお店なのに安くて美味しいです(*´▽`*)
(赤い扉は別の店です(^_-)-☆)
聖光寺(しょうこうじ)
錦陵山(きんりょうざん)と号し、浄土宗鎮西派に属する寺である。
寺伝によれば、当地には平安時代後期、仏師康慶(こうけい)の居宅があり、
その後園に浄土宗第二祖聖光房弁長(しょうこうぼうべんちょう[鎮西上人])の草庵があったといわれている。
弁長はここから8年間、法然上人の許に通い、
浄土宗の法灯を受け継いだと伝えられている。
当寺は元久元年(1204)弁長の帰郷に際し、
康慶がその別離を悲しみ、
弁長自身の真影をこの草庵に奉安し、
聖光庵と名付けたことに始まるといわれている。
本堂には、鎌倉時代の作と伝えられる嵯峨式釈迦如来立像を安置し、
寺宝として清海曼荼羅(せいかいまんだら)、
当麻曼荼羅(たいままんだら)の二幅を蔵している。
また、境内には大石良雄の母と、
綿屋善右衛門好時(わたやぜんえもんよしとき[天野屋利兵衛(あまのやりへい)])の墓がある。
京都市
こんばんは~
返信削除ほんとうにすごく調べていらっしゃいますね。
崇徳天皇の箇所の和歌のところで。
高校の時に百人一首を覚える時間を思い出しました。(^-^;
せをはやみ~~と。。。
讃岐の国に幽閉されていたのですね。
たぶん、ここは忘れないと思います。(^-^;
カレーうどん、美味しくてお値段もびっくりの価格。
こちらも忘れないようにします。(^-^;
カイさんこんばんは(^^)/
削除寺院や史跡などにある説明板などを見ているのですが
疲れていて集中して見ることができません(^^ゞ
で、デジカメで写して画像を見ながら転記しているのですが
マニュアル撮影なのでピンボケがあったりして正確に転記しているとは言えないですm(__)m
>せをはやみ~~と。。。
恋歌のような和歌なのですが、崇徳院の人生を思うとまた違った感じがしますよね。
もし、雲井御所跡(くもいごしょあと)を訪ねることがあれば
レポートをお願いします。
京都といえば京料理などが有名ですが
老舗の店でも安くて美味しい店があるのがいいですよね(*´▽`*)