こんな時は、体調も悪くいろんな不安があるのですが
無理をしない程度にと出かけました。
くちなしの花
漢字で書くと「梔子の花」。
「くちなし」は山地に生え
夏、雪のように白い高い香りのする六弁の花を咲かせるアカネ科の常緑低木。
熟しても実が割れないので「くちなし」の名がついたという。
実から黄色の染料が取れる。
西欧では男性が、好きな女性に贈る花の代表で、
花言葉は「清楚」「洗練」。
「梔子の花」は夏の季語。
辞してなほくちなしの香のはなれざる 中田余瓶
(『花のことば辞典 四季を愉しむ』
倉嶋厚監修 宇田川眞人編著 講談社学術文庫 2019年)
カラスが「ここは自転車放置禁止だよ!!!」と叫んでいました(^_-)
崇徳院御廟の説明の中に阿波内侍(あわのないし)の名が出てきました。
また、『平家物語』の「灌頂の巻 大原御幸」にも
阿波内侍の名が出てくるので(2019年2月12日の記事)
図書室で調べましたφ(..)
なお、崇徳院と阿波内侍のことは
「安井金比羅宮について」にも書かれています。
阿波内侍(あわのないし) 生没年不詳
平安末・鎌倉初期の女性。
『平家物語』に登場する建礼門院徳子の女房。
『平家物語』の中でも信西(藤原通憲)と
紀二位朝子の娘とするものと、
信西の子藤原貞憲の娘とするものがある。
信西の孫真阿弥陀仏などの説もあるが、実在は確認できない。
文治1(1185)年平家滅亡後剃髪し
大原寂光院に遁世の日々を送る建礼門院に、
大納言佐(すけ)と共に尼となって仕え、
女院の最期を看取ったという。
文治2年の後白河法皇の大原御幸で
両院の対面の司会者的役割を果たし、
信西の縁者ともされるため、
『平家物語』の成立との関係、
醍醐寺および安居院(あぐいん)流唱導(しょうどう)との関連などが指摘されている。
(櫻井陽子)
(『朝日 日本歴史人物事典』朝日新聞社編 1994年)
森浩一さんの『京都の歴史を足元からさぐる 洛東の巻』より
「長楽寺」を転記しますφ(..)
長楽寺(ちょうらくじ)
円山公園の南東の東山の中腹に石段をのぼると長楽寺がある。
時宗の寺だから、北から安養寺、長楽寺、正法寺と
時宗の寺が南北に点在している。
(『京都の歴史を足元からさぐる 洛東の巻』
森浩一 学生社 2007年)
『今昔物語』巻十二に姥捨山(うばすてやま)をおもわせる話がある。
長楽寺の僧が仏に供える花を採ろうと山に入った。
日が暮れたので樹の下に野宿した。
亥の時(夜の10時ごろ)にどこかから幽(かすか)に
法華経を唱える声が聞こえてくる。
昼はこの辺りに人がいなかったのにと奇異におもったが、
聞こえてくる。
仙人がいるのかとも考えてみた。
音のするほうへ歩いていくと、
小高くなったところに岩があって年60ばかりの女法師がいた。
女法師は俗世に未練をのこしながらも
ここで死がくるのを待っているのであろう。
女は以上のことを話すと山深く入っていったという。
僧はこの話を弟子たちにした。
入定(にゅうじょう)を覚悟した尼だろうと噂をしたという。
文治元年(1185)に平家一門が関門海峡の壇ノ浦で亡んだとき、
安徳天皇の母の建礼門院も海に身を投げた。
女院の父は平清盛で高倉天皇の中宮である。
入水(じゅすい)のあと源氏の武士が熊手で引きあげ都に帰っていった。
『平家物語』では、女院は文治元年五月一日に御ぐしをおろした。
そのさいの御戒師(かいし)が長楽寺の上人印誓(いんせい[西])で
御布施の安徳天皇の直衣(のうし)を仏具として幡に仕立てて
長楽寺の仏前にかけたということである。
長楽寺には女院のお髪を埋めたという
十三重の石塔が本堂の北側にあるし、
直衣で作った幡も伝えられている。
この寺の収蔵庫では一遍上人や
代々の遊行上人の木像も拝観することができる。
この一遍上人像は上人を描いた『一遍上人絵詞伝』の
一遍の姿とよく似ていて面白く感じた。
『平家物語』ではこの建礼門院にゆかりのある寺として
長楽寺があらわれる。
いずれ大原の寂光院のところで女院のことにふれるので、
さきに長楽寺を見学しておくのもよかろう。
相阿弥が作ったと伝える方丈(ほうじょう)の庭も、
小ぢんまりしていて清々しさを感じた。
(『京都の歴史を足元からさぐる 洛東の巻』
森浩一 学生社 2007年)
森浩一さんが紹介されている
『今昔物語』の説話の現代語訳を転記しますφ(..)
