梅雨に入ったと思ったら
セミも鳴きだして蒸し暑さが増していました(・_・;)
ハナグモが隠れているなと写そうとするとシャッターがきれない…
原因が分からずいろいろ試してみたけどカシャッといわない…
最後の非常手段でポンと叩いてショックを与えると動いた( ゚Д゚)
カメラが壊れた可能性があるんだけど
気楽に買い替えられないしな…
通院や父の付き添いの時などに読んでいた
梓澤要さんの『捨ててこそ 空也』が面白かったです(^^♪
発病する前は、山歩きなどをしていて
空也さんゆかりの地を訪ねたり
本を読んだりしていました。
梓澤さんのこの本のおかげで知識だけでなく
空也の人間性が伝わってくるような気がしました。
空海や親鸞などと比べて史料が少ないのに
これほどまでに人物像を創造することができるのは
相当の力量がなければできないと思います。
小説なので歴史的事実とはいえないかもしれないけど
歴史的事実と糸が結びあっているように矛盾を感じない。
播磨国(はりまのくに)の峰合寺(みねあいでら[鶏足寺(けんそくじ)])で
修業を始めた空也が寺奴(てらやっこ)の頑魯(がんろ)と出会う場面に
今まで考えてもみなかったことが描かれていて
そうんなふうに考えると素敵だなと思いました。
その個所を転記しますφ(..)
(「第二章 里へ山へ」より)
考え疲れると外に出て、諸堂を結ぶ小道や、
崖の斜面から湧きだして流れ下る
谷川沿いの道をあてもなく歩きまわった。
そんなときには、猪熊(いのくま)を思い、
喜界坊(きかいぼう)を思い、仲間の男たちを思った。
彼らは今頃どこにいるか。
どこの山の中を、やはりこうして歩いているか。
(『捨ててこそ 空也』梓澤 要 新潮文庫 平成29年)
そんなことをぼんやり考えながら渓流づたいに降りて行くと、
寺奴の若者が谷の水を汲んでいるのを見かけた。
少しばかり知恵が足らぬのか、
動作も鈍く、何をさせても満足にできぬため、
頑魯と呼ばれて誰からも馬鹿にされている若者である。
ひょろりととした大柄だがひどい猫背で、
まるで傀儡(くぐつ)人形のようなぎくしゃくした歩き方をする。
目と目が離れて妙に間延びした赤ら顔、
萎烏帽子(なええぼし)からはみ出た頭髪は赤茶けた縮れ毛、
そのせいか、猿か、四天王に踏みつけられている
天邪鬼(あまのじゃく)のようにもみえる。
年は十六か十七。
五つかそこらのとき、寺の門前にぼんやりたたずんでいたのだと、
堂衆の老人から聞いている。
およそ口減らし捨て子だろうよ、
とその僧は舌打ちしながら言い捨てたが、
自分の名すら言えず、
追い出すわけにもいかなかったということらしい。
貧しい農村では嬰児(えいじ)の間引きや、
口減らしに幼児を人買いに売るのも珍しくない。
寺に捨てたのは、親に多少は情愛があったということか。
以来、寺奴小屋で養われ、水汲みや掃除にこき使われ、
他の寺奴の仕事も押しつけられている。
空也の房にも掃除に来るので顔はよく見るが、
声をかけても口がきけぬわけではなかろうに、
答えが返ってきたことは一度もない。
ただぺこぺこと頭を下げて、
逃げるようにそそくさと出て行ってしまうのである。
その頑魯(がんろ)が水を汲む手を休め、
じっとしゃがみ込んでいる。
何をしているのか、興味を引かれて見ていると、
渓流に向って両掌(りょうて)を合わせているのだった。
「おまえ、何を拝んでいるのかね」
思わず声をかけると、よほど驚いたのか、
それとも叱(しか)られるとでも思ったか、
頑魯は身を硬くしてぼんやりした顔で空也を見つめたが、
やがておずおずとこたえた。
「おらにもようわからん。
だけんども、むかし、坊さまが言うのを聞いたんじゃ」
「ほう。どんなことか、よければわたしにも教えてくれないか」
怯(おび)えて逃げ出してしまわぬよう、笑顔で訊(き)いた。
「叱ったりせぬよ。ただおまえと話したいだけなんだ」