巻第十三
長楽寺僧於山見入定尼語第十二
(ちやうらくじのそうやまにしてにふぢやうのあまをみることだいじふうに)
本話の典拠は未詳。
山中入定の尼が僧を見て俗念を生じ、
多年の修行の功を失ったという奇話。
久米仙人の堕落譚にも一脈通い、
『法華経』の霊験を説くこれまでの諸話とはかなり趣を異にする。
ただし、深夜山中で誦経の声を聞き、
翌朝その正体を知ったという筋立ては
前話の髑髏誦経(どくろずきょう)につながっている。
(『今昔物語 一 日本古典文学全集21』
馬淵和夫他校注・訳者 小学館 昭和46年)
今は昔、京の東山に長楽寺(ちょうらくじ)という寺がある。
そこに仏道修行の僧がおった。
花をつんで仏に供えようと山深く分け入り、
あちこちの峰や谷を歩くうちに、いつか日も暮れた。
そこで、とある木陰に宿ることにした。
亥(い)の時(午後10時)ごろから、
宿っている木のそばで、細くかすかに、
尊い声で法華経を読誦(どくじゅ)しているのが聞こえる。
僧は不思議だと思いながら、一晩じゅう聞いていたが、
「昼間はここにだれもいなかった。仙人などであろうか」
と不審でならない。
だが、尊いことだと聞いているうち、
ようやくあたりが白んできたので、
この声の聞こえてくる方角に向かってしだいに歩いて行くと、
地面より少しもり上がって何かが見える。
「だれがいるのだろうか」
と注意して見ると、あたりはもうすっかり明るくなっている。
なんとそれは岩で、
苔(こけ)におおわれ茨(いばら)が生いかぶさっているのだった。
「とすると、あの経を誦(ず)していた声はどこだったのだろう」とやはり不思議で、
「もしかしたら、この岩の上に仙人がすわって
経を誦していたのではないか」
とまことに尊い思いがして、
しばらく見つめて立っていると、
にわかにこの岩が動くけはいがして高くなった。
これは不思議と見ていると、
岩が人になり、立って走り出そうとする。
見ると、年60ほどの女法師だ。
茨は、立つに従ってばらばらになって切れてしまった。
僧はこれを見て恐ろしくなり、
「いったいこれはどうしたことです」
と聞くと、女法師は泣く泣く答えた。
「わたしは長年の間ここにおりましたが、
かつて愛欲の心を起こしたことはありません。
ところが今、あなたが来たのを見て、
『あれは男か』と思ったとたん、
悲しいことにもとの人間の姿になってしまいました。
人間の身ほど罪深いものはありません。この上は、
過ぎ去った年月よりもっと長くかかって、
どうやら前のようになれるでしょう」。
こう言って泣き悲しみながら山の奥深く歩いていった。
この話は、僧が長楽寺に帰って来て語ったのを、
その弟子が聞いて世間に語り伝えたものである。
これを聞くと、入定(にゅうじょう)の尼でさえかような次第だから、
まして世間普通の女の罪はどれほど深いものだろうか、
思いやることができよう、とこう語り伝えているということだ。
長楽寺 宇多天皇の御願寺という。
双林寺の北、祇園の東、今の京都市東山区円山公園の地内に現存。
もと延暦寺の別院であったが、法然の弟子隆寛の時に浄土宗となり、
さらに国阿の時に時宗に転じた(拾芥抄・山城名勝志など)。
入定 禅定に入ること。
禅定は仏道修行の一行法で、精神を集中し、
身(しん)・口(く)・意(い)の働きをとどめて
ひたすら真理を考究する行為。
(『今昔物語集一 日本古典文学全集21』
馬淵和夫、国東文麿、今野達 小学館 昭和46年)