それでも頑魯はなかなか口を開かなかった。
唇を舐(な)めてみたり、両手をもみしだいたり、
萎烏帽子がずり落ちそうになるほど頭を振ってみたり、
落ち着かない様子だったが、
どうやら、どう話したらいいか、思い悩んでいたらしい。
意を決した顔になると、一気にしゃべった。
「坊さまは言っただ。
天竺(てんじく)というところでは、
右手は清浄で、左の手は不浄なんだと。
おらたち人間にも清らかな部分と、
どうしようもなく汚い部分と、両方あるんだと。
それ聞いて、おら、思っただ。
仏さまの前で両手を合わせるのはだからなんか。
おらは馬鹿だから、坊さまたちみてえに経文なんぞ読めねえ。
仏さまはこんな人間なんぞ、救ってくださらねえ。
だから、こうして仏さまに自分のありのままをさらけだして、
こんな者でも救ってくだせえとお頼みするしかねえだ」
言い終わると、ひどくつらそうな、
いまにも泣きだしそうな顔になった。
空也は胸を衝(つ)かれて、しばらく言葉が出なかった。
合掌の意味を考えたことなど、いままで一度もなかった。
人間の心には清らかな部分と汚い部分の両方がある。
それは経典でも論書でもくり返し説かれている。
右手が清浄で、左手は不浄。
その概念も、天竺では古代から言われていることだ。
だが、清らかなおのれと穢(けが)れたおのれを仏の前にさらけ出す。
それが合掌だという概念は、おそらく経典論書のどこにもない。
少なくとも自分は出会ったことはない。
それを、この愚鈍な若者は自分自身で思いついたというのだ。
自分の顔をまじまじと見つめたまま
黙りこくってしまった相手が急に怖くなったか、
頑魯は水桶(みずおけ)を胸にかかえて逃げ出そうとした。
「待ってくれ、おまえはさっき、
この谷川に向って掌を合わせていたろう。
それはなぜだね」
その声音がすがりつくように聞こえたのか、
ふり返った頑魯は信じられぬとでもいうような顔で
ふり返った頑魯は信じられぬとでもいうような顔で
空也を見つめていたが、
不意に黄ばんだ歯を見せて、にっと笑った。
「そりゃあ、山も、水も、空も、風も、どれもこれも、
まるで仏さまみてえな気がするからだ。
どうしてだかわからねえけども、なぜだかそんな気がするだ。
ありがたくて、拝みたくなるだ」
邪心のかけらもない、まっさらな笑顔だった。
「いつもそうやって拝んでいるのかね」不意に黄ばんだ歯を見せて、にっと笑った。
「そりゃあ、山も、水も、空も、風も、どれもこれも、
まるで仏さまみてえな気がするからだ。
どうしてだかわからねえけども、なぜだかそんな気がするだ。
ありがたくて、拝みたくなるだ」
邪心のかけらもない、まっさらな笑顔だった。
そう尋ねると、目に怯えを走らせながらうなずいた。
「いけないことかね?お堂の仏さま方は怒るかね?」
「いいや、いけないもんか。
御仏(みほとけ)はけっして怒ったりはなさらぬよ」
空也は声を震わせてこたえた。
涙がさしのぼるように湧いた。
「坊さまは、なんで泣くだ?おらのせいか?」
「そうではない。ただ驚いているのだ。驚いて、無性に嬉しいのだ」
「嬉しい? 嬉しいってか?」
頑魯はわけがわからぬという顔になり、
しきりにかぶりを振りながら小道を昇っていった。
(オオモモブトスカシバ? スカシバガ科)
その後姿に、空也は自分でも気づかぬうちに掌を合わせていた。
気持の整理はつかないが、
何か大きな啓示を与えられたような気がした。
そんなことがあってからも、頑魯はあいかわらずひどく無口で、
ほとんど口をきくことはなかった。
声をかけると無言のまま、にっと笑う。
空也が自坊にもどると、
雛菊(ひなぎく)や菜の花や野水仙(のずいせん)の花を挿した
竹筒が経机の上に置かれていたりする。
何も語り合わずとも心が通じ合う関係もあることを、
空也は初めて知った。
(『捨ててこそ 空也』梓澤 要 新潮文庫 平成29年